ギリシア三大悲劇詩人の最後の人。およそ10余年年長のソフォクレスとは対照的に,ほとんど公職に就くことなく,一私人として生涯を終えた。前455年に悲劇作家として初登場。彼の作品は92編あったと伝えられるが,現存作品はサテュロス劇《キュクロプス》と偽作《レソス》を含めて19編である。そのうち上演年代が確定している作品は,《アルケスティス》(前438),《メデイア》(前431),《ヒッポリュトス》(前428),《トロイアの女》(前415),《ヘレネ》(前412),《オレステス》(前408)である。他の現存作品は《ヘラクレスの子ら》《アンドロマケ》《ヘカベ》《救いを求める女たち》《ヘラクレス》《イオン》《エレクトラ》《タウリケのイフィゲネイア》《フェニキアの女たち》,そして遺作《バッコスの信女》と《アウリスのイフィゲネイア》であるが,これらは皆《メデイア》以後に上演されている。つまりエウリピデスが悲劇詩人として活躍したのは前5世紀後半,主としてペロポネソス戦争(前431-前404)の時代であった。この時代背景の中で彼の作品の流れを追ってみると,開戦前後には女性の恋と情念を主題にした悲劇《メデイア》《ヒッポリュトス》などを集中的に発表する一方,戦争初期(前420年代)にはまだ軍国主義のスパルタへの憎悪と祖国アテナイの人道主義を称賛する愛国劇《ヘラクレスの子ら》《救いを求める女たち》《ヘラクレス》なども執筆していた。しかし前416年,アテナイ軍によるメロス島大虐殺事件という祖国の醜悪な現実に衝撃を受けた彼は,翌年,戦争の悲惨,勝者の暴戻(ぼうれい)と罪悪を告発した《トロイアの女》を上演する。時あたかも〈アテナイ帝国主義〉の愚かな拡張政策の象徴とも言うべきシチリア大遠征が敢行された年であり,《トロイアの女》はこの遠征の失敗と悲惨をアテナイ市民に予言し,警告するかのごとき作品であった。その後エウリピデスは現実逃避の傾向を見せる《イオン》《タウリケのイフィゲネイア》《ヘレネ》などのロマンス劇,悲喜劇,あるいはメロドラマを書きつなぐ。やがて前408年《オレステス》を上演してまもなく,高齢の身を押して祖国アテナイを去り,マケドニア王アルケラオスの宮廷に赴き,2年後ついに不帰の客となった。
エウリピデスの作品は,彼自身の内面の複雑さに加えて前5世紀後半のポリス社会の崩壊現象と価値観の分裂を反映してか,形式的にも内容的にもきわめて多様な様相を呈している。若き日にアナクサゴラスやプロタゴラスの新思想の洗礼を受けたエウリピデスは,もはやホメロス以来の神観,英雄観を受容することはできなかった。伝統的な神話に対する大胆な解釈と,神々と英雄の偶像破壊的人間化の試みに,エウリピデスの合理的精神が色濃くにじみ出ていることは否定できないであろう。しかし彼は単純な合理主義者ではなかった。彼の傑作に数えられる悲劇はむしろ,人間を支配している非合理なものの消息に詩人が通暁していたことを示している。《メデイア》は不実な夫に復讐するためにわが子を殺害するヒロインの激烈な愛憎の心理を描き,《ヒッポリュトス》のファイドラもまた義理の息子への不倫の恋に必死の抵抗もむなしく敗れ去る情念の女であった。遺作《バッコスの信女》においては,この非合理の力は美しくも恐ろしい原自然の神ディオニュソスとして現れ,人間理性に依拠してこの神を蔑(なみ)するペンテウス王を狂気に陥れ,彼が代表する都市文明を内側から崩壊せしめるのである。エウリピデスは,同時代を生きた先輩詩人ソフォクレスとは違って,このような人間を超えるものの恐ろしい力に拮抗できる英雄像をもはや造形することはできなかった。かえって英雄ならざるただの人間のありのままの姿に新しい人間存在の在り方を手探りしていたのである。彼が〈女嫌い〉のレッテルをはられていたにもかかわらず,作品から判断するかぎり,当代きっての女性の代弁者,女性心理の稀有(けう)の理解者であったこともその現れであろう。また作劇法上の数々の実験的な試み,例えばデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)と称される手法の多用や文体,音楽における斬新な趣向は,古い神話に盛られた新思想,人物の性格の新奇な設定と鋭利な心理分析などとあいまって,保守的な喜劇詩人の揶揄(やゆ)の的となり,事実92編の悲劇を書きながら生前にはわずかに4回の優勝を獲得したにすぎなかった。しかし前4世紀以降には彼の作品がアイスキュロスやソフォクレスを圧倒する人気を博したことは,現存作品数が先輩2詩人の各7編に比べて格段に多いことにも示されている。彼はあくまでも前5世紀の悲劇詩人でありながら,すでに前4世紀を指し示していたのである。前4世紀のギリシア文芸を代表するメナンドロスの新喜劇が,アリストファネスの古喜劇にではなく,エウリピデスの悲劇にその出自を持つとされるゆえんである。
執筆者:川島 重成
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アイスキロス、ソフォクレスと並ぶ古代ギリシア三大悲劇詩人の一人。3人のうちでは最年少。アテネ生まれで、当時喜劇作家などが広めたゴシップでは、母が野菜売りであったとか、二度も妻の不貞に悩まされたとかいわれたが、おそらく悪意の中傷にすぎなかったであろう。3男をもうけ、その1人は父と同名で、父の死後その遺作を上演して一等賞を得た。生来瞑想(めいそう)的なタイプの人柄で、非社交的というより人嫌いに近かったことが、古代の伝記に記されている。そのような性格は、作品からも、伝存の彫像のいくつかにみられる沈鬱(ちんうつ)な表情からもうかがわれる。劇壇にデビューしたのは紀元前455年、アイスキロスの死の翌年にあたる。前408年『オレステス』を上演したのち、マケドニア王アルケラオスの招きに応じてアテネを去りペラに移住、2年後その地で没した。『バッコスの信女』と『アウリスのイフィゲネイア』はこの異郷の地で書かれ、死後遺作として発表されたが、これらをも含めて作品の総数は92編であったという。現存する完全な作品は19編であるが、そのなかの『レソス』は真作でないことがほぼ確かであり、また『キクロプス』は悲劇ではなくいわゆるサティロス劇であり、このジャンルでは完全に伝存する唯一の例である。そのほか伝承された断片の数はかなり多く、前世紀以来パピルスによる発見も多数に上る。なかでも『アンティオペ』『ピプシピレ』の2作は、それぞれ100行、300行を超える大断片である。完全な作品および断片の量が、先輩2作家に比して格段に多いのは、前4世紀以後長くその人気が高かったことによる。彼が当時にあってはかなり進歩的な思想の持ち主として、保守的な人々からは反感をもたれていた点では、ソクラテスと似たところがあり、アリストファネスらの毒舌を浴びたのもそのためであった。
作劇の技法としては、前口上(プロロゴス)、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)の頻用が目だつ。素材は伝統的な慣例に従って、神話伝説からとられているが、神々や英雄はもはや常人の域を超えた非凡な存在ではなく、日常市井(しせい)に生活する男女とあまり変わらぬ人物として描かれる。『メデイア』や『ヒッポリトス』にしても、登場人物たちの情念の激しさはやや異常といえるにせよ、しょせんは家庭内の悲劇であるし、『イオン』のごときは今日のホームドラマと本質的には同じである。女性の屈折した心理を描く手腕については古来定評があった。後期の作品には、大衆的な興味をねらいすぎてやや俗悪な趣(おもむき)のあるものもある(オレステス)。代表作には『メデイア』『ヒッポリトス』『カベ』『トロイアの女』『バッコスの信女』などがある。『トロイアの女』はアリストテレスのいう「もっとも悲劇的な」詩人の本領を発揮したものであり、『バッコスの信女』は彼の白鳥の歌ともいうべく、深刻複雑な詩人の心をうかがわせる名作ということができる。
[松平千秋]
『『世界古典文学全集9 エウリピデス』(1965・筑摩書房)』
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前485頃~前406頃
ギリシアの三大悲劇詩人の一人。前408年頃故国のアテネを去ってマケドニア王廷におもむいて没した。彼の作品は90編ほどあったと伝えられ,『メデイア』『アンドロマケ』など18編の真作が現存するが,アイスキュロス,ソフォクレスのように伝統的な神々の支配への信仰に安住しえず,ソフィストや自然科学者などの新思想の影響を示している。
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…アッティカ悲劇の現存作品中,エレクトラのタイトルを有するものは二つある。一つはソフォクレスのおそらくは初期に属する作品であり,もう一つはエウリピデスの前413年に上演された作品である。アガメムノンの遺児エレクトラとオレステスが,父の仇である実母クリュタイムネストラ(クリュタイメストラ)とその愛人アイギストスを殺害する,という行為をめぐって劇が組み立てられている,という点でも両者は共通する。…
…前408年にアテナイで上演されたエウリピデス作の悲劇。父アガメムノンの仇を討った後のエレクトラとオレステスの姉弟を扱っている。…
…しかし同時代の喜劇詩人エピカルモスは,プロメテウスを大盗人にしたて,人間も何を盗まれるかと戦々恐々としている様を語っている。演劇の神ディオニュソスも,エウリピデスの《バッコスの信女》の中に現れるときは凄惨な密儀宗教をつかさどる恐るべき神であるが,同じとき書かれたアリストファネスの《蛙》の中では,臆病で定見のない一人の演劇評論家にすぎない。神々のみならず伝説的な英雄たち,現実社会の有名人や権力者たちも,喜劇の舞台ではきわめて低俗な欲望の操り人形として容赦なくこきおろされる。…
…アイスキュロスは古い神話・伝説が伝える人間の迷妄,執念,呪詛が織り成す葛藤や悲劇が,新しい正義と秩序のもとに苦難を経つつも解決に向かうべきことを告げている。続いてソフォクレス,エウリピデスらも観客の心眼を,人間の行為と運命を神々の眼からとらえる悲劇芸術の視点にまで高めようとしている。さらに特記すべきはアリストファネスの喜劇であろう。…
…神の直接介入による話の決着は,すでに初期叙事詩人の常套手段となっており,劇作家たちはこれを視覚的表現手段にゆだねたのである。現存するソフォクレスの《フィロクテテス》や,エウリピデスのほとんどすべての劇作は,〈機械仕掛け〉に依存しているが,アリストテレスは《詩学》において,一編の劇作の結末は筋の段どりそのものの中から必然性ないしは蓋然性に基づいて導き出されるべきものとして,その利用については批判的見解を記している。【久保 正彰】。…
…ギリシア三大悲劇詩人の一人エウリピデスの作品。前431年上演。…
※「エウリピデス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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