ドイツの光学器械製造家。ワイマールに生まれる。初め医学を志したが、のちに光学器械の製造に転じ、1846年イエナに顕微鏡工場を設立した。よい顕微鏡の製作には光学理論の研究が必要であると考え、イエナ大学の数学、物理学教授であったアッベの協力を求めた。のちにアッベを共同経営者として迎え、また多くの光学ガラスの開発、研究を行っていた化学者ショットにも協力を求め、没後1889年に総合的な光学器械会社カール・ツァイス社が完成した。カール・ツァイス社はアッベによって引き継がれ、さらにカール・ツァイス財団の管理下に移され、優れた光学器械の製造を続けた。1945年第二次世界大戦の終結に伴い、イエナが東ドイツに含まれるようになったが、経営陣と約100人の技術者がアメリカ軍の援助のもとにイエナから西ドイツ領内に脱出し、カール・ツァイス財団はハイデンハイムに、カール・ツァイス社はオーバーコッヘンに、ショットガラス会社はマインツにそれぞれ新しい社屋、工場を建設し、光学器械の製造を続けた。東ドイツのカール・ツァイス社、ショットガラス会社はイエナで生産を続けていたが、1990年東西ドイツの統一に伴い、東西カール・ツァイス社およびそれらの関連会社もカール・ツァイス財団のもとに統一されることになった。その後、東西両ツァイス、ショットその他の関連会社は一体となって再編成を行い、光学機械から電子機械、半導体、工業用機械まで幅広く生産を行っている。
[辻内順平]
ドイツの光学技術者,企業家。ワイマールの生れ。シュトゥットガルト,ベルリンなどの機械工場で修業をした後,1846年にイェーナに精密機械工場を設立し,後年のカール・ツァイス社の基礎を作った。イェーナ大学の植物学者M.J.シュライデンから求められ,顕微鏡を製作するようになり,弟子のレーバーの協力を得て,50年代には拡大率300倍の複式顕微鏡の製作を始めた。一方,光学技術は当時までに,G.F.ライヘンバハ,J.vonフラウンホーファーらにより科学的手法が取り入れられるようになっており,ツァイスも顕微鏡製作に科学的手法を導入するために,66年にはイェーナ大学の光学者E.アッベを,82年には光学ガラスの研究者O.ショットを招き入れた。こうしたツァイスの努力により,顕微鏡などの光学測定装置は著しく精密になり,イェーナ工場は19世紀後半のドイツ光学技術の原動力となった。
執筆者:河村 豊
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…1863年イェーナ大学の私講師として数学,物理学,天文学の講義を担当,78年イェーナ大学教授となり天文台長,気象台長を兼務する。この間,1866年に光学器械製造業者のC.ツァイスと知り合い,ツァイス光学会社の顧問となり光学研究に取り組んだ。光学器械の中でも,顕微鏡の改良が当時の重要課題であり,アッベの理論的研究は,大きくそれに貢献した。…
…人口10万2000(1995)。カール・ツァイス(通称カール・ツァイス・イェーナ社)の顕微鏡,精密測定機具などのほか,高性能ガラス,薬品製造が盛ん。ヨハニス教会(11世紀),市庁舎(14世紀)のある旧市街と今に残る城壁の一部,ツァイス社を中心とする新市街がザーレ川の谷あいに調和よく町を形成している。…
…19世紀の半ばヨーロッパでは,顕微鏡が科学研究の手段として見直され,高性能な顕微鏡への需要が高まっていた。こうした状況下,C.ツァイス(1816‐88)によって1846年,イェーナにつくられた顕微鏡製作所がカール・ツァイス社の始まりである。66年,ツァイスはイェーナ大学の数学・物理学講師E.アッベを招いた。…
※「ツァイス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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