本来は〈影〉の意であるが,一般にはインドネシアのジャワ島に伝わる影絵芝居をさし,そこで使用される人形そのものもこの名で呼ぶ。しかしワヤンはまた多くの種類の演劇をもさし,影絵芝居でないものにもこの名が冠されている。
ジャワの影絵芝居は,正式にはワヤン・クリwayang kulitという。クリは〈皮革〉の意で,人形が水牛の皮で細工されていることからこう呼ばれるが,物語の内容によっていくつかに区別される。インドの古代叙事詩《ラーマーヤナ》と《マハーバーラタ》を素材とするものをワヤン・プルウォといい,これがワヤンの主流をなし,今日なお盛んに行われている。インドの両叙事詩は10世紀にジャワに入り,一部が翻案されて以来ジャワ中世の詩文学を花開かせるとともに,ワヤンの素材ともなった。しかしその内容はしだいにジャワ古来のアニミズムに組み込まれ,ジャワ化した仏教やヒンドゥー教,さらには14世紀ごろから浸透したイスラム神秘主義をも内包して,独自の物語的展開,また価値観を生むにいたった。そこに示される教訓的側面の最大のものは,〈イルム・サンカン・パラニン・ドゥマディ〉すなわち〈人間いずこよりきたり,何をなし,いずこへゆくか〉との命題であり,終局的には〈真実なる死とは何か〉また〈己自身を知れ〉に集約される。その他の多くの教訓また理念を体得するための方法として瞑想や苦行が要請され,数多くの演目がその実践を説くために用意される。ワヤン上演はまた魔よけの儀式としても理解されている。登場人物たちは土地の人びとの祖先の霊であり,上演自体が誕生,結婚,割礼その他の慶事に際して催されることから,それらの慶事が人間の目には見えない夜闇の中の悪霊の災禍から守られるようにとの願いがこめられるのである。しかしこうした聖なる儀式としての上演も地域によっては影が薄れ,娯楽的な要素が増大しつつある。一つの演目は通常夜の8時30分に始まり,夜明けの5時すぎまでほぼ9時間を要する。基本的な演目だけで200は超え,派生的な演目は,今日なお創作されるものを含めれば,その総数をつかめない。
上演は原則的には劇場などでは行われない。個人の家または公共建築物の内で催され,ダラン(人形師)一座がそこに招かれる。その場にまずクリル(白い幕)が張られ,1灯のブレンチョン(人形の影を投ずるための光)を設置し,ブレンチョンの下にダランが座る。ダランを取り囲むようにガムラン奏者群と女性歌手たちが位置を占める。ダランは一夜に登場する人形(演目によって異なるが,ふつう60~70体)のすべてを操作し,語りのすべてを語り,伴奏のガムラン奏者群に指示を与えて音を引き出す。完ぺきなワンマン・ショーである。しかもダランの語りには一定のせりふがなく,あら筋はあるが,それをもとにほとんどの場合即興で語りこむ。したがってダランには強靱な精神力,語りの練達,その文学性,音楽性,人形操作の美的感性が要求される。その上演の本場は中部ジャワである。
このワヤン・プルウォ以外にここから派生したワヤン・クリは数多く,やはり中部ジャワの王家を中心に上演された。代表的なものを挙げれば,東部ジャワの英雄譚《パンジ物語》を主たる素材とし,15世紀ごろ創案されたワヤン・ゲドク,時代は下って19世紀半ばに創案されたが,《パンジ物語》よりさかのぼる時代の伝説とも史実とも定めにくい国王たちの行状を素材とするワヤン・マディオなどがそれである。20世紀にはいると,相次いでワヤン・ドゥポロ(主として1520年ごろから17世紀末ごろまでの国王をめぐる物語),ワヤン・カンチル(小鹿に似たカンチルのとんちばなし),ワヤン・パンチャ・シラ(インドネシアの平和五原則パンチャ・シラに基づく物語),ワヤン・プルジョアンガン(インドネシア革命闘争を描いたもの),ワヤン・カトリク(キリスト教宣布を内容とする)その他が創案された。しかしこれらは源流であるワヤン・プルウォを除き,今日では人形を残すだけで,ほとんど上演されることがない。
ワヤン・クリ以外の形式では,まず絵巻をくりのべながらその内容を語るワヤン・ベベルwayang bébérがある。この形式はワヤン・クリより古いとされる。まだ定説とはいえないが,ワヤン・プルウォがワヤン・クリの形式をとるにいたったのは,14~15世紀ごろのイスラム神秘主義の布教者たちによるもので,それ以前はワヤン・ベベルの形式であったとされる。その絵巻は紙もしくは布によるもので,簡素なガムランの伴奏にそってダランが物語を語る。今日では東部ジャワにダランがただ1人残り,《パンジ物語》から派生した演目の一つが上演されるだけである。
幅7mmほどの板で作られた人形を使用する芝居はワヤン・クリティクwayang kritikと呼ばれる。これは《パンジ物語》とともに東部ジャワにおける二大英雄譚の一つである《ダマル・ウラン物語》を素材として上演される。これも今日では衰退の極にあり,中部ジャワの2人ほどのダランによって継承されるだけである。
でく人形による芝居はワヤン・ゴレwayang golekと呼ばれる。これは18世紀以降,中国の指人形の影響下に創案されたもので,中部ジャワにおける《メナク物語》(ペルシアに由来する)をとるものと,バンドンを中心とする西部ジャワにおけるインドの二大叙事詩を素材とするものの2種がある。西部ジャワにおけるワヤン・ゴレは今日なお盛んで,中部ジャワでも最近,《ラーマーヤナ》によるものが創案され,上演回数も増えている。
俳優によって演じられるワヤンに,ワヤン・トペンwayang topengとワヤン・オランwayang orangがある。前者は古い伝統をもち,トペン(仮面)をつけて《パンジ物語》を演じるものであるが,今日ではかろうじてその形式が保存され,仮面が知られるだけで,中部ジャワではほとんど上演されることがない。後者はジャワ島の各地に常設小屋をもって長期興行がもたれる。他のワヤンが多少ともなお魔よけ的性格をもつのに比して,これは入場料をとり,純然たる娯楽劇として盛行している。
バリ島,マドゥラ島,ロンボク島のワヤン・クリが知られる。これらはジャワ島のそれとやや上演形式,人形の形を異にするが,いずれもジャワ島から派生して行われているものである。演目の素材はバリ島,マドゥラ島ではインドの二大叙事詩をとり,ロンボク島では《メナク物語》をとっている。インドネシア以外では,マレーシアのケランタン地方のワヤン・クリが著名である。上演形式,人形の形もジャワ島のそれとは異なるが,物語の素材は《ラーマーヤナ》をとる。
執筆者:松本 亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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インドネシア語で影を意味し、主としてジャワ島の影絵芝居ワヤン・クリをさす。木偶(でく)人形芝居ワヤン・ゴレ、板人形芝居ワヤン・クリティ、俳優の演ずるワヤン・オラン、仮面劇としてのワヤン・トペン、絵巻によるワヤン・ベベルなども単にワヤンとよばれる。また、これらの人形そのものをもさす。
[松本 亮]
…スンダ地域は文学が豊かなところで,韻文形式のパントゥンは有名であり,またワワチャンというイスラムにちなんだ物語が吟誦朗読される。影絵芝居ワヤンの人形はスンダ族では木製である。【倉田 勇】。…
※「ワヤン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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