改訂新版 世界大百科事典 「ギュイエンヌ」の意味・わかりやすい解説
ギュイエンヌ
Guyenne
フランス南西部の旧州名。この呼称はアキテーヌのなまったものであり,イギリスの領有下にあった13世紀中ごろから公的にも用いられるようになった。その領域は中世を通じて英仏両王の抗争によりはなはだしく変動し,また同義語としてガスコーニュの呼称も用いられたが,近代に入っては主としてガロンヌ川以北の地域をさし,その南,ピレネーに至る地域をこれと区別してガスコーニュと呼ぶ。アンシャン・レジーム下には,両者は,あわせて一つの広大な総督管区gouvernementを構成した。
ギュイエンヌは,ガスコーニュはもとより,その他の隣接する諸州との間にも明確な地理的境界をもたず,また,その内部においても統一性を欠き,ボルドレ(ほぼ今日のジロンド県にあたる),ペリゴール(ドルドーニュ県),アジュネ(ロット・エ・ガロンヌ県),ケルシー(ロットおよびタルン・エ・ガロンヌ県),ルエルグ(アベイロン県)の諸地方が区別される。地形上,それらの地方はジロンド河口の砂地から,ガロンヌ下・中流域の多くの小丘に区切られた沖積平野,ペリゴールからケルシーに広がる石灰岩台地,そしてルエルグでは,マシフ・サントラルを構成する古い結晶岩台地の一部をも含み,ドルドーニュ,ガロンヌ両川とその支流が,ほぼ東西に平行して流れている。多様で細分化された地形は,目だった要衝のないこともあって,ボルドー以外にこれといった都市を発達させず,自立的で独自性の強い小地方を分立させた。そしてボルドーの支配力も十分に強くはなく,とくにケルシー,ルエルグの大部分は,歴史的にもトゥールーズの影響圏内にあった。
ギュイエンヌの人々には,個人主義的傾向が著しいと言われるが,こうした地方の分立状態を,その要因の一つとして挙げることもできるであろう。この個人主義は,たとえば,モンテーニュやモンテスキューをはじめ,この地方の生んだ多くのモラリスト的傾向の思想家,作家の場合には,人間についての覚めた認識にもとづいた調和のあるヒューマニズムとして現れる。だが,他方では,この個人主義は,19世紀ギュイエンヌの支配者層においては,目先の個人的利害のみに固執する退嬰的な現実主義となり,今日に至るこの地方の停滞をもたらす要因の一つともなった。
フランス第5位の大都市ボルドーと有名なブドウ栽培地とをもつボルドレは別として,ギュイエンヌの他の諸地方では,19世紀中ごろから離農による人口減少が始まり,もっとも激しいロット県の場合,最大人口の約2分の1にまで減少した。今日,ドルドーニュ,ガロンヌ両川と支流のロット,タルンの谷では,果物,野菜の集約的栽培が成果をあげ,また,ロカマドゥールなどの中世史跡やパディラックの鍾乳洞など観光資源に恵まれたケルシー,先史遺跡の点在するドルドーニュの谷などでは観光産業の発達も見られるが,全体としては依然ほとんど工業化の進まぬままに,停滞状態にとどまっている。
執筆者:井上 尭裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報