スタンリー(読み)すたんりー(その他表記)Sir Henry Morton Stanley

デジタル大辞泉 「スタンリー」の意味・読み・例文・類語

スタンリー(Henry Morton Stanley)

[1841~1904]米国の探検家・ジャーナリスト。英国の生まれ。アフリカを探検し、行方不明となったリビングストンを救出。ナイル川の水源、コンゴ川の流路などを発見した。著「暗黒大陸の横断旅行」など。

スタンリー(Wendell Meredith Stanley)

[1904~1971]米国の生化学者。タバコモザイクウイルスを結晶体として取り出すことに成功。1946年、ノースロップとともにノーベル化学賞受賞。

スタンリー(Stanley)

オーストラリア、タスマニア州北西部の港町。バス海峡に面する。1820年代に牧羊の拠点として入植が始まった。その後、捕鯨やゴールドラッシュで栄え、古い街並みが残る。海に突き出た岬に、ザ‐ナットとよばれる台形の岩山がある。スタンレイ

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「スタンリー」の意味・読み・例文・類語

スタンリー

  1. [ 一 ] ( Wendell Meredith Stanley ウェンデル=メレディス━ ) アメリカの生化学者。タバコモザイク病の病原ウイルス(TMV)を結晶として分離し、これが核蛋白質であることを明らかにした。一九四六年ノーベル化学賞受賞。著「スティロールの化学」「ウイルスの化学的研究」。(一九〇四‐七一
  2. [ 二 ] ( Sir Henry Morton Stanley サー=ヘンリー=モートン━ ) イギリスのアフリカ探検家、新聞記者。アフリカで行方不明になった探検家リビングストンを見つけだした。ビクトリア湖タンガニーカ湖探検、ナイルの水源、コンゴ水路を発見。コンゴ自由国建設の基礎をつくった。(一八四一‐一九〇四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スタンリー」の意味・わかりやすい解説

スタンリー(Sir Henry Morton Stanley)
すたんりー
Sir Henry Morton Stanley
(1841―1904)

アメリカのアフリカ探検家、ジャーナリスト。イギリスの北ウェールズの田舎(いなか)町デンビーで私生児として生まれ、ジョン・ローランズと名づけられた。家庭的に恵まれず、6歳のとき救貧院に預けられた。17歳のときアメリカに渡り、イギリス生まれのヘンリー・スタンリーという商人の養子となり市民権も得た。南北戦争で両軍にそれぞれ加わって戦ったのち、ニューヨーク・ヘラルド社の臨時通信員となった。エチオピアにおけるイギリス軍のテオドロス2世攻略(マグダラの戦い)の大スクープでヘラルド社の正式社員となり、1869年、アフリカで消息を絶ったリビングストンを発見せよとの特命を受けた。

 1871年、タンガニーカ湖畔の一漁村ウジジでリビングストンとの劇的な邂逅(かいこう)を果たし、全世界に興奮を巻き起こした。74年ビクトリア湖に達し、ナイル川の源流を確認した。さらに再度タンガニーカ湖に赴き、アラブ商人ティップ・ティプの手助けでコンゴ川を下り、大西洋へ達した。また、マフディー軍によって連絡を絶たれたドイツの探検家エミン・パシャをスーダン南部で発見した。のちにベルギー国王のコンゴ自由国の行政官を務め、1895年イギリス国会議員となった。不屈の精神と、敵対する人間への容赦ない態度から「岩を砕く人」とよばれた。

[青木澄夫]

『スタンリー著、宮西豊逸訳『世界教養全集23 暗黒大陸』(1974・平凡社)』『スタンリー著、村上光彦他訳『世界ノンフィクション全集3 リヴィングストン発見記』(1973・筑摩書房)』『リチャード・ホール著、米田清貴訳『探検家スタンリー伝 栄光と幻想』(1977・徳間書店)』『バイロン・ファーウェル著、川口正吉訳『ブーラ・マタリ 探検家スタンリーの生涯』(1959・刀江書院)』


スタンリー(William Stanley)
すたんりー
William Stanley
(1858―1916)

アメリカの電気技術者、発明家。エール大学に入学するが3か月で退学。合衆国電灯会社(のちにウェスティングハウス社の子会社となる)、スワン電灯会社(後のエジソン‐スワン電灯会社)の研究助手を勤めた。1883年には研究所を主宰し白熱電球の製造などを手がけた。1885年ウェスティングハウス社(現、CBS)に主任技師として入社、交流配電システムを開発し特許を得た。しかし会社側の採用が得られず、1890年には独立。ケリーJohn Forrest Kelly(1859―1922)、チェスニーCummings C. Chesney(1863―1947)とともにS・K・Cシステムとして知られた長距離交流配電システムの営業を開始した。これは1905年にゼネラル・エレクトリック社に引き継がれた。1898~1900年アメリカ電気技術者協会副会長、1912年には同協会よりエジソン・メダルを受けた。

[高橋智子]


スタンリー(Wendell Meredith Stanley)
すたんりー
Wendell Meredith Stanley
(1904―1971)

アメリカの生化学者。1946年ノーベル化学賞受賞(酵素とウイルスのタンパク質の純粋調整によりJ・H・ノースロップとともに、また、酵素が結晶化されることを発見したJ・B・サムナーとの同時受賞)。タバコの葉にモザイク病をおこす病原ウイルス(TMV)を結晶体として取り出すことに成功した(1935)。結晶する化学物質が、生物のように増殖し病気をおこすというので、当時の学界に大きな衝撃を与えた。また、早くから、癌(がん)のウイルス学的研究の重要性を指摘し続けた。1950年代なかばに、学界の大勢に抗して、これを主張するのは、非常に勇気の要ることであった。

 1929年イリノイ大学卒業。同大化学研究所からミュンヘン大学に留学、帰国後ロックフェラー研究所に入った(1932)。1948年カリフォルニア大学に移り、同大にウイルス研究所を創設、その所長となる。1965年(昭和40)第9回国際癌学会議(東京)に来日。日本学士院客員(1968)。大学時代はフットボールの選手として活躍した。

[梅田敏郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「スタンリー」の意味・わかりやすい解説

スタンリー

アフリカ探検家,ジャーナリスト。英国生れ。旧名ジョン・ローランズ。青年のころ米国に渡り,のち米国商人スタンリーの養子となった。1871年,新聞記者として当時行方不明だったリビングストンを捜すためアフリカへ出発,タンガニーカ湖畔のウジジでリビングストンを発見。のち再三にわたってコンゴ地方を探検,植民地獲得に焦るベルギーのレオポルド2世に協力し,コンゴ自由国の成立に関与した。後年再び英国籍を得,英国下院議員となった。
→関連項目エドワード[湖]キサンガニキンシャサコンゴ[川]コンゴ民主共和国スタンリー滝ムバンダカリビングストン滝ルウェンゾリ山地

スタンリー

米国の生化学者,ウイルス学者。イリノイ大学卒業後,ドイツのH.O.ウィーラントの下で研究。のちカリフォルニア大学教授。各種ウイルスの研究を行い,1935年タバコモザイクウイルスの結晶化に成功,これが1本鎖RNAとそれをつつむタンパク質からなる化学物質であることを明らかにした。1946年ノーベル化学賞。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「スタンリー」の意味・わかりやすい解説

スタンリー
Henry Stanley
生没年:1841-1904

イギリスの探検家。北ウェールズの田舎に私生児として生まれ,感化院で育てられた。15歳のときそこを脱走,アメリカに渡り,ヘンリー・スタンリーという商人に拾われ,その名をもらった。南北戦争に従軍,戦後は新聞記者になり,政府軍とインディアンとの戦い,イギリスとエチオピアとの戦いなどの従軍記者として頭角を現した。ナイル川の水源地探検に赴いたまま消息を断ったリビングストンを探しに派遣され,1871年首尾よく彼と邂逅,2人でタンガニーカ湖を探検した。74年からは3年近い歳月をかけて,アフリカ大陸中央部をインド洋岸から大西洋岸まで横断した。列強に遅れてアフリカ植民地獲得競争に加わったベルギーのレオポルド2世は,79年彼をコンゴに派遣した。スタンリーも出席したベルリン会議(1884-85)は,彼が探検し現地の首長と協定を結んだ広大な地域をレオポルド2世の私有地(コンゴ自由国)として認めた。87年にはエジプト南部でマフディー派の抵抗運動のため孤立させられた総督の救出に派遣され,この間アルバート湖周辺の探検も行った。92年アメリカ国籍からイギリス国籍に戻り,95年下院議員となり,99年にはサーの称号を受けた。
アフリカ探検
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

化学辞典 第2版 「スタンリー」の解説

スタンリー
スタンリー
Stanley, Wendell Meredith

アメリカの生化学者.1929年イリノイ大学のR. Adamsのもとで化学のPh.D.を取得.翌年ドイツのミュンヘン大学のH.O. Wieland(ウィーラント)のもとでステロイドの研究をし,帰国後,1932年ロックフェラー研究所の助手となり,各種ウイルスの研究に従事,1940年同研究所所員となる.1948年カリフォルニア大学バークレー校教授,同ウイルス研究所所長となる.1935年タバコモザイクウイルスを分離し,核タンパク質結晶として取り出したが,この結晶は生命のない化学的な物質のように見えながら,細胞内で成長,増殖し,病原体として作用するところから,生物と無生物の中間にあるものとして,多くの議論を引き起こした.この業績で,1946年J.B. Sumner(サムナー),J.H. Northrop(ノースロップ)とともにノーベル化学賞を受賞した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

現代外国人名録2016 「スタンリー」の解説

スタン リー
Stan Lee

職業・肩書
漫画原作者 マーベル・コミックス名誉会長

国籍
米国

生年月日
1922年12月28日

出生地
ニューヨーク

経歴
高校卒業後の1939年、おじの経営するタイムリー・コミックス(現・マーベル・コミックス)に事務員として入社。編集と原作を担当し、漫画家のジャック・カービー、スティーブ・ディッコと組み、カービーとは「超人ハルク」「X-メン」、ディッコとは「スパイダーマン」「ドクター・ストレンジャー」といったスーパーヒーローを世に送り出した。’61年「ファンタスティック・フォー」の原作を担当、’60年代は世界的に有名なキャラクターたちが共存する“マーベル・ユニバース”を確立した。’73年来日、’93年マーベル社と小学館との提携で来日、2000年日本企業との合併会社設立で来日。

出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スタンリー」の意味・わかりやすい解説

スタンリー
Stanley

別称ポートスタンリー Port Stanley。イギリス領フォークランド諸島の首都。南アメリカ大陸南端部東岸沖にある同諸島の主島,イーストフォークランド島の北東岸にある。天然の良港にのぞみ,早くからイギリス人植民者が来住。南氷洋捕鯨基地として発展,第2次世界大戦中はイギリスの海軍基地となった。 1982年のフォークランド紛争に際しては,4月2日アルゼンチン軍が占領,「プエルトアルヘンティノ」と呼んだが,2ヵ月半後イギリス軍の攻囲によりアルゼンチン軍は降伏。現在同諸島の人口の半分以上がここに住み,主要港として発展。羊毛,羊皮,羊脂などを積出す。市内には 1892年建造の聖堂,同諸島唯一の病院,イギリス南極観測本部の通信基地などがあり,付近にはペンギンの繁殖地がある。郊外にイギリス軍守備隊の基地が所在。人口 1557 (1991) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「スタンリー」の解説

スタンリー
Henry Morton Stanley

1841~1904

イギリス生まれのジャーナリスト,探検家。リヴィングストン捜索におもむき,1871年ヴィクトリア湖岸のウジジで発見。74~77年アフリカ中央部の横断に成功。79年ベルギー国王レオポルド2世の要請でコンゴに向かい,諸首長と400もの「協定」を結び,ベルリン会議(1884~85年)でのコンゴ自由国承認を導いた。89年マフディー支配下のスーダンからエミン・パシャを「救出」。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

知恵蔵mini 「スタンリー」の解説

スタン・リー

米国漫画の原作者。1922年12月28日、ニューヨーク出身。39年、大手漫画出版社「マーベル・コミック」の前身会社に入社し、漫画の原作を執筆し始める。同社のコミック部門に配属されると、翌年には18歳という若さで編集長となった。61年、人間味あふれるヒーローを主人公とした『ファンタスティック・フォー』を漫画家のジャック・カービーと共同で創刊。以後、『ハルク』、『アイアンマン』、『スパイダーマン』、『X-MEN』といったスーパーヒーローを主人公とする作品の原作を次々と発表し、人気を博した。2018年11月12日、95歳で死去した。

(2018-11-15)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「スタンリー」の解説

スタンリー
Henry Morton Stanley

1841〜1904
アメリカのアフリカ探検家・ジャーナリスト
イギリスに生まれ,アメリカで新聞記者となる。消息不明となったリヴィングストン捜索のためアフリカにおもむき,1871年彼を発見。前後4回の探検により,ナイル川の水源やコンゴなどの事情を明らかにした。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「スタンリー」の解説

スタンリー

1996年初演のパム・ジェムズによる戯曲。原題《Stanley》。20世紀前半から半ばにかけて活躍した実在の画家サー・スタンリー・スペンサーの晩年を描いた作品。1997年に第21回ローレンス・オリヴィエ賞(新作演劇賞)を受賞。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のスタンリーの言及

【フォークランド[諸島]】より

…おもな島は東フォークランド島(アルゼンチン名ソレダード島)と西フォークランド島(マルビナス島)で,周りに200余の小島がある。主都スタンリーは東フォークランド島にあり,人口1636(1996)である。住民の大半はイギリス系。…

【アフリカ】より

… 奴隷制廃止にいたるまでのあいだに,19世紀に入る前後からヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われていた。1795年から1806年にかけて2度も西アフリカのニジェール川上流付近を探検したスコットランドのマンゴ・パーク,1820年代にサハラ砂漠を横断し西アフリカにいたった同じスコットランドのヒュー・クラッパートンHugh Clapperton(1788‐1827)や50‐70年代に幾度も東アフリカを探検した宣教師デビッド・リビングストン,行方不明になったリビングストンをタンガニーカ湖畔のウジジで発見して名を知られ,さらにベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けてコンゴの植民地化に辣腕をふるったイギリス生れのアメリカ人ジャーナリスト,ヘンリー・M.スタンリーなどは,この時代の探検家を代表する人びとである。探検はもともと科学的興味や人道主義的使命感からはじめられたものであったが,これによってもたらされたアフリカ内陸部に関する情報は,19世紀後半におけるヨーロッパ列強の領土的野心をいっそう刺激する結果を生んだ。…

【アフリカ探検】より

…またD.リビングストンはナイル川とコンゴ川の水系調査に先駆的役割を果たした。ナイルの水源ビクトリア湖は62年スピークJohn Hanning Spekeによって発見され,コンゴ川の水系は76‐77年のH.スタンリーの全コース下航によって明らかとなった。探検家はいずれも探検地の人間と社会について報告することを忘れず,それがヨーロッパ人のアフリカ人認識の基礎となった。…

【エドワード[湖]】より

…観光や湖面交通の基地は北岸にあるウガンダのカトウェである。1875年H.スタンリーにより発見され,ビクトリア女王の夫の名を与えられた。彼はアルバート湖と連結していると考えたが,89年その独立性を確認した。…

【コンゴ[川]】より

…その流域は広大なコンゴ盆地とほぼ等しく,総面積369万km2におよび,アマゾン川に次いで世界第2位である。本流とされるルアラバ川はコンゴ民主共和国南東辺部を水源としてほぼ北流し,右岸にルブア川(ムウェル湖より上流,バングウェウル湖まではルアプラ川と呼ばれ,さらに源流はチャンベシ川と呼ばれる)を合わせ,スタンリー滝(ボヨマ滝)下流でキサンガニに達する。ここからコンゴ川と呼ばれるようになり,西,南西と弧を描き,スタンリー・プールと呼ぶ滞水部に入る。…

【コンゴ民主共和国】より

… 19世紀に入ると奴隷貿易が衰え,ヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われたのに続いて,同世紀末期にはアフリカの植民地分割競争が本格化した。コンゴについては,1878年以降ベルギー国王レオポルド2世H.スタンリーを派遣して現地の首長たちと合計約400に及ぶ保護条約を結ばせ,84‐85年のベルリン会議で欧米列強にコンゴの植民地化を承認させる(ベルリン協定)ことに成功すると,これをコンゴ自由国と称して自らその王を兼ねた。コンゴ自由国は事実上レオポルド2世の私的植民地として他に類例を見ないほどの暴政のもとに置かれ,住民の土地に対する組織的収奪,ゴム農園の開発や象牙の採集を目的とした非人道的な強制労働制度の導入などのために,レオポルド2世はイギリスをはじめとする欧米諸国からベルリン協定違反として厳しい非難を浴びせられた。…

【ナイル[川]】より

…ただしその証明は不十分であったので,スピークは60年に再度のビクトリア湖探査に赴き,61年7月21日,湖水が北流して出る口を発見,水系の主要部をゴンドコロまでたどった。ビクトリア湖が白ナイルの水源であることを確定的に証明するのはイギリスの(一時はアメリカ国籍)探検家H.スタンリーで,1875年のことである。【酒井 伝六】。…

【リビングストン】より

…58‐64年のザンベジ川流域の探検,66‐73年のナイル川の水源を求めての探検では,イギリス人同行者との不和に悩まされ,とくに最後の探検では,同行者に医薬品を持ち逃げされたことが一つの原因となって病気に倒れ,一時は行方不明を伝えられた。タンガニーカ湖岸のウジジで《ニューヨーク・ヘラルド》紙から特派されたH.スタンリーに発見され(1871),以後5ヵ月近くスタンリーとともにタンガニーカ湖周辺部の探検を進めた。スタンリーの帰国勧誘を断ってアフリカにとどまり,73年チタンボ村(現,ザンビア中東部)で病没。…

※「スタンリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android