スタンリー(読み)すたんりー(英語表記)Wendell Meredith Stanley

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スタンリー」の意味・わかりやすい解説

スタンリー(Sir Henry Morton Stanley)
すたんりー
Sir Henry Morton Stanley
(1841―1904)

アメリカのアフリカ探検家、ジャーナリスト。イギリスの北ウェールズの田舎(いなか)町デンビーで私生児として生まれ、ジョン・ローランズと名づけられた。家庭的に恵まれず、6歳のとき救貧院に預けられた。17歳のときアメリカに渡り、イギリス生まれのヘンリー・スタンリーという商人の養子となり市民権も得た。南北戦争で両軍にそれぞれ加わって戦ったのち、ニューヨーク・ヘラルド社の臨時通信員となった。エチオピアにおけるイギリス軍のテオドロス2世攻略(マグダラの戦い)の大スクープでヘラルド社の正式社員となり、1869年、アフリカで消息を絶ったリビングストンを発見せよとの特命を受けた。

 1871年、タンガニーカ湖畔の一漁村ウジジでリビングストンとの劇的な邂逅(かいこう)を果たし、全世界に興奮を巻き起こした。74年ビクトリア湖に達し、ナイル川の源流を確認した。さらに再度タンガニーカ湖に赴き、アラブ商人ティップ・ティプの手助けでコンゴ川を下り、大西洋へ達した。また、マフディー軍によって連絡を絶たれたドイツの探検家エミン・パシャをスーダン南部で発見した。のちにベルギー国王のコンゴ自由国行政官を務め、1895年イギリス国会議員となった。不屈の精神と、敵対する人間への容赦ない態度から「岩を砕く人」とよばれた。

[青木澄夫]

『スタンリー著、宮西豊逸訳『世界教養全集23 暗黒大陸』(1974・平凡社)』『スタンリー著、村上光彦他訳『世界ノンフィクション全集3 リヴィングストン発見記』(1973・筑摩書房)』『リチャード・ホール著、米田清貴訳『探検家スタンリー伝 栄光と幻想』(1977・徳間書店)』『バイロン・ファーウェル著、川口正吉訳『ブーラ・マタリ 探検家スタンリーの生涯』(1959・刀江書院)』


スタンリー(William Stanley)
すたんりー
William Stanley
(1858―1916)

アメリカの電気技術者、発明家。エール大学に入学するが3か月で退学。合衆国電灯会社(のちにウェスティングハウス社の子会社となる)、スワン電灯会社(後のエジソン‐スワン電灯会社)の研究助手を勤めた。1883年には研究所を主宰し白熱電球の製造などを手がけた。1885年ウェスティングハウス社(現、CBS)に主任技師として入社、交流配電システムを開発し特許を得た。しかし会社側の採用が得られず、1890年には独立。ケリーJohn Forrest Kelly(1859―1922)、チェスニーCummings C. Chesney(1863―1947)とともにS・K・Cシステムとして知られた長距離交流配電システムの営業を開始した。これは1905年にゼネラル・エレクトリック社に引き継がれた。1898~1900年アメリカ電気技術者協会副会長、1912年には同協会よりエジソン・メダルを受けた。

[高橋智子]


スタンリー(Wendell Meredith Stanley)
すたんりー
Wendell Meredith Stanley
(1904―1971)

アメリカの生化学者。1946年ノーベル化学賞受賞(酵素ウイルスのタンパク質の純粋調整によりJ・H・ノースロップとともに、また、酵素が結晶化されることを発見したJ・B・サムナーとの同時受賞)。タバコの葉にモザイク病をおこす病原ウイルス(TMV)を結晶体として取り出すことに成功した(1935)。結晶する化学物質が、生物のように増殖し病気をおこすというので、当時の学界に大きな衝撃を与えた。また、早くから、癌(がん)のウイルス学的研究の重要性を指摘し続けた。1950年代なかばに、学界の大勢に抗して、これを主張するのは、非常に勇気の要ることであった。

 1929年イリノイ大学卒業。同大化学研究所からミュンヘン大学に留学、帰国後ロックフェラー研究所に入った(1932)。1948年カリフォルニア大学に移り、同大にウイルス研究所を創設、その所長となる。1965年(昭和40)第9回国際癌学会議(東京)に来日。日本学士院客員(1968)。大学時代はフットボールの選手として活躍した。

[梅田敏郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スタンリー」の意味・わかりやすい解説

スタンリー
Stanley

別称ポートスタンリー Port Stanley。イギリス領フォークランド諸島の首都。南アメリカ大陸南端部東岸沖にある同諸島の主島,イーストフォークランド島の北東岸にある。天然の良港にのぞみ,早くからイギリス人植民者が来住。南氷洋捕鯨基地として発展,第2次世界大戦中はイギリスの海軍基地となった。 1982年のフォークランド紛争に際しては,4月2日アルゼンチン軍が占領,「プエルトアルヘンティノ」と呼んだが,2ヵ月半後イギリス軍の攻囲によりアルゼンチン軍は降伏。現在同諸島の人口の半分以上がここに住み,主要港として発展。羊毛,羊皮,羊脂などを積出す。市内には 1892年建造の聖堂,同諸島唯一の病院,イギリス南極観測本部の通信基地などがあり,付近にはペンギンの繁殖地がある。郊外にイギリス軍守備隊の基地が所在。人口 1557 (1991) 。

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