もっと(読み)モット

デジタル大辞泉 「もっと」の意味・読み・例文・類語

もっ‐と

[副]事物の程度や状態が、さらにその度を強めるさま。いっそう。「八月になるともっと暑くなる」「もっとこっちへ寄りなさい」
[類語]更にますます一層いよいよよりも少しずっとまだもう少しなおなおさら一段と弥が上にもうあと余計然も今一つもう一ついまいち今少しもそっとぐっとぐんとましていわんや数段段違い層一層しのぐうんとだいぶ余程遥かひとしおうたた尚尚なおなおなお以て更なるひときわいや増すなお且つかてて加えてそれどころそればかりかしかのみならずのみならず加うるにおまけにまた且つまた且つこの上その上しかもさてはさなきだに

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精選版 日本国語大辞典 「もっと」の意味・読み・例文・類語

もっ‐と

  1. 〘 副詞 〙 すでにあるもの、または示されたものに、さらにその量や程度をつけ加えるさま、要求する意を表わす語。その上に。なお一層。
    1. [初出の実例]「『どこへなりと行ますべい』『そんならもっと、身重(みへ)をして来やうものを』」(出典:洒落本・辰巳之園(1770))

モット

  1. ( John Raleigh Mott ジョン=ローリー━ ) アメリカのキリスト教青年運動の指導者。YMCA運動の組織者。のち世界学生キリスト教連盟を結成。一九四六年、ノーベル平和賞を受賞。(一八六五‐一九五五

もっ‐と

  1. 〘 副詞 〙 虎の鳴き声を表わす語。
    1. [初出の実例]「二虎共にもっとほえて」(出典:大淵代抄(1630頃)三)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「もっと」の意味・わかりやすい解説

モット(Nevill Francis Mott)
もっと
Nevill Francis Mott
(1905―1996)

イギリスの物理学者リーズに生まれる。1927年ケンブリッジ大学を卒業。マンチェスター大学物理学講師、ケンブリッジ大学講師を経て、1933年ブリストル大学教授となった。1954年以後はキャベンディッシュ研究所長。初め原子核や原子の衝突現象の研究を行い、クーロン場による電子の散乱などを論じた。マッセイHarrie Massey(1908―1983)との共著『原子衝突の理論』The Theory of Atomic Collisions(1933)はこの分野の代表的な書である。ついで固体量子論の研究に転じ、金属・合金、半導体結晶塑性など多方面で成果をあげた。代表的な仕事に強磁性遷移金属の遍歴電子モデルに関する研究(1935)があり、また1949年には化合物磁性体の研究から金属・絶縁体転移を予言したが、これは磁性理論史上重要な意義をもつ。半導体については整流理論(1939)や励起子(1938)に関する多くの研究があり、誘電体の色中心の機構(1938)、写真感光機構の理論(1938)も知られている。

 結晶塑性物理学の発展に果たした役割も大きい。テーラーGeoffrey Ingram Taylor(1886―1975)による結晶の転位概念の導入以来、1950年代初めまでの古典論を今日みるような転位理論に発展させたのはモットらのイギリスの研究者たちで、モットには、転位のすべり運動の理論(1948)、ラセン転位理論(1950)などがある。また前記『原子衝突の理論』をはじめ、ジョーンズHarry Jones(1905―1986)との共著『The theory of Properties of metals and alloys』(金属・合金の物性論。1936)、ガーネイ Ronald W. Gurney(1898―1953)との共著『Electronic Processes in Ionic Crystals』(イオン結晶の電子論。1940)などの優れた教科書を著した。1977年、アンダーソンバン・ブレックとともに、乱れた系の物性に関する理論的研究で、ノーベル物理学賞を受けた。

[常盤野和男]

『モット、マッセイ著、高柳和夫他訳『衝突の理論』上下(新版・1975~1977・吉岡書店)』


モット(Lucretia Coffin Mott)
もっと
Lucretia Coffin Mott
(1793―1880)

アメリカの社会運動家、奴隷制廃止運動家、クェーカー牧師。マサチューセッツ州ナンタケット生まれ。夫ジェームズ(1788―1868)とともに奴隷制廃止運動に参加、1833年のアメリカ奴隷制反対協会設立に尽力した。1840年、ロンドンの世界奴隷制反対会議にアメリカ代表として出かけたが、女性であることを理由に出席を拒否され、女性の権利のために闘うことの必要性を痛感した。このとき、同じ志を抱くエリザベススタントンに出会い、1848年、彼女とともに、ニューヨーク州セネカ・フォールズでアメリカ最初の女性の権利のための大会を開催した。また1850年代には、逃亡奴隷の避難所として自宅を開放するなど、奴隷制廃止運動においても活躍した。生涯一貫して、黒人と女性の権利のために働き続け、アメリカでもっとも影響力のある社会運動家の一人に数えられた。

[有賀夏紀]


モット(John R. Mott)
もっと
John R. Mott
(1865―1955)

アメリカが生んだYMCA運動と世界教会運動の世界的指導者。ニューヨークに生まれる。コーネル大学在学中にD・L・ムーディの感化でYMCAに入り、とくに大学生間のキリスト教伝道を組織、推進し、日本にも10回もきて指導した。キリスト教諸運動の世界的な一致協力のために努力し、世界YMCA、世界学生キリスト教連盟、国際宣教協議会世界教会協議会などの結成に先駆的な役割を果たし、それぞれの会長を歴任した。1946年に同じくアメリカの社会改革者ボルチとともにノーベル平和賞を受けた。

[古屋安雄 2018年1月19日]


モット(Frank Luther Mott)
もっと
Frank Luther Mott
(1886―1964)

アメリカのジャーナリズム学者。アイオワ州に生まれる。1907年シカゴ大学を卒業。アイオワの新聞社で10年間働いたのち、コロンビア大学で修士号を取得した。1927年から1942年までアイオワ大学新聞学部教授、以後1951年引退するまでミズーリ大学の新聞学部教授・学部長。1939年には『アメリカの雑誌の歴史』A History of American Magazines(1938)でピュリッツァー賞(歴史部門)を受賞。1947年(昭和22)3月、GHQ(連合国最高司令部)の新聞顧問として来日した。約2か月間の滞日中、新聞社幹部をはじめ、新聞学関係者、大学や専門学校の学生新聞編集者などとの懇談、講演会を通じて、終戦直後の日本のジャーナリズム教育・指導に尽力した。『アメリカの新聞』The News in America(1952)などの著書がある。

[鈴木ケイ]

『皆藤幸蔵訳『アメリカの新聞』(1955・時事通信社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「もっと」の意味・わかりやすい解説

モット
Lucretia Coffin Mott
生没年:1793-1880

アメリカのクエーカー派牧師で,夫ジェームズとともに奴隷制廃止運動,女性の権利のための運動を指導。1833年,アメリカ奴隷制反対協会組織の際,会規約起草を手伝ったが女性の加入は認められなかったため,フィラデルフィア女性奴隷制反対協会を設立した。40年,ロンドンでの世界奴隷制反対大会にアメリカ代表として臨んだが女性の出席を拒否された。このとき知り合ったエリザベス・スタントンとともに,8年後,セネカ・フォールズで女性の権利のための大会を開き,アメリカ女権運動の端緒をつくった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「もっと」の意味・わかりやすい解説

モット
Mott, Lucretia

[生]1793.1.3. マサチューセッツ,ナンタケット
[没]1880.11.11. ペンシルバニア,アビントン近郊
アメリカの社会改革運動家,女権運動家。旧姓 Coffin。若い頃勤めた小学校で,男女の差だけで給料が半分であったことから,女権問題に興味をもった。 1811年同僚の J.モットと結婚,フィラデルフィアに移り,夫妻ともフレンド協会に入会。ともに反奴隷制協会に加わり彼女は婦人部長として活躍。 40年夫とともにロンドンの世界反奴隷制会議にアメリカ代表として参加したが,女性であるため出席を拒否された。これ以後もさらに婦人の権利を主張し,48年 E.スタントン夫人とともにニューヨーク州セネカフォールズにおいて婦人の地位と権利拡大のための大会を主催。その後も黒人,婦人の解放,地位と生活の向上,平和運動にその生涯を捧げた。

モット
Mott, Sir Nevill (Francis)

[生]1905.9.30. リーズ
[没]1996.8.8. バッキンガムシャー,ミルトンケーンズ
イギリスの理論物理学者。ケンブリッジ大学卒業後,マンチェスター大学講師 (1929) ,ブリストル大学教授 (33~48) を経て,ケンブリッジ大学教授 (54~71) 。ロイヤル・ソサエティ会員 (36) 。初めは原子核物理学を専攻し,N.ボーアや E.ラザフォードとともに研究したが,その後,興味の中心を金属,半導体,写真乾板などに移し,のちには非晶質体の電気伝導の研究もした。原子核による粒子線の散乱,伝導体と絶縁体との間の転移を表わす公式などにモットの名を冠したものがある (→モット転移 ) 。 1962年ナイトの称号を授けられ,77年ノーベル物理学賞を授与された。

モット
Mott, John Raleigh

[生]1865.5.25. ニューヨーク州,リビングストン
[没]1955.1.31. フロリダ,オーランド
アメリカの宗教活動家。 1888~1915年 YMCA国際事務局の書記をつとめる。 1910年エディンバラで開かれた世界宣教会議で議長。同会議は近代教会統一運動のさきがけであり,最終的に世界教会協議会 (WCC) の成立にいたった。 21~42年世界宣教協議会議長,26~37年 YMCA世界同盟会長。 46年ノーベル平和賞を E.G.ボルチと共同受賞。 48年 WCC名誉会長に選出される。

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百科事典マイペディア 「もっと」の意味・わかりやすい解説

モット

英国の物理学者。ケンブリッジ大学卒。1933年ブリストル大学教授,1954年キャベンディシュ研究所長。原子核などの衝突現象,固体量子論,乱れた系の物性等を研究。1977年P.W.アンダーソン,J.H.バン・ブレックとともにノーベル物理学賞。

モット

米国のキリスト教青年会(YMCA)指導者。世界宣教と世界教会運動の中心的人物として活躍した。1946年ノーベル平和賞。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「もっと」の解説

モット Mott, Frank Luther

1886-1964 アメリカのジャーナリズム学者。
1886年4月4日生まれ。GHQの新聞顧問として昭和22年(1947)来日。約2ヵ月滞在し,新聞社幹部,学生新聞関係者などを指導した。アイオワ大,ミズーリ大の新聞学部教授で,1939年ピュリッツァー賞を受賞。1964年10月23日死去。78歳。アイオワ州出身。シカゴ大卒。著作に「アメリカの新聞」。

モット Mott, John Raleigh

1865-1955 アメリカのキリスト教伝道者。
1865年5月25日生まれ。YMCA運動の指導者,国際宣教協議会会長。日本には明治29年(1896)以来10回おとずれ,日本YMCA活動の発展につくす。1946年ノーベル平和賞。1955年1月31日死去。89歳。ニューヨーク州出身。コーネル大卒。

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367日誕生日大事典 「もっと」の解説

モット

生年月日:1785年8月20日
アメリカの外科医
1865年没

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世界大百科事典(旧版)内のもっとの言及

【城】より


【中世】
 西欧中世初期の封建領主は,ほとんどすべて簡素な木造の建物に住み,その周囲を土塁や木柵で囲む程度の防衛施設しかもたなかった。やや進んだ形式を備えるようになったのはノルマン人騎士たちの居城で,〈モット・アンド・ベーリーmotte and bailey〉システムと呼ばれる。モットは小丘のことで,円形の空堀を掘り,その土で中央に小山を築き,その頂上に丸太杭を密接させて打ち込んで円塔形の天守(キープkeep,ドンジョンdonjon)をつくり,それを城主の居館とした。…

【婦人参政権運動】より

…大衆の前で奴隷制廃止を訴えたグリムケ姉妹は,自分たちが女性であるためにその行為を非難されたことを知り,奴隷の権利とともに女性の権利を要求するようになった。L.C.モットE.C.スタントンも,同様な経験から女性解放の必要性を痛感し,48年,スタントンたちはニューヨークのセネカ・フォールズで女性の大集会を開いた(セネカ・フォールズ会議)。これはアメリカ合衆国における婦人参政権運動の開始を告げる集会となり,ここで採択された〈所信宣言〉には,婦人参政権をはじめ,女性解放のための諸要求が列挙された。…

※「もっと」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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