スリウィジャヤ(その他表記)Srivijaya

改訂新版 世界大百科事典 「スリウィジャヤ」の意味・わかりやすい解説

スリウィジャヤ
Srivijaya

インドネシアのスマトラ島東部に7世紀半ばに成立し,8世紀後半に滅亡した王国。マラッカ海峡に近い要衝パレンバンに位置し,南海の古代東西交易(南海貿易)に重要な役割を担った港湾国家であるが,歴史的遺物史料はきわめて乏しい。中国史料によれば,この国から中国に使を送った期間は7世紀後半から742年までである。碑文史料のおもなものはパレンバンに2個出土し,そのうち1個は682年のものである。このほかバンカ島,ジャンビ(パレンバンの北西方)のハリ川上流,およびスマトラ島南端のパラス・パセマから碑文が出土し,いずれも7世紀後半のもので,文字は南インドのパッラバ文字である。これらの碑文から,当時のスリウィジャヤでは大乗仏教が行われていたこと,2万の軍を動員できたこと,スリ・ジャヤナーシャなる王が〈幸ある園〉をつくったことが知られる。中国に説一切有部(せついつさいうぶ)系の経典類をもたらした唐代の僧義浄は,インドへの往復の途次,この地に長期間滞在し,仏典翻訳のほかに,《大唐西域求法高僧伝》と《南海寄帰内法伝》を著した。義浄の諸記述からも,この地に大乗仏教が栄え,僧侶が1000余人もおり,しかもインドと変わらぬほど仏教の法式が整備されていたことがうかがえる。

 スリウィジャヤは,中国史料には〈室利仏逝〉と記されるが,室利仏逝が742年に最後の中国への遣使をしてのち,インドネシアから中国へ遣使をしたのはジャワ訶陵である。ところで,この訶陵からの遣使は670年に一度中断し,768年に再開されている。すなわちスリウィジャヤは,8世紀後半よりジャワのシャイレンドラ朝(訶陵)の影響下に置かれ,この状態は9世紀後半まで続く。たとえばマレー半島北部のリゴールで,片面にシャイレンドラの碑文を,もう一面にスリウィジャヤの碑文を記したものが出土しており,このころジャワの勢力がパレンバンよりさらに北部,そしてマレー半島のリゴールにまで及んでいたことがうかがえる。その後,都は北西方のジャンビに移り,中国史料で三仏斉国と呼ばれる王朝がこの地に出現し,中国には10世紀初頭から使を遣わしている。
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百科事典マイペディア 「スリウィジャヤ」の意味・わかりやすい解説

スリウィジャヤ

7―8世紀スマトラのパレンバン中心に栄えた国。マラッカ海峡を越え,今のマレー半島のケダーにまで勢力をのばし,アジア貿易の要路をおさえた。中国文献では唐代に室利仏逝,宋代に三仏斉とみえる。9世紀以後はジャワのシャイレンドラ朝が同国王統を継いだ。
→関連項目インドネシア真臘マレーシア

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世界大百科事典(旧版)内のスリウィジャヤの言及

【クディリ朝】より

…第4代の王ダルマバンシャ(在位991‐1007)の時代がこの王朝の最盛期で,王は法典を編纂させ,サンスクリット文学をジャワ語散文に翻訳ないし翻案させている。そして中国の宋朝にも遣使して友好を深める一方,スマトラのスリウィジャヤに進攻しようとしたが,かえって1006年から翌年にかけて反攻を受け,王は敗死し,首都は破壊された。ここに居合わせた王の女婿アイルランガAirlanggaはしばらく僧院に身をかくして時機を待ったが,やがてスリウィジャヤが南インドのチョーラ朝の攻撃を受けて衰えたのに乗じ,徐々に勢力を回復した。…

【港町】より

…港市国家のなかには,強力な海軍力を背景に海上ルートを支配し,交易船からの通行税の徴収や中継物資の独占のうえに〈制海路制国家〉ともいうべき国家へと発展したものもあった。7~8世紀,マラッカ海峡の制海権を背景に繁栄したスリウィジャヤはその代表である。これらの港市国家の人口構成がきわめて国際色豊かであったことは,たとえば頓遜には〈五百家族の天竺胡〉〈千余人の天竺婆羅門〉がいたとする中国史書の記述などにも示されている。…

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