改訂新版 世界大百科事典 「コムネロスの反乱」の意味・わかりやすい解説
コムネロスの反乱 (コムネロスのはんらん)
18世紀末スペイン領ヌエバ・グラナダ副王領(現,コロンビア)で,植民地生れの白人商人を中心として起きた民衆反乱。1779年の米西同盟にもとづく対英戦の戦費調達のため,スペインは植民地に増税を命じたが,巡察使フランシスコ・グティエレスが実施した新税の導入と,塩・タバコの専売権料の増額に対し,81年4月ベルベオJuan Francisco Berbeoはソコロ(現,サンタンデル州)で4人の商人を中心に6000人を結集した革命委員会〈コムンcomún〉を結成した。〈コムンの参加者〉の意から,コムネロスの反乱と呼ばれるようになった。この動きは急速に他の諸都市に波及し,首都ボゴタは2万の民衆によって攻略された。同年6月7日副王の代理人としての大司教とベルベオとの間で,反乱軍の解散を条件に巡察使の解任,新税の撤回,公職への植民地人の登用をうたったシパキラー協定が結ばれたが,副王はそれを拒否し,翌82年反乱軍は植民地政府軍により弾圧された。なお植民地独立運動の萌芽として重要なこの反乱が敗北した最大の原因は,白人商人層が最後までピスコAmbrosio Piscoを指導者とするインディオ大衆派と一線を画していた点にあろう。
執筆者:清水 透
コムネロスの反乱 (コムネロスのはんらん)
16世紀初頭,スペインのカスティリャ王国で起こった諸都市の反王権蜂起。国王カルロス1世は,ドイツ皇帝に選出されるために多額の費用を国際的金融業者から借り入れたが,その返済を含めて王室経費を捻出するために,1520年コルテスを召集し,強圧的に上納金承認を可決させてドイツに赴いた。これを契機にカスティリャ諸都市住民は,反乱のための〈誓約団体〉(コムニダードcomunidad)を結成し(その構成員をコムネロスcomunerosという),コレヒドールや王権と結託する都市寡頭支配者を攻撃し,都市統治権を掌握した。主要諸都市は,同年8月に聖会議Santa Juntaを結成し,国王の専横的支配に対して,フランドル人官僚の罷免,財政政策の改善,都市諸特権の尊重などを求めて抵抗を続けた。しかし翌年4月ビリャラールの戦で,反乱軍は貴族を主体とする国王派軍に敗北し,この結果,もともと脆弱であったカスティリャ諸都市の政治的力は失われた。
執筆者:立石 博高
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報