日本の気象事業の創設に大きな貢献をしたドイツの気象学者。クレーフェに生まれ,1864年オランダの航海学校に入る。67年一等航海士として汽船クーリエ号に乗り遠洋航海に従事する。71年(明治4)船が転売されたため日本に下船,大学南校の教師となりドイツ語,数学などを教えた。気象に関心が深く,官舎に気象観測の器械を備え,学生を助手として定時観測を始めた。75年には東京外国語学校の教師となり,翌年は内務省駅逓寮に移り,管船課司験官となった。81年満期解雇となったが,ドイツ公使を通じ,暴風警報事業の必要性を政府に建白した。これが入れられ,82年には内務省地理局暴風雨取調掛に雇われ,暴風警報事業の創設に当たった。83年2月16日に日本ではじめて天気図をつくり,同年5月26日にはじめての暴風警報を出した。そして翌年6月1日から天気予報が出されるようになった。はじめは一人で天気図の作成,天気予報の発表を行っていたが,和田雄治,馬場信倫らの技術者を育成し,天気予報業務の基本を確立した。91年満期解雇となり,故国に戻り,ハンブルクの海洋気象台に勤めた。1909年退官。なお,帰国に際しては,日本政府から勲三等瑞宝章を贈られた。
執筆者:高橋 浩一郎
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明治初年に来日し、日本における暴風警報および天気予報事業の創業に尽力したドイツ人。オランダ国境に近いクレーフェに生まれ、アムステルダムの商船学校を卒業して二等航海士となり、汽船クーリエに乗り組んで東洋に来航した。たまたま同船が日本に売却されることになったので、1871年(明治4)に下船し、開成学校の数学教師となった。1876年逓信(ていしん)局に雇用されている間に、暴風警報の必要性を説いた建白書を提出。1881年から内務省御雇いとなって暴風警報事業を始め、1883年5月26日、日本最初の暴風警報が発せられ、翌1884年から全国の天気予報の発表が開始された。1891年帰国し、ハンブルクの気象台の助手を務めた。著書はとくにないが、ドイツ系のアジア協会の雑誌に、日本の気象や暴風の特徴について述べた論文を何編か発表している。
[根本順吉 2018年8月21日]
(三好信浩)
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