日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
キャベンディッシュ研究所
きゃべんでぃっしゅけんきゅうじょ
Cavendish Laboratory
イギリス、ケンブリッジ大学の物理学分野を担う研究所。オックスフォード大学クラレンドン研究所に続いて、1874年実験物理学講座の付属施設として開設された。その名は、設立にあたって多額の寄付により貢献した当時の大学総長第7代デボンシャー公の姓に由来するもので、研究所の創設はイギリスにおける科学技術振興の声を背景としたものであった。初代所長は電磁気学理論で知られるJ・C・マクスウェル、その後レイリー、ついでJ・J・トムソンを所長に迎えた。1895年ケンブリッジ大学は学制改革を実施、他大学の卒業生にも学位の取得の道を開き、その結果、世界各地から若い研究者がやってきて研究所は活気に満ちた。トムソン自ら電子の発見をするなど、自由な学風の下に新しい原子物理学の分野を開拓した。
第一次世界大戦は研究所に暗い影を落とし、研究所のスタッフは国防研究に動員された。しかし、1919年原子核を発見したことで知られるE・ラザフォードを所長に迎え、ふたたび活気を取り戻した。F・W・アストンの質量分析器の開発、J・D・コッククロフトとE・T・S・ウォルトンによる高電圧加速装置で陽子を加速した原子核の破壊実験、J・チャドウィックの中性子の発見、電子の波動性を観測したG・P・トムソンらによる原子核物理学関連の実験的業績、ならびにP・A・M・ディラックやR・H・ファウラーによる量子力学に関する理論的業績などによって世界の物理学界における地位を固め、隆盛期を迎えた。なお、『科学の社会的機能』の著書で知られるJ・D・バナールもこの時期のスタッフの一人であった。
第二次世界大戦期を含む時期の所長はX線の結晶解析でノーベル賞を受賞したW・L・ブラッグであったが、戦時期、研究所のスタッフはふたたび国防研究に動員され、レーダーの研究をはじめとして、ナチス・ドイツの侵攻によって祖国の崩壊の危機に直面した、フランスのジョリオ・キュリーのグループによってもたらされた重水を利用した核連鎖反応の研究、あるいはまた原爆製造計画の一端を担う研究などの軍事機密研究に関与することになった。
第二次世界大戦後、研究所の成果はさらに多彩に展開した。M・ライルの電波望遠鏡を使った宇宙の電波源の調査研究、J・D・ワトソンと共同で行ったF・H・C・クリックのDNAの二重らせん構造の発見、第6代所長を務めたN・F・モットの非金属の金属への「モット転移」の発見的研究、「ジョセフソン効果」で知られるB・D・ジョセフソンの超伝導体の研究、あるいはまたJ・C・ケンドルーらのX線解析によるタンパク質の構造研究などの優れた研究を生み出した。現在、研究所は西ケンブリッジへ移転し、天体物理学、高エネルギー物理学、低温物理学、固体物理化学、半導体物理学、オプトエレクトロニクス(光エレクトロニクス)、物性理論、ポリマー(重合体)&コロイド、生物物理学、ならびにマイクロエレクトロニクス研究、超伝導研究など、その研究は現代を代表する諸分野に展開している。キャベンディッシュ研究所は、これまでに二十数名を超えるノーベル賞受賞者を輩出しているが、同研究所がこのような研究者を生み出しえたのは、気鋭の優れた研究者に恵まれたことにもよるが、時宜にかなった研究組織の編成や研究資金の確保ができたからにほかならない。
[兵藤友博]