改訂新版 世界大百科事典 「ローマ演劇」の意味・わかりやすい解説
ローマ演劇 (ローマえんげき)
古代ローマのラテン語による演劇の総称。古代ローマ文学(ラテン文学)の他のジャンルと同様に,演劇も,古代ギリシアの影響を強くうけている。しかし,その影響を直接こうむっていない芝居もイタリア半島には存在した。例えば,〈フェスケンニウム歌versus Fescennini〉(以下,〈~劇〉等のラテン語綴りはすべて単数形で示す),〈サトゥラsatura〉,南イタリアのカンパニア地方の〈アテラナ劇fabula Atellana〉などがそれで,これらの歌舞音曲や朗唱や滑稽な身ぶり等からなる民衆的な芸能が,イタリア半島における演劇の原始的形態であった。この土俗的で素朴な芝居の土壌があってはじめて,ギリシア演劇はローマ化することに成功したのだとも考えられる。公式的にはローマ演劇は前240年から始まったと考えられている。それはこの年に,リウィウス・アンドロニクスLucius Livius Andronicus(前284ころ-前204)が国からの委嘱をうけて,ギリシア悲劇と喜劇をラテン語に翻訳して上演したからである。
悲劇
リウィウス・アンドロニクスに続くのはナエウィウスであり,さらにエンニウスが続く。これらの作家は悲劇と喜劇の両方のジャンルで劇作を行ったようであるが,しだいに作家はどちらかのジャンルに専門化していった。エンニウスの甥であるパクウィウスMarcus Pacuvius(前220ころ-前130)やアッキウスLucius Accius(前170-前86ころ)は,もっぱら悲劇作家として知られている。ローマ悲劇は〈クレピダタ劇fabula crepidata〉と〈プラエテクスタ劇fabula praetexta〉の2種類に分かれるが,前者はギリシアの作品に基づき,題材をギリシアに求めたものであり(crepidataは〈ギリシア風のサンダルをはいた〉の意),後者は題材をローマに求め,著名なローマ人を登場人物にした劇である(praetextaは〈ローマ風の(紫の)縁飾のついた外衣を着た〉の意)。ナエウィウスは〈プラエテクスタ劇〉の創始者とみなされている。ローマ悲劇は,ギリシア悲劇の模倣・翻案から始まり,ローマ化される方向に進みはしたが,アッキウス以後は重要な悲劇作家が出ず,共和政はやがて終りを告げた。
帝政期に入って,アウグストゥス帝の治世下では,高名な政治家であったアシニウス・ポリオGaius Asinius Pollio(前76-後5)やオウィディウスなどが悲劇を書いたことが知られているが,彼らの作品はもはや舞台のものではなくなってしまった。ローマの悲劇でわれわれが今日読むことができるのは,ネロ帝治政下のセネカの作品だけである。彼の残した9編の悲劇はすべて〈クレピダタ劇〉で,《アガメムノンAgamemnon》《ファエドラPhaedra》《メデアMedea》などが有名である。現存する唯一の〈プラエテクスタ劇〉である《オクタウィアOctavia》はセネカ作と伝えられるが,偽作であることがほぼ確実な作品である。セネカの作品は舞台上演を企図して書かれた作品ではなくて,いわゆるレーゼドラマである。しかし,セネカがシェークスピアをはじめとするイギリスのエリザベス朝期の演劇に与えた影響には計り知れないものがあり,復讐のプロット,亡霊の登場,誇張された修辞などはセネカに由来するといわれる。
喜劇
悲劇と同様に喜劇もギリシア劇の翻案から始まった。メナンドロス,ディフィロス,フィレモンらのギリシア新喜劇の作品をもとにして,〈パリアタ劇fabula palliata〉(palliataは〈ギリシア風のマントを着た〉の意)と呼ばれる喜劇を書いたのがプラウトゥスとテレンティウスである。プラウトゥスは前254年ころにウンブリアの小都市に生まれ,役者をした後に,劇作に手を染めるようになり,130編もの喜劇を書いたが,今残っているのは20編だけである。その中では《アンフィトルオAmphitruo》《帆綱Rudens》《ほら吹き軍人Miles Gloriosus》《黄金の壺Aulularia》などが有名である。彼は前184年にこの世を去った。プラウトゥスはギリシア新喜劇の筋を借りてきて,イタリア土俗の演劇形式をも織りこみながら,作品を書いた。筋自体は〈恋愛〉にからんだお定まりのもので,放蕩息子,頑固親父,ほら吹き軍人,遊女などの登場人物によって展開される。テレンティウスとは異なり,プラウトゥスは当時の人気作家で,彼の作品には〈笑い〉の要素が大きかった。
一方,テレンティウスは,前190年ころにカルタゴに生まれた奴隷であったが,ローマに連れてこられて教育をうけ自由の身となった。彼は前159年に旅の途中で死去したため,6編の作品しか残されていない。その中では《アンドロスの女Andria》《フォルミオPhormio》などが有名である。テレンティウスの作風はプラウトゥスのそれよりも洗練されたものであり,その芝居は大衆的なものというよりはむしろ少数の文学サークルのために書かれたといえる。テレンティウスの練りあげられたラテン語による劇は,のち中世に入って,ラテン語の模範として尊重されることになった。
プラウトゥスもテレンティウスも,シェークスピアやベン・ジョンソン,モリエールに多大の影響を及ぼしている。〈パリアタ劇〉に対して,ローマ人の生活に取材する喜劇を〈トガタ劇fabula togata〉(togataは〈ローマ人の平服であるトガ(縁飾はされていない)を着た〉の意)と呼んだが,これに属する喜劇は発展を見ず,現在残されていない。
劇場・上演
これらの芝居の上演は祭りの日に行われることがほとんどであった。場所は劇場であるが,前55年にポンペイウスにより恒久的な石造の劇場ができるまでは,木造の仮設劇場が上演の場であった。プラウトゥスやテレンティウスの劇が上演された〈時空〉は〈祝祭的な時空〉であったということができる。ローマの劇場の観客席は,ギリシアの劇場とは異なり,完全な半円を成しており,オルケストラも半円となり,そこに元老院議員や神官や政府高官の特別席が設けられ,舞台はより広くかつ深いものとなった。また,ギリシアの劇場とは異なり,ローマの劇場では幕が使用されるようになったが,その幕は,幕開けのときに,近代とは逆に,上から下へおろされて使われた。
俳優はすべて男で,社会的地位は低く,奴隷あるいは解放奴隷であったが,キケロの時代になると,社会的名声を得る者も出てきたようである。女優が登場するのはミムスmimus劇(ものまね芝居)やきわめて後の喜劇ぐらいで,ごく限られたものであった。
ローマ演劇のその後
文学的な芝居は徐々に衰微していったが,ミムス劇やパントミムスpantomimus劇(せりふをまったくなくした黙劇。民衆的な雑芸として生き続け,今日のパントマイムにつながる)などはなおしばらく大衆の娯楽として続いた。しかし,それすらも帝政期に入ると衰微した。さらに,国家宗教としてのキリスト教が制度化され,キリスト教教会の力が強くなるにつれて,演劇は敵視され,ついに後6世紀のユスティニアヌス帝は帝国内の劇場閉鎖を命令するにいたったのである。
ローマ演劇は,例えばギリシア演劇と比較した場合に,その芸術的収穫は乏しいといわざるを得ない。しかし,ギリシア演劇の豊かな水脈を継承して,それを中世,ルネサンス,近世へと伝えた点,特にシェークスピアや古典主義の演劇に多大な影響を与えたという点で,重要な意味を持つということができる。
→ギリシア演劇
執筆者:木村 健治
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