ドイツの物理学者。1月23日アイゼナハに生まれる。1870年イエナ大学教授、1878年同大学天文・気象観測所長となった。1866年からカール・ツァイスの光学工場と協力関係にあり、1875年共同経営者となり、光学機械やレンズの性能向上に力を尽くした。1884年、ツァイス、O・ショットと協力して光学ガラス会社を設立した。1888年ツァイスの死後、カール・ツァイス光学会社の社長となり、政府、大学、労働者がそれぞれ利益を得るような協同企業体に組織がえをして、後の同社の隆盛の基礎を築いた。光学ガラスと光学機械の研究と改良に多くの功績を残し、アッベ屈折計、分光器、顕微鏡の照明装置、プリズム双眼鏡の発明や改良で知られている。光学ガラスの分散を表す量としてアッベ数は現在でも広く用いられている。1905年1月14日イエナで没した。
[辻内順平]
アメリカの天文学者、のち気象学者。ニューヨークに生まれる。同市の大学を卒業後、1860年マサチューセッツ州ケンブリッジで天文学者グールドBenjamin Apthorp Gould(1824―1896)の下で仕事をした。さらに1865年にはロシアのプルコボ天文台に留学、シュトルーベの下で天文学を研究した。1867年シンシナティ天文台の台長となり、1868年から同台で天気予報を出すことを創始した。その後ワシントンの陸軍省信号局に勤務し、信号局の気象事務が農務省下の天気局に移されてからは、天気局の技師として没年まで勤めた。アメリカにおける天気予報の創業に尽力したばかりでなく、ヨーロッパの論文を英語訳して編集した気象学論文集は広く後進に読まれ、気象学の専門教育に貢献した。
[根本順吉]
ドイツの物理学者。光学レンズ,光学機器の改良に貢献した。アイゼナハに生まれ,イェーナ大学,ゲッティンゲン大学で物理学を学ぶ。1863年イェーナ大学の私講師として数学,物理学,天文学の講義を担当,78年イェーナ大学教授となり天文台長,気象台長を兼務する。この間,1866年に光学器械製造業者のC.ツァイスと知り合い,ツァイス光学会社の顧問となり光学研究に取り組んだ。光学器械の中でも,顕微鏡の改良が当時の重要課題であり,アッベの理論的研究は,大きくそれに貢献した。73年レンズの分解能の研究から結像理論をたて,光軸近くの像が収差を生じないための正弦条件を導いた。理論研究のみならず,ツァイスおよびショットOtto Schott(1851-1935)と共同で光学ガラスの改良に取り組み,色消しレンズを開発,さらにツァイスとともに顕微鏡の照明装置,液浸式顕微鏡など光学機器に関する数多くの発明,改良を行ってツァイス光学会社の世界的地位を築いた。88年ツァイスの死後,同社の経営を受け継ぎ,企業家としても活躍した。
執筆者:奥山 修平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…こうした状況下,C.ツァイス(1816‐88)によって1846年,イェーナにつくられた顕微鏡製作所がカール・ツァイス社の始まりである。66年,ツァイスはイェーナ大学の数学・物理学講師E.アッベを招いた。アッベは72年に光学計算による世界初の顕微鏡を完成するなど同社の技術水準を飛躍的に高めた。…
※「アッベ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新