ラザフォード(読み)らざふぉーど(英語表記)Daniel Rutherford

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラザフォード」の意味・わかりやすい解説

ラザフォード(1st Baron Rutherford of Nelson, Ernest Rutherford)
らざふぉーど
1st Baron Rutherford of Nelson, Ernest Rutherford
(1871―1937)

イギリスの実験物理学者。「原子物理学の父」とよばれる。ニュージーランドネルソン近郊で生まれる。ネルソン・カレッジに学んだのち、クライストチャーチのカンタベリー・カレッジに入学(1889)、物理学研究に進み、1893年学位を取得した。同年クライストチャーチ学術協会理事。その間、カンタベリー・カレッジで電磁波検知器をつくる(1894)。1895年、奨学金を得てイギリスに渡り、キャベンディッシュ研究所(所長はJ・J・トムソン)に入所、電磁波検知器の改良を手始めに、電磁波信号の送受信を2マイル離れた地点間で成功させた(1896)。これは当時としては壮挙というべき仕事であり、実験家としての力量を示すものであった。この1895~1896年には、レントゲンによるX線の発見、ベックレルによる放射能の発見などがあり、それらは物理学における新時代の到来を告げていた。ラザフォードはトムソンに誘われ共同で放射線の研究を開始、1896年11月、X線に照射された気体中の電気伝導に関する論文を発表した。

 1898年9月、カナダのマックギル大学物理学教授としてモントリオールに赴いた。そこで多くの共同研究者に恵まれ、放射能に関する研究を組織的に進め、次のような重要な発見と基礎的法則の確立を成し遂げた。第一は、親友で電子工学教授のオーエンスRobert Bowie Owens(1870―1940)とともに行った放射性気体「トリウム・エマネーション」の発見である。第二は、化学者ソディの協力を得て、このエマネーションの性質を調べ、その結果に基づいて、放射能に関して今日広く一般に用いられる「半減期」の概念を提起(1902)し、放射性壊変の理論を発表(1903)したことである。こうして彼は、混沌(こんとん)としていた放射能現象を解きほぐし、綿密な実験に裏づけられた新しい理論を提起して、既成概念の大変革を含む原子構造の解明に向かっての重要な一歩を踏み出した。

 1907年マンチェスター大学物理学教授に就任、ガイガーとともにα(アルファ)粒子の電荷と本性を解明(1908)、ロイズThomas Royds(1884―1955)とともにα粒子は「ヘリウム原子」であることを証明(1909)した。ついでα線やβ(ベータ)線の散乱実験に着手、ガイガーとマースデンErnest Marsden(1889―1970)の実験(1909)で発見されたα線の後方散乱現象に注目し、ラザフォード散乱公式とよばれる原子核によるα粒子の散乱理論を打ちたて、原子の有核構造という新しい原子構造モデルを発表した(1911)。この有核原子モデルはモーズリーの法則やボーアの量子論と結合し、現代物理学と化学の歴史の新時代の幕開きとなった。

 第一次世界大戦中は潜水艦探知装置の開発に従事、戦後になって、α粒子を窒素原子核に当て水素原子核をたたき出すという、初めての原子核人工変換に成功(1919)した。同年キャベンディッシュ研究所所長に就任し、原子核人工変換の研究を進め、チャドウィックカピッツァアップルトンコッククロフトをはじめとして多くの研究者を育て、数々の重要な成果をあげた。プロトン(陽子)の命名、中性子や重水素(ジュウテリウム)の存在の予言(1920)、放射能による年代測定法(1920)も彼によるものである。またナチスに迫害されているユダヤ人学者救済にも活躍した。1908年、「元素の崩壊、放射性物質の化学に関する研究」によりノーベル化学賞受賞、1914年ナイト、1931年バロンの爵位を受けた。1937年10月19日不慮の事故で死去、ウェストミンスター寺院ニュートンの墓の近くに埋葬された。

[大友詔雄]

『N・C・アンドレード著、三輪光雄訳『ラザフォード 20世紀の錬金術師』(1967・河出書房新社)』『T・J・トレン著、島原健三訳『自壊する原子 ラザフォードとソディの共同研究史』(1982・三共出版)』


ラザフォード(Daniel Rutherford)
らざふぉーど
Daniel Rutherford
(1749―1819)

イギリスの医師、化学者、植物学者。小説家W・スコットの叔父。父ジョンJohn Rutherford(1695―1779)はエジンバラ大学医学教授。同大で医学を修め(1772)、1775年に開業。のちに同大植物学教授(1786)。1772年、ブラックの指導を受けた博士論文「いわゆる固定空気、または毒気について」において、ハツカネズミを入れた容器中の空気からアルカリ処理によって炭酸ガスを除き、燃焼にも呼吸にも適さない新種の気体を得たことを発表。これは、キャベンディッシュやシェーレにわずかに後れをとったが、窒素ガスの発見を告げるものであった。ほかに植物学の著作がある。最高最低温度計に関する論文は、父ジョンの考案にかかわる。

[肱岡義人]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラザフォード」の意味・わかりやすい解説

ラザフォード
Rutherford, Ernest

[生]1871.8.30. ニュージーランド,ネルソン
[没]1937.10.19. イギリス,ケンブリッジ
ニュージーランド生まれのイギリスの物理学者。ネルソン・カレッジを卒業。カンタベリー大学に学んだのち,1895年ケンブリッジ大学に留学,キャベンディッシュ研究所に入所。1898年カナダのマギル大学教授,1907年マンチェスター大学教授,1919年キャベンディッシュ研究所所長,1920年王立研究所教授を兼任。1923年イギリス科学振興協会会長,1925年ロイヤル・ソサエティ会長。電波検知器の考案,気体中のイオンによる電気伝導などの仕事ののち,1898年放射能の研究に転じ,α線β線γ線の別を明らかにし,1902年フレデリック・ソディとともに原子崩壊説を立てた。また 1906~09年にα線がヘリウムの原子核であることを実証。α線の金属箔による散乱の結果から有核原子模型を確立(→ラザフォードの原子模型)。1924年には原子核反応を実現した。物質構造の根本を明らかにしたことのほかにも,生涯を通じて有能な弟子の育成に励んだことなど,その功績は大きい。1908年ノーベル化学賞受賞。1914年ナイトの称号を贈られ,1931年初代ラザフォード・オブ・ネルソン男爵に叙せられた。

ラザフォード
Rutherford, Daniel

[生]1749.11.3. エディンバラ
[没]1819.11.5. エディンバラ
イギリスの化学者,植物学者,医者。エディンバラ大学で医学を修める。同大学植物学教授兼植物園園長 (1786) 。王立病院医師 (91) 。リンネ協会会員 (96) 。 J.ブラック (炭酸ガスの発見者) に師事し,その示唆を受け,空気の成分のうち物の燃焼に役立たない物質を研究,1772年学位論文にまとめた。それによれば密閉した容器の中で,ろうそくとリンを燃やし,その残気をアルカリ液で処理したところ,アルカリ液に溶ける二酸化炭素 (当時は固定空気と呼ばれた) のほかに,溶けずに残る「有毒空気」が存在することを発見,これを当時のフロギストン説によって「フロギストン飽和気体」であるとした。数年後,A.ラボアジエがその詳しい性質を研究し,これが新しい元素 (現在の窒素) であることを解明した。

ラザフォード
Rutherford, Samuel

[生]1600
[没]1661
スコットランドの新教徒聖職者。エディンバラ大学に学んで聖職につき (1627) ,アルミニウス主義批判の論文により非国教徒の嫌疑を受け,停職処分にされた (36) 。清教徒革命に際しては,スコットランド側委員として,1643年ウェストミンスター宗教会議に出席。その間,38年セントアンドルーズ大学神学教授,51年同大学学長。護国卿政権反対の運動に加わったが,王政復古により教職を奪われた。『法は王』 Lex rex (44) の著書で,法は王の上にあると説き,王権神授説に反対した。

ラザフォード
Rutherford, Dame Margaret

[生]1892.5.11. ロンドン
[没]1972.5.22. バッキンガムシャー,シャルフォントセントピーター
イギリスの女優。 1925年年齢的には比較的遅く演劇生活に入ったが,個性的な喜劇女優として認められた。当り役は O.ワイルドの『まじめが肝心』のプリズム (1939) やブラックネル夫人 (47) ,W.コングリーブの『世の習い』のウィッシュフォード夫人 (53) など。

ラザフォード
Rutherford, Mark

[生]1831.12.22. ベッドフォード
[没]1913.3.14. ケント,グルームブリッジ
イギリスの小説家。本名 William Hale White。長らく海軍省に勤務したが,『自叙伝』 The Autobiography of Mark Rutherford (1881) によって文筆生活に転じ,内面生活の真摯な告白によって注目された。

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