アメリカのアフリカ探検家、ジャーナリスト。イギリスの北ウェールズの田舎(いなか)町デンビーで私生児として生まれ、ジョン・ローランズと名づけられた。家庭的に恵まれず、6歳のとき救貧院に預けられた。17歳のときアメリカに渡り、イギリス生まれのヘンリー・スタンリーという商人の養子となり市民権も得た。南北戦争で両軍にそれぞれ加わって戦ったのち、ニューヨーク・ヘラルド社の臨時通信員となった。エチオピアにおけるイギリス軍のテオドロス2世攻略(マグダラの戦い)の大スクープでヘラルド社の正式社員となり、1869年、アフリカで消息を絶ったリビングストンを発見せよとの特命を受けた。
1871年、タンガニーカ湖畔の一漁村ウジジでリビングストンとの劇的な邂逅(かいこう)を果たし、全世界に興奮を巻き起こした。74年ビクトリア湖に達し、ナイル川の源流を確認した。さらに再度タンガニーカ湖に赴き、アラブ商人ティップ・ティプの手助けでコンゴ川を下り、大西洋へ達した。また、マフディー軍によって連絡を絶たれたドイツの探検家エミン・パシャをスーダン南部で発見した。のちにベルギー国王のコンゴ自由国の行政官を務め、1895年イギリス国会議員となった。不屈の精神と、敵対する人間への容赦ない態度から「岩を砕く人」とよばれた。
[青木澄夫]
『スタンリー著、宮西豊逸訳『世界教養全集23 暗黒大陸』(1974・平凡社)』▽『スタンリー著、村上光彦他訳『世界ノンフィクション全集3 リヴィングストン発見記』(1973・筑摩書房)』▽『リチャード・ホール著、米田清貴訳『探検家スタンリー伝 栄光と幻想』(1977・徳間書店)』▽『バイロン・ファーウェル著、川口正吉訳『ブーラ・マタリ 探検家スタンリーの生涯』(1959・刀江書院)』
アメリカの電気技術者、発明家。エール大学に入学するが3か月で退学。合衆国電灯会社(のちにウェスティングハウス社の子会社となる)、スワン電灯会社(後のエジソン‐スワン電灯会社)の研究助手を勤めた。1883年には研究所を主宰し白熱電球の製造などを手がけた。1885年ウェスティングハウス社(現、CBS)に主任技師として入社、交流配電システムを開発し特許を得た。しかし会社側の採用が得られず、1890年には独立。ケリーJohn Forrest Kelly(1859―1922)、チェスニーCummings C. Chesney(1863―1947)とともにS・K・Cシステムとして知られた長距離交流配電システムの営業を開始した。これは1905年にゼネラル・エレクトリック社に引き継がれた。1898~1900年アメリカ電気技術者協会副会長、1912年には同協会よりエジソン・メダルを受けた。
[高橋智子]
アメリカの生化学者。1946年ノーベル化学賞受賞(酵素とウイルスのタンパク質の純粋調整によりJ・H・ノースロップとともに、また、酵素が結晶化されることを発見したJ・B・サムナーとの同時受賞)。タバコの葉にモザイク病をおこす病原ウイルス(TMV)を結晶体として取り出すことに成功した(1935)。結晶する化学物質が、生物のように増殖し病気をおこすというので、当時の学界に大きな衝撃を与えた。また、早くから、癌(がん)のウイルス学的研究の重要性を指摘し続けた。1950年代なかばに、学界の大勢に抗して、これを主張するのは、非常に勇気の要ることであった。
1929年イリノイ大学卒業。同大化学研究所からミュンヘン大学に留学、帰国後ロックフェラー研究所に入った(1932)。1948年カリフォルニア大学に移り、同大にウイルス研究所を創設、その所長となる。1965年(昭和40)第9回国際癌学会議(東京)に来日。日本学士院客員(1968)。大学時代はフットボールの選手として活躍した。
[梅田敏郎]
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イギリスの探検家。北ウェールズの田舎に私生児として生まれ,感化院で育てられた。15歳のときそこを脱走,アメリカに渡り,ヘンリー・スタンリーという商人に拾われ,その名をもらった。南北戦争に従軍,戦後は新聞記者になり,政府軍とインディアンとの戦い,イギリスとエチオピアとの戦いなどの従軍記者として頭角を現した。ナイル川の水源地探検に赴いたまま消息を断ったリビングストンを探しに派遣され,1871年首尾よく彼と邂逅,2人でタンガニーカ湖を探検した。74年からは3年近い歳月をかけて,アフリカ大陸中央部をインド洋岸から大西洋岸まで横断した。列強に遅れてアフリカ植民地獲得競争に加わったベルギーのレオポルド2世は,79年彼をコンゴに派遣した。スタンリーも出席したベルリン会議(1884-85)は,彼が探検し現地の首長と協定を結んだ広大な地域をレオポルド2世の私有地(コンゴ自由国)として認めた。87年にはエジプト南部でマフディー派の抵抗運動のため孤立させられた総督の救出に派遣され,この間アルバート湖周辺の探検も行った。92年アメリカ国籍からイギリス国籍に戻り,95年下院議員となり,99年にはサーの称号を受けた。
→アフリカ探検
執筆者:川田 順造
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アメリカの生化学者.1929年イリノイ大学のR. Adamsのもとで化学のPh.D.を取得.翌年ドイツのミュンヘン大学のH.O. Wieland(ウィーラント)のもとでステロイドの研究をし,帰国後,1932年ロックフェラー研究所の助手となり,各種ウイルスの研究に従事,1940年同研究所所員となる.1948年カリフォルニア大学バークレー校教授,同ウイルス研究所所長となる.1935年タバコモザイクウイルスを分離し,核タンパク質結晶として取り出したが,この結晶は生命のない化学的な物質のように見えながら,細胞内で成長,増殖し,病原体として作用するところから,生物と無生物の中間にあるものとして,多くの議論を引き起こした.この業績で,1946年J.B. Sumner(サムナー),J.H. Northrop(ノースロップ)とともにノーベル化学賞を受賞した.
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1841~1904
イギリス生まれのジャーナリスト,探検家。リヴィングストン捜索におもむき,1871年ヴィクトリア湖岸のウジジで発見。74~77年アフリカ中央部の横断に成功。79年ベルギー国王レオポルド2世の要請でコンゴに向かい,諸首長と400もの「協定」を結び,ベルリン会議(1884~85年)でのコンゴ自由国承認を導いた。89年マフディー支配下のスーダンからエミン・パシャを「救出」。
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…おもな島は東フォークランド島(アルゼンチン名ソレダード島)と西フォークランド島(マルビナス島)で,周りに200余の小島がある。主都スタンリーは東フォークランド島にあり,人口1636(1996)である。住民の大半はイギリス系。…
… 奴隷制廃止にいたるまでのあいだに,19世紀に入る前後からヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われていた。1795年から1806年にかけて2度も西アフリカのニジェール川上流付近を探検したスコットランドのマンゴ・パーク,1820年代にサハラ砂漠を横断し西アフリカにいたった同じスコットランドのヒュー・クラッパートンHugh Clapperton(1788‐1827)や50‐70年代に幾度も東アフリカを探検した宣教師デビッド・リビングストン,行方不明になったリビングストンをタンガニーカ湖畔のウジジで発見して名を知られ,さらにベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けてコンゴの植民地化に辣腕をふるったイギリス生れのアメリカ人ジャーナリスト,ヘンリー・M.スタンリーなどは,この時代の探検家を代表する人びとである。探検はもともと科学的興味や人道主義的使命感からはじめられたものであったが,これによってもたらされたアフリカ内陸部に関する情報は,19世紀後半におけるヨーロッパ列強の領土的野心をいっそう刺激する結果を生んだ。…
…またD.リビングストンはナイル川とコンゴ川の水系調査に先駆的役割を果たした。ナイルの水源ビクトリア湖は62年スピークJohn Hanning Spekeによって発見され,コンゴ川の水系は76‐77年のH.スタンリーの全コース下航によって明らかとなった。探検家はいずれも探検地の人間と社会について報告することを忘れず,それがヨーロッパ人のアフリカ人認識の基礎となった。…
…観光や湖面交通の基地は北岸にあるウガンダのカトウェである。1875年H.スタンリーにより発見され,ビクトリア女王の夫の名を与えられた。彼はアルバート湖と連結していると考えたが,89年その独立性を確認した。…
…その流域は広大なコンゴ盆地とほぼ等しく,総面積369万km2におよび,アマゾン川に次いで世界第2位である。本流とされるルアラバ川はコンゴ民主共和国南東辺部を水源としてほぼ北流し,右岸にルブア川(ムウェル湖より上流,バングウェウル湖まではルアプラ川と呼ばれ,さらに源流はチャンベシ川と呼ばれる)を合わせ,スタンリー滝(ボヨマ滝)下流でキサンガニに達する。ここからコンゴ川と呼ばれるようになり,西,南西と弧を描き,スタンリー・プールと呼ぶ滞水部に入る。…
… 19世紀に入ると奴隷貿易が衰え,ヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われたのに続いて,同世紀末期にはアフリカの植民地分割競争が本格化した。コンゴについては,1878年以降ベルギー国王レオポルド2世がH.スタンリーを派遣して現地の首長たちと合計約400に及ぶ保護条約を結ばせ,84‐85年のベルリン会議で欧米列強にコンゴの植民地化を承認させる(ベルリン協定)ことに成功すると,これをコンゴ自由国と称して自らその王を兼ねた。コンゴ自由国は事実上レオポルド2世の私的植民地として他に類例を見ないほどの暴政のもとに置かれ,住民の土地に対する組織的収奪,ゴム農園の開発や象牙の採集を目的とした非人道的な強制労働制度の導入などのために,レオポルド2世はイギリスをはじめとする欧米諸国からベルリン協定違反として厳しい非難を浴びせられた。…
…ただしその証明は不十分であったので,スピークは60年に再度のビクトリア湖探査に赴き,61年7月21日,湖水が北流して出る口を発見,水系の主要部をゴンドコロまでたどった。ビクトリア湖が白ナイルの水源であることを確定的に証明するのはイギリスの(一時はアメリカ国籍)探検家H.スタンリーで,1875年のことである。【酒井 伝六】。…
…58‐64年のザンベジ川流域の探検,66‐73年のナイル川の水源を求めての探検では,イギリス人同行者との不和に悩まされ,とくに最後の探検では,同行者に医薬品を持ち逃げされたことが一つの原因となって病気に倒れ,一時は行方不明を伝えられた。タンガニーカ湖岸のウジジで《ニューヨーク・ヘラルド》紙から特派されたH.スタンリーに発見され(1871),以後5ヵ月近くスタンリーとともにタンガニーカ湖周辺部の探検を進めた。スタンリーの帰国勧誘を断ってアフリカにとどまり,73年チタンボ村(現,ザンビア中東部)で病没。…
※「スタンリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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