コンゴ自由国(読み)コンゴじゆうこく(その他表記)Congo Free State; État indépendant du Congo

精選版 日本国語大辞典 「コンゴ自由国」の意味・読み・例文・類語

コンゴ‐じゆうこく‥ジイウコク【コンゴ自由国】

  1. コンゴみんしゅきょうわこく(━民主共和国)」のベルギー植民地時代の国名

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コンゴ自由国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ自由国
コンゴじゆうこく
Congo Free State; État indépendant du Congo

1885~1908年,コンゴ川のほぼ全流域を支配した国家。当初はベルギー国王レオポルド2世の働きかけにより,ヨーロッパ各国の投資家が参加した会社組織として誕生した。ヘンリー・モートン・スタンレーが 1874~77年に行なったコンゴ川源流部の探検契機に,レオポルド2世はこの地域に関心をいだき,アフリカ内陸部を開拓してヨーロッパとの貿易を進めるため,1878年11月にコンゴ上流域調査委員会を設立した。委員会はのちにコンゴ国際協会と改称され,アフリカ分割が協議された 1884~85年のベルリン会議において,植民地はコンゴ自由国として承認された。1890年代初頭,レオポルド2世は軍による内陸部の支配を拡大。1890~98年,プールマレボマレボ湖)より下流急流を迂回するため鉄道を敷設し,沿岸部と内陸部を結ぶ輸送路を確立した。統治は国王の強権によるものであり,植民地住民への圧政で悪名をはせた。ゴム,やし油,象牙を採取するため強制労働が課され,規定の供出量に満たないと,住民はむち打ちの刑罰を受けたり家族人質にとられたりした。反抗者が出ると,その家族を虐殺して村を焼き払うなど,国王の私設軍が激しい弾圧を加えた。全域人口は約 2000万人から 800万人に激減したとされる。やがてコンゴ改革協会活動を通じて国王の暴政が知れ渡り,国際的な非難を浴びた。1908年にコンゴ自由国は廃止され,ベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴが誕生した。

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改訂新版 世界大百科事典 「コンゴ自由国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ自由国 (コンゴじゆうこく)
État Indépendant du Congo

ベルギー国王レオポルド2世私有財産として創設した中部アフリカの植民地(現,コンゴ民主共和国)。19世紀後半ヨーロッパ列強に伍してアフリカ進出を企てたレオポルド2世は,スタンリーをコンゴ川流域に派遣して,現地の首長たちと計400におよぶ保護条約を結び,同地域を彼の私的組織であるコンゴ国際協会(1878創設)の支配下においた。欧米列強はベルリン会議(1884-85)でコンゴに対するこの協会の主権を認めたので,同協会はコンゴ自由国に改組されて(1885),レオポルド2世はその国王を兼ねるにいたった。しかしコンゴ商工会社などを通じての彼のコンゴ開発は,土地の没収,象牙やゴム取引の独占,強制労働など〈自由国〉の名にそぐわない過酷な政策によって進められたため,内外から激しい非難を浴び,ついに1908年レオポルド2世はコンゴ自由国の主権をベルギー政府に移管し,ベルギー領コンゴが誕生した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コンゴ自由国」の解説

コンゴ自由国(コンゴじゆうこく)
L'Etat Indépendent du Congo[フランス],Congo Free State[英]

1885年にアフリカ分割を定めたベルリン会議によって成立した形式的な独立国家。実態はベルギー国王レオポルド2世の私有領であった。アフリカ中央部のコンゴ盆地はヨーロッパ人の接近が最も遅れた地域だったが,植民地獲得に熱意を燃やすレオポルド2世は探検家スタンリーを利用してそこでの支配を確立し,自由な経済活動の保証と引き替えに,ベルリン会議で自己の統治権を列強に承認させた。しかしベルギー本国議会が植民地経営に反対したため,形式的独立国として統治された。象牙や野生ゴムの輸出に依存する収奪的で過酷な統治が行われ,その悲惨な実態は他国からの強い批判を招いた。結局1908年にベルギーの正式な植民地となり,コンゴ自由国は消滅した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「コンゴ自由国」の解説

コンゴ自由国
コンゴじゆうこく
Congo Free State

1885〜1908
ベルギー王レオポルド2世が中央アフリカ(現コンゴ民主共和国)に建設した王の私有地
レオポルド2世は,コンゴ川の探検を行ったアメリカのスタンリーを利用してこの地の植民地経営にのりだし,1883年ここを保護領とした。1885年にはコンゴ自由国と称し,レオポルド2世がその首長となった。しかし,ゴム・象牙の収奪や圧制のために国際的非難を受け,1908年正式にベルギー領コンゴとして併合した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンゴ自由国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ自由国
こんごじゆうこく

コンゴ独立国

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世界大百科事典(旧版)内のコンゴ自由国の言及

【アフリカ】より

…ところでベルリン会議は,コンゴ盆地を自由貿易地域とすることを確認したうえで,コンゴ国際協会のコンゴ盆地に対する支配権を承認した。ベルリン会議が終わった直後,コンゴ国際協会は改組されてコンゴ自由国となり,レオポルド2世はその国王を兼任することが宣せられた。しかしコンゴ自由国は事実上レオポルド2世の個人財産であった。…

【コンゴ民主共和国】より

… 19世紀に入ると奴隷貿易が衰え,ヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われたのに続いて,同世紀末期にはアフリカの植民地分割競争が本格化した。コンゴについては,1878年以降ベルギー国王レオポルド2世H.スタンリーを派遣して現地の首長たちと合計約400に及ぶ保護条約を結ばせ,84‐85年のベルリン会議で欧米列強にコンゴの植民地化を承認させる(ベルリン協定)ことに成功すると,これをコンゴ自由国と称して自らその王を兼ねた。コンゴ自由国は事実上レオポルド2世の私的植民地として他に類例を見ないほどの暴政のもとに置かれ,住民の土地に対する組織的収奪,ゴム農園の開発や象牙の採集を目的とした非人道的な強制労働制度の導入などのために,レオポルド2世はイギリスをはじめとする欧米諸国からベルリン協定違反として厳しい非難を浴びせられた。…

【ベルギー】より

…また80年代以降,有力な市場であったロシアが輸入禁止政策に転ずると,ベルギーの大製鉄企業は続々ロシアに子会社を設立して現地生産に乗り出し,中国でも96年,北京~漢口間の鉄道建設を請け負い借款を提供したほか,天津の市電を経営していた。他方,ベルギーは熱心に植民地獲得を試みたが,いずれも成功せず,ようやく1884‐85年のベルリン会議でコンゴ(現,コンゴ民主共和国)が,コンゴ自由国(事実上,国王レオポルド2世(在位1865‐1909)個人の領土)として認められた。しかし,植民地から収益を上げようとして現地住民を虐待したことが世界の非難を浴び,コンゴ自由国の統治権は1908年ベルギー国家に移管され,〈ベルギー領コンゴ〉が誕生した。…

【レオポルド[2世]】より

…在位時代は,ベルギーの激しい政治的・社会的対立(教育問題を頂点とするカトリックと自由党の対立,社会主義勢力の進出,フラマン語問題など)の時期に当たっており,彼はその調停を企てて政党政治に介入して,非立憲君主的行動を非難された。また皇太子時代から植民地獲得に熱心で,1885年列強から,国王個人による〈コンゴ自由国〉(現,コンゴ民主共和国)の領有を認められたが,現地住民の非人道的な酷使が世界の非難を受け,1908年,これをベルギー国家に譲渡した。09年アルベール1世に譲位した。…

※「コンゴ自由国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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