改訂新版 世界大百科事典 「クディリ朝」の意味・わかりやすい解説
クディリ朝 (クディリちょう)
Kediri
インドネシアの中部ジャワにあったマタラム朝のシンドク王が,地震または伝染病のため東部ジャワのクディリに移転して建てた王朝。928-1222年。移転の原因については今なお定説がない。第4代の王ダルマバンシャ(在位991-1007)の時代がこの王朝の最盛期で,王は法典を編纂させ,サンスクリット文学をジャワ語散文に翻訳ないし翻案させている。そして中国の宋朝にも遣使して友好を深める一方,スマトラのスリウィジャヤに進攻しようとしたが,かえって1006年から翌年にかけて反攻を受け,王は敗死し,首都は破壊された。ここに居合わせた王の女婿アイルランガAirlanggaはしばらく僧院に身をかくして時機を待ったが,やがてスリウィジャヤが南インドのチョーラ朝の攻撃を受けて衰えたのに乗じ,徐々に勢力を回復した。19年に即位した彼はまずバリ島の父王のあとを継ぎ,30年までの間にゆるぎない勢力を確立した。この王の時代に宮廷詩人ムプー・カンワが作った叙事詩《アルジュナ・ウィワハ(アルジュナの結婚)》は,インドの叙事詩《マハーバーラタ》の主要人物の一人アルジュナになぞらえたアイルランガ王と,スリウィジャヤ王女との結婚をたたえたものである。クディリ朝はスリウィジャヤに代わってインドネシアの海上貿易に優位を保ち,ジャワ東部のトゥバンやスラバヤには東西の商人が多く集まった。アイルランガ王は死去(1049)の4年前から再び隠遁生活に入り,王国は2人の王子の間に分割された。その一方はジャンガラ,他方はパンジャルー(別名クディリ)と呼ばれたが,前者は次第に衰え,後者の王カーメシュバラ1世(在位1115-30)の時,再び両者を合体させ,ジャワだけでなくバリ,ボルネオ南西部,ティモール,スラウェシ南部,テルナテなどの各地に勢力を及ぼし,1222年ケン・アンロックに滅ぼされるまで王朝は続いた。前述の叙事詩のほかにもやはりインド文学を翻案した《バーラタユッダ》などが知られ,また人形劇ワヤンなどの発達を見た。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報