気象学者,地球物理学者。福島県二本松の生れ。1879年(明治12)東京帝国大学理科大学物理学科卒業。内務省地理局測量課気象掛,後の中央気象台に職を得る。フランスに留学,万国博覧会に出品された海洋探検に関する事物に注目,海洋研究の重要さを痛感し,海流瓶による日本海付近の海流調査などの推進に力を入れる。このほか,気象台における種々の海洋調査研究に道を開いた。85年中央気象台予報課長に進み,日本の気象予報の基礎を築いた。1904年朝鮮に渡り,仁川気象観測所長となり,日露戦争に際しては気象観測の面で協力した。朝鮮在任中に15世紀に行われた世界最古といわれる京城(ソウル)の雨量観測の記録を発掘し発表(1910)した。その後も朝鮮の気象事業を推し進め,周辺の海流調査をも行った。後年,毎日新聞社の助力を得て大々的な海流調査を推進,その成果は没後,《日本環海海流調査業績》として出版された。東京物理学校(現在の東京理科大学の前身),気象観測練習会(現在の気象大学校の前身)の設立にも尽力した。
執筆者:寺本 俊彦
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明治期の気象学者,地球物理学者
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気象学者。二本松(福島県)の生まれ。1879年(明治12)東京大学理学部物理学科を卒業、同年内務省地理局測量課に入り、測地、天測のかたわら気象を担当、日本の暴風警報、天気予報の創始にあたった。1885年中央気象台予報課長となり、1904年(明治37)日露開戦に際し、官命により朝鮮に渡り、朝鮮および満州(中国東北部)各地に気象観測所を設け、軍事行動に多大の功績を収めた。在朝鮮中、15世紀以来行われた李朝(りちょう)の雨量計による気象観測についての記録をフランス語で発表(1910)、翌1911年これが英語訳され、世界的に有名になる。1915年(大正4)勇退して帰国し、その後は河川の出水調査、海流瓶による日本近海の海流調査などに関し、創始者的な業績を残した。
[根本順吉]
(村上陽一郎)
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…ビール瓶などに返信用はがきを封入して海洋に放流し,発見者に記入し返送してもらい,漂着の日時,場所から海流を調査するもので,日本では1893年に和田雄治らによって用いられたのが最初である。現在もプラスチックの容器に封じた漂流はがきが,内海の海流調査に多用されている。…
※「和田雄治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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