改訂新版 世界大百科事典 「ペリゴール」の意味・わかりやすい解説
ペリゴール
Périgord
フランス南西部の歴史的地方。今日のドルドーニュ県にあたる。リムーザンと接する北東部の古生代の結晶岩台地や南西部の肥沃なドルドーニュ川の段丘地帯など周辺を除けば,大部分が第三紀の石灰岩の低い台地からなり,ドルドーニュ川とその支流ドロンヌ川,イル川がそれを刻んでいる。
ドルドーニュ川のもう一つの支流ベゼールVézèreの谷は,世界有数の先史時代遺跡の宝庫として知られている。レゼジ・ド・タヤックLes Eyzies-de-Tayacの町を中心に,1940年に発見された洞窟壁画で有名なラスコーを含む150もの遺跡が散在し,1863年,ラ・マドレーヌ,ロージュリ両遺跡が初めて調査されて以来,20世紀にかけて,これらの遺跡の発掘調査により,旧石器時代中・後期を中心とした人類文明の発展段階が明らかにされた。
ペリゴールは,歴史的にはアキテーヌの一部をなし,中世後期には,しばしばフランス,イギリス両王朝により争われた。とりわけ,ケルシー,アジュネと境を接する南部,ドルドーニュ川流域は,両者の領地の境界となることが多く,多数の城が築かれ,また,軍事的・政治的・経済的な拠点として,独特な長方形のプランと基盤割りの街路をもち,防備を施されたバスティドbastideと呼ばれる町が建設された。16世紀末から17世紀中葉にかけて隣接するポアトゥー,リムーザン,ケルシーなどの地方にわたり,1594年の蜂起をはじめとする一連のクロカンの乱と呼ばれる農民一揆が起こった。これらの一揆の原因や性格について解釈は多様であるが,この時期に建てられた無数の城や館に示される貴族の富や威信と,対照的な多くの小分益小作農民の貧困が背景にあったことは疑いない。しかし,ペリゴールの地主貴族は,ブドウやクルミなどの商品作物の栽培や18世紀に盛んに行われた製鉄によって受益した少数の貴族は別として,大部分が因襲的・閉鎖的で,それに代わるブルジョアジーの発展もみられなかった。したがって南西フランス全体が経済的不振に悩む19世紀になると,ペリゴールははなはだしい貧困と衰退に陥ることになる。未開で荒々しく迷信的というペリゴールの人々についての伝統的なイメージは,この貧しさに由来する。離村による人口減少は早くも19世紀中ごろに始まり,世紀末から20世紀初頭にかけて著しい。
今日のペリゴールは,依然,工業化・都市化の進まぬ農村地帯である。中小農民が大多数を占め,穀物を主としたポリカルチャーが行われ,地域ごとに多様な特産作物が栽培されている(ブドウ,タバコ,果実,イチゴなど。とりわけ,トリュフとクルミは有名)。また畜産や家禽の飼育も盛んで,フォアグラの主産地として知られている。一部で進みつつあるこうした農業の近代化とともに,近年急成長をみた観光がペリゴールの発展を担うものとして期待されている。森と川のつくり出す優れた自然景観と田園風景,豊かな史跡,多様な屋外活動の機会,有名な料理など,とりわけサルラSarlatを中心とした〈ペリゴール・ノアール〉は,フランス有数の観光地となっている。
執筆者:井上 尭裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報