日本大百科全書(ニッポニカ) 「カール・ツァイス」の意味・わかりやすい解説
カール・ツァイス
かーるつぁいす
CarlZeiss AG
「ツァイスのレンズ」で世界的に知られているドイツの代表的光学機器メーカー。「堅牢(けんろう)で、高品質・高性能」という「メイド・イン・ジャーマニー」ブランドを代表する企業の一つである。
[風間信隆]
沿革
1846年に創業者であるカール・ツァイスが、イエナで顕微鏡等の製造を開始したことに起源をもつ。その後1875年に、イエナ大学の員外教授で、新進気鋭の物理学者であったエルンスト・アッベを共同経営者に迎え、研究開発機能を強化した。さらに1883年には、新種のレンズを製造するためにオットー・ショットを迎え、光学ガラス工場を設立し、世界有数の光学・精密機器メーカーに発展した。とくに、アッベの先端的光学技術に基づく顕微鏡や「プリズム式双眼鏡」の開発によって「ツァイス」の名は世界的に知られるところとなった。1888年にカール・ツァイスは没し、アッベが後継者の地位に就き、その後、「資本」の所有と支配を排除し、経営における労働の尊厳と人間性に満ちた経営共同体(「全員無所有の労働共同体」)の実現というアッベ独自の経営理念に基づく経営でも世界的な関心を集めるところとなった。1889年に、アッベは、自分のすべての財産を拠出してカール・ツァイス財団Carl-Zeiss-Stiftungを設立し、財団がツァイス工場等のすべての企業資産を所有する、「財団企業」という独自の形態を実現した。また1900年以降、1日8時間労働の実現、最低賃金制度、年金・退職金制度の実施など、当時としては画期的な労働条件や社会保障制度の実践でも知られていた。
第二次世界大戦の敗戦によりイエナのツァイス工場は解体されたが、1951年には当時の東ドイツ地域にあった同工場は、国有企業カール・ツァイス(イエナ)として再建された。また当時の西ドイツ地域ではカール・ツァイス財団所有のカール・ツァイス社(オーバーコッヘン)が設立され、ツァイスは東西に分断されるところとなった。両社は、その後も順調に発展し、西のカール・ツァイス(オーバーコッヘン)はアメリカの宇宙開発への参加や世界初の高精密測定器の開発に示されるように、最先端の技術力・製品開発力をもつに至った。東のカール・ツァイス(イエナ)も、1962年には東ドイツの精密機械・光学産業のナンバー・ワン企業となっていた。1990年のドイツ統一を受けて、東と西のツァイス2社の統合が図られ、1995年に実現した。
[風間信隆]
その後の動き
その後、バーデン・ウュルテンベルク州大臣が理事長を務めるカール・ツァイス財団(本部はシュトゥットガルト)が、カール・ツァイス社(オーバーコッヘン)とショットAG社(マインツ)の単独所有者となり、さらに、この両社はそれぞれ国内・外の多数の子会社から構成されるグループ企業を傘下に収めている。事業分野は、光学機器のみならず電子機械、半導体、工業用機械などにわたり幅広く展開している。1999年にはトルコの合弁事業(ガラス製品製造)から撤退するなど、大規模なリストラを断行。2007年のカール・ツァイスグループの売上高は26億0400万ユーロ、総資産34億3300万ユーロ、従業員数1万2257。同年のショットグループの売上高は21億4300万ユーロ、総資産23億1300万ユーロ、従業員数1万6671。
[風間信隆]
日本法人
日本ではすでに1911年(明治44)にカール・ツァイス合資会社が設立されていたが、第二次世界大戦後は1961年(昭和36)にカール・ツァイス100%出資の販売子会社(カールツァイス株式会社)が設立され、ツァイス製品の輸入・販売が行われている。資本金5億円、従業員数55(2009)。また、1988年には保谷硝子(ほうやガラス)(現HOYA)とショットとの合弁事業(ホーヤ・ショット。現ホーヤ・カンデオ・オプトロニクス)を開始、光ファイバー関連製品等の製造・販売が行われた。京セラのコンタックスカメラ(2005年事業終了)やソニーのデジタルビデオカメラやデジタル一眼レフカメラにツァイスのレンズが搭載され、一般にもさらに知名度は高まっている。
[風間信隆]
『野藤忠著『ツァイス経営史』(1980・森山書店)』▽『小林孝久著『カール・ツァイス――創業・分断・統合の歴史』(1991・朝日新聞社)』▽『アーミン・ヘルマン著、中野不二男訳『ツァイス 激動の100年』(1995・新潮社)』▽『野藤忠著『ツァイス企業家精神』(1998・九州大学出版会)』