古代ギリシアの神。豊穣とブドウ酒の神とされ,その崇拝は集団的興奮のうちに恍惚(こうこつ)境に入る祭儀を伴った。彼にはまた小アジアのリュディア語に由来するバッコスBakchosの別名があり,ローマ神話ではこちらを採ってバックスBacchusと呼ぶ。バッカスはその英語読み。
神話では,彼はゼウスとテーバイ王カドモスの娘セメレSemelēの子とされ,人間の女を母とする彼がオリュンポスの神々の列に加わるまでの経緯が次のように語られる。ゼウスに愛されて子を宿したセメレは,これを嫉妬(しつと)したゼウスの妃ヘラに欺かれ,雷電をもつゼウスに神本来の姿で訪れるよう願ったため,その雷にうたれて焼け死んだが,ゼウスは彼女の胎内から嬰児(えいじ)を取り出し,みずからの腿(もも)に縫い込んで月満ちるのを待った。こうして誕生したディオニュソスは,まずカドモスの娘イノInōに託された。しかしヘラがイノを狂わせたので,ゼウスは彼をひそかにニュサ(所在不明の神話上の地名)まで運ばせ,その地のニンフたちに養育させた。成長後,彼はブドウの木を発見し,ブドウ酒の製法を知ったが,こんどは彼自身がヘラに狂わせられ,エジプトとシリアをさまよった末,フリュギア(小アジア北西部のトラキア人の居住地)で大母神キュベレに狂気を癒され,彼女から密儀を伝授された。
いよいよ,人間にブドウの栽培を教えつつ,みずからの神性を認めさせてその祭儀を広める時が来た。彼はまず小アジアを征服,ここで獲得したおもに女性からなる熱狂的な信者たち(バッカイBakchai〈バッコスの信女〉,マイナデスMainades〈狂乱の女〉などと呼ばれる),またいつも彼につき従うサテュロスやシレノスSilēnosなどの山野の精を引き連れて,次はギリシアへと歩を進めた。途中,トラキアでエドネス族の王リュクルゴスに迫害されたのを皮切りに,ギリシアの各地で妨害を受けたが,それらはいずれも彼の神威の前には空しい抵抗にすぎなかった。エウリピデスの悲劇《バッコスの信女》(前405上演)は,彼が従兄ペンテウスPentheusの治めるテーバイに来たときのできごとを描いたもので,それによれば,王の母アガウエAgauēをも含むテーバイの女たちが狂乱の信者の仲間に加わって,松明やテュルソスthyrsos(蔦(つた)を巻き,先端に松笠をつけた杖)を振りまわしつつ山野を乱舞し,陶酔の極に達するや,野獣を引き裂いてくらうなどの狂態を示すに及んだとき,彼の神性を認めようとしないペンテウスは,これを阻止せんとして,かえって母親たちにキタイロンの山中で八つ裂きにされたという。このようにしてみずからの神性を世界中に認めさせたあと,彼は冥府から母セメレを連れ戻して彼女とともに天に昇り,オリュンポスの神々の仲間入りをしたとされる。
ディオニュソスは,陶酔宗教の主神とでも称すべきその中核部分を,広くトラキア,マケドニア地方で集団的熱狂と興奮を伴う祭儀によって崇拝されていた豊穣神の伝来に,またブドウ酒の神としての一面を,小アジアのフリュギア,リュディア地方で樹木や果樹の精霊としてあがめられていた神格の渡来に負って成立した神である。その崇拝は,神話が示唆するように,ある時期に,為政者の禁令をものともせず,おもに女性の間で熱狂的な支持を得て野火のようにギリシア中に広まったものと考えられる。それはやがて,彼がデルフォイのアポロン神殿において,アポロンが神殿を留守にする冬の間を預かる神としてまつられるに至って,いくぶん鎮静された形で公的宗教の中に受け入れられた。その一方,彼はザグレウスZagreusの名の下にオルフェウス教の大神に,またイアッコスIakchosの名の下にエレウシスの大秘教の主神のひとりとなったため,冥界とのつながりが生じ,ヘレニズム期以降には彼自身の秘教が大流行した。これはかつての集団的狂乱と陶酔の祭儀とは別の,来世での幸福を願うもので,海を渡ったイタリアでも人気を保ちつづけた。有名なポンペイの〈秘儀荘〉の大壁画はそのようすを描いたものである。彼はまたギリシア最古のブドウ栽培地のひとつと伝えられるアッティカ地方北西部の小村エレウテライにささやかな社を献じられていたが,この社が前6世紀の中ごろ,ペイシストラトスによってアテナイのアクロポリスの南東麓に遷座させられ,その祭礼たる大ディオニュシア祭に悲劇等の競演が行われたところから,のちに演劇の神ともされた。
彼の聖獣は牡牛,牡ヤギ,ヒョウなど,聖なる植物はブドウ,常春藤(きづた)。美術では,古拙期にはつねに衣をまとい,髯(ひげ)を生やした姿で,古典期以降はやや女性的な体つきをした若者に表現されることが多い。なお,〈アポロン的〉と〈ディオニュソス的〉という美学上の対立概念は,夢想的・静観的芸術をアポロン型の芸術,陶酔的・激情的芸術をディオニュソス型の芸術と名づけ,両者の総合がギリシア悲劇にほかならないと論じたニーチェの処女作《悲劇の誕生》(1872)に由来するものである。
執筆者:水谷 智洋
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古代ギリシアの自然の繁殖力,特にブドウの神で,別名はバッコス。トラキアから伝わり,前7世紀以後その信仰はボイオティアとアテネで盛んになった。アテネのディオニュソス祭典ではドラマが競演された。
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…元来はディオニュソス神信仰における一つの儀式をいい,オルギア,オルギーとも呼ばれる。ギリシア神話のディオニュソス神(別名バッコス,英名バッカス)の信仰においては,信者たち(女性が中心)が家を捨て,都市を捨て,小鹿の皮で身を包み,霊杖(テュルソス)を持ち,牡牛の姿をしたディオニュソスに従って,松明(たいまつ)をかざして夜の山野に狂喜乱舞したことが知られる。…
… 宇宙生成論よりもさらに重要なのは,この派の人間の生誕についての説であろう。ゼウスは世界の支配を息子のディオニュソスに委ねようとした。だがティタン神たちが嫉妬して子どものディオニュソスを八つ裂きにして食べた(このディオニュソスをザグレウスともいう。…
…後世ギリシア演劇を代表する悲劇,喜劇などの仮面演劇は,それらの伝統芸能の豊かな素地の上に成立した総合芸術である。
【背景と前史】
現存する最古の悲劇,喜劇,サテュロス劇(合唱団が,酒神ディオニュソスの従者として登場する半獣神サテュロスから成り立っている演劇)はいずれも前5世紀中葉の,アッティカ地方の主都アテナイにおける演劇活動の最盛期の産であり,すでにおのおのの完成した文芸形式にのっとるものといってよい。しかしその段階に至るまでの前史については資料が乏しく,多く推測に基づく仮説が唱えられている。…
…こうした諸要素が混交しギリシア神話の枠組みが形成されたのは,かのミュケナイ時代のことと考えられている。神話の中で重要な地名は歴史時代より,むしろミュケナイ時代の勢力配置に符合するし,また,この時代末期の粘土板文書である線文字Bが近年解読され,一番遅くギリシアに到来したと考えられてきたディオニュソス神を含む主要な神々の名がそこに読み取られたからである。ところで神名についてみると,いわゆるオリュンポス十二神のうちで現在確実にインド・ヨーロッパ語として解釈できるのは〈日中の光〉〈大空〉を意味する語に由来するゼウスだけであり,いかにもギリシア的な光明神アポロンさえギリシア語としては解釈できず,したがって大方の神名は先住民より受け取ったものと考えざるをえない。…
…古代ギリシアのオルフェウス教でディオニュソスと同一視される神。蛇の姿に変じたゼウスがペルセフォネと交わって生まれた子で,父神の後継者となるべく養育されていたが,ゼウスの妃ヘラにそそのかされたティタン神たちに八つ裂きにされて食われた。…
…聖書では箱舟を降りたノアがアルメニアのアララト山にブドウを植えたとあり,強健な精気を与えるためのライオンの血と,野生から脱皮させるための子羊の血をかけてブドウを育てたと伝えられている。ギリシアではディオニュソスがブドウの栽培とブドウ酒の醸造をはじめたとしている。メソポタミアでは前4000年ころすでにシュメール人がビールをつくっていたと推定され,エジプトで前3000年ころビールを醸造していたハム語系の諸族は,五穀の神オシリスがビールを教えたと信じていた。…
…古代ギリシアの祭典。祭神はディオニュソスで,古い陽気でエロティックな農民の祭りであったが,悲劇や喜劇の競演が催されるようになったため,文化史上重要な役割を果たした。アテナイには,この名で呼ばれる祭典が三つあった。…
…全48巻。ギリシア神話の酒神ディオニュソス(バッコス)の物語を集成した作品で,内容は,酒神の誕生より青年時代(1~12巻),インド遠征(13~24巻),インド人との戦い(25~40巻),ギリシアへの凱旋と天上への帰還(41~48巻)の四つの部分から成る。ディオニュソス神の恋と冒険の物語であるが,酒神伝説その他当時の宗教研究の貴重な資料ともなっている。…
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[《悲劇の誕生》]
この時期に書かれたのが処女作《悲劇の誕生》(1872)である。有名な〈アポロン的〉と〈ディオニュソス的〉の二つの概念を軸にして古代ギリシアにおける悲劇の成立,隆盛,そして没落が描かれている。アポロンは夢の神であると同時に,夢で見る光り輝く形象の神であり,その形象の規矩正しさという点で知性の鋭敏さに通じる神である。…
…また聖書では,ブドウは神の慈悲の象徴と考えられ,モーセはイスラエル人に対して,摘み残したり地上に落としたブドウの実は放置して貧者に与えよ,と命じている(《レビ記》19:10)。古代エジプトではオシリス,ギリシアではディオニュソス=バッコスにささげられた植物で,これらの豊饒神がオリエント,エジプト,さらにヨーロッパへブドウの栽培を広めてまわったとする伝説も多い。彼らを祭る神殿はブドウづるで飾られ,聖所に不可欠な装飾となった。…
… このように〈酔う〉という目的が希薄で,飲用が食事中に限られて日常化している生活が,ブドウ酒文化の原型である。古代ギリシアに見られる酒宴は,ディオニュソス信仰とブドウ酒の飲用が結びついたもので,この時代には食事とまったく分離した飲み方が流行した。プラトンの対話編《饗宴》によって知られる〈シュンポシオン〉がそれである。…
…ギリシア伝説で,トラキア地方のエドネス族の王。酒神ディオニュソスの崇拝に反対し,その信徒を迫害したため,酒神によって気を狂わせられ,ブドウの木の枝を切っているつもりで息子のドリュアスDryasを切り殺した。その後正気に戻ったが,飢饉のおり,酒神が領民に,王を殺せば作物は実るであろうと告げたので,彼はパンガイオス山中に連行され,馬に殺されたという。…
…エジプトでは悪神セトにささげられた。ギリシアではディオニュソスがその背に乗って沼地を通った礼に,ロバを天界にあげて星座に変えたとか,人間の声を与えたとかいう神話がある。ローマ人はかまど神ウェスタの祭(ウェスタリアVestalia,6月9日)にロバを花やパンで飾った。…
…そればかりか治癒神アスクレピオス,大地母神キュベレも東方から入り,公認の神となった。しかし密儀と乱脈を伴うディオニュソス(バッコス)礼拝は厳しく弾圧された。 拡大に伴ってローマは自らの支配をイデオロギー的に強化すべく新たな守護神に頼ることになった。…
※「ディオニュソス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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