日本大百科全書(ニッポニカ) 「レイリー」の意味・わかりやすい解説
レイリー
れいりー
3rd Baron Rayleigh, John William Strutt
(1842―1919)
イギリスの物理学者。第3代レイリー男爵、本名はジョン・ウィリアム・ストラット。エセックスのラングフォードグローブに生まれ、幼少年時代は体が弱く初期の教育は中断しがちであった。1861年ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学。ストークスに数学を学び、1865年数学優等試験に合格し、スミス賞を受けて卒業、翌1866年トリニティ・カレッジのフェローに選ばれた。アメリカに旅行後の1868年、実験設備を買い集めて領地に私的実験室を創設した。1872年ひどいリウマチ熱に冒され、冬をエジプト、ギリシアで過ごし、1873年帰国。まもなく父が死亡したため男爵の地位を継ぎ、7000エーカー(約2835ヘクタール)の領地管理に専念するが、1876年から経営の仕事を弟にゆだね、科学的活動を再開した。1879年には実験物理学教授としてマクスウェルの後を継いでケンブリッジのキャベンディッシュ研究所所長になり、1884年まで、とくに教育体制の確立に尽力した。1885年から1896年王立協会(ロイヤル・ソサイエティー)書記官、1887年から1905年チンダルの後継者として王立研究所(ロイヤル・インスティチューション)自然哲学教授、1905年から1908年王立協会会長、1908年から1919年に死ぬまでケンブリッジ名誉総長を務めた。
初期は光学や振動系の数学的研究に力を注ぐが、のちには音響、電気、磁気、流体力学などで名を残す貢献をし、古典物理学といわれる19世紀物理学のほぼ全分野にわたって研究を行った。とりわけ音響学、弾性波の研究には優れ、リウマチ熱の療養中に執筆したといわれる『音響学』Theory of Sound全2巻(1877~1878)は、名著として知られる。
1882年に気体密度の再決定を提案。空気から分離された窒素は化学化合物から分離した窒素よりも重いことを明らかにし、その差を未知の元素の存在によるものと結論、1894年にはラムゼーとともに不活性気体アルゴンを発見した。この業績によって1904年ノーベル物理学賞を受けた。彼の仕事は古典分野に限られ、機械論的自然観の制約がみられるが、プランクらの仕事に注目し、1900年電磁理論とエネルギー等分配の法則からレイリー‐ジーンズの放射法則として知られる式を導いた。実験分野でも2光線干渉計や音の強さを絶対測定する装置のレイリー板を考案。また、マクスウェルの後を受け継いで電気単位の精密測定に貢献した。
[高橋智子]