イギリスの工芸家、詩人、思想家。3月24日ロンドン近郊ウォルサムストーに生まれる。オックスフォード大学エクシター・カレッジに学ぶ(1853~1855)。ここでバーン・ジョーンズと親交を結び、またジョン・ラスキンの思想に触れ、とりわけゴシック建築への関心を深めた。初め建築家を志したが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの勧めで画家志望に転ずる。1850年代の終わりには広く生活環境の美化を目ざすようになり、1861年、知人たちと語らってモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立(1875年、単独のモリス商会となる)。壁面装飾からステンドグラス、家具、金工に至る室内装飾のいっさいに取り組んだ。1877年には最初の講演「装飾芸術」を行い、また古代建築保存協会を設立するなど、対社会的なアピールが始まる。詩人としてもすでに『ジェイソンの生涯と死』などで知られていたが、文学におけるその唯美主義的傾向は、工芸家としてのモリスの中世礼賛と交錯しつつ、やがては19世紀文明への批判という形をとることになる。
すなわち、モリスが相対する社会とは、産業革命が招来した愚かしい機械の時代、そして貧富の差が極端な時代である。日々の労働が創造の喜びに包まれたかつての時代を復興するため、彼としては社会変革にとりかかる必要があり、社会主義を宣言して政治活動に身を投じることになった。『ユートピアだより』(1890)はこの時期の文学作品である。工芸方面の仕事も多くの領域にわたって続けられたが、彼の仕事そのものが20世紀に向けての工芸の道を切り開いたとはいいがたく、多分に懐古的な傾向さえみられる。しかし、1880年代に入ってモリスの教えに刺激された各種工芸家の組織が形成され、近代デザイン運動の発端をつくった。この動きはアーツ・アンド・クラフツ運動とよばれる。
晩年はハマースミスにケルムスコット・プレスを設立(1891)、印刷・造本の仕事に没頭し、ここで、ケルムスコット版チョーサーとして知られる『カンタベリー物語』(1896)などが印刷・製本された。1896年10月3日同地に没。モリスの思想は大正から昭和初期にかけて日本にも紹介され、各方面に大きな影響を与えた。柳宗悦(やなぎむねよし)らによる日本の民芸運動も、モリスの理念の展開としてとらえられる。
[高見堅志郎 2015年7月21日]
『モリス著、内藤史朗訳『世界教育学選集63 民衆のための芸術教育』(1971・明治図書出版)』▽『松村達雄訳『ユートピアだより』(岩波文庫)』▽『岡田隆彦編著『ウィリアム・モリスとその仲間たち――アール・ヌーボーの源流』(1978・岩崎美術社)』▽『レイ・ワトキンソン著、羽生正気・羽生清訳『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』(1985・岩崎美術社)』▽『『小野二郎著作集1 ウィリアム・モリス研究』(1986・晶文社)』
アメリカの美術家。ミズーリ州カンザス・シティに生まれる。1960年代から1970年代にかけておこった芸術のさまざまな傾向、たとえばミニマル・アート、アンチ・イリュージョン(名称は1969年、ホイットニー美術館で開催された展覧会名に由来する。作品における幻影的効果を排除し、鉄や木材、繊維の塊など、素材をそのまま提示したり、また運動や制作の過程をそのまま作品とする傾向)、アースワークなどのすべてにかかわり、また芸術理論の執筆やパフォーマンスやダンスの振付け、自身によるパフォーマンスなどもこなす多才さをもつ。
カンザス市立大学で工学、ついで芸術を学ぶ。1951年にサンフランシスコに移り、カリフォルニア美術学校で学び、一時兵役についた後さらにオレゴンのリード大学で哲学を学ぶ。翌1952年サンフランシスコに戻り、おもに西海岸を活動の場とし、ダンス、即興劇、映画、絵画などを精力的に手がける。1961年ニューヨークに移り、彫刻の制作を始めるとともにハンター・カレッジに入学、美術史と美術批評を専攻する。このころからジャンルを問わず、西海岸出身の同世代の芸術家たちと交流を深める。そのなかには舞踊家イボンヌ・レイナーYvonne Rainer(1934― )、作曲家ラ・モンテ・ヤングらがいた。
こうしたキャリアを背景に多種多様な作品が制作されるが、それでもそこにはつねに、人間の身体、とくにその行為や知覚についての考察が含まれている。この傾向は1960年代の作品に顕著である。たとえばマネの絵画作品『オランピア』(1863)を題材にしたパフォーマンス作品『場』(1964)は、この絵画と同じようにベッドに横たわった裸の女性の前を、モリスが白い板で遮(さえぎ)りながら歩くというもので、「見える/見えない」という関係に、「存在する/存在しない」という関係が重ね合わされていた。またパフォーマンス作品と並行して制作された、ごく単純な幾何形態をとる一連の立体作品は、モリスをドナルド・ジャッドやカール・アンドレと並ぶミニマル・アートの作家として認知させることになる。それらの作品にしても、もともとはパフォーマンスやダンス作品で使う道具として構想されていたのを、そこから切り離して展開しなおしたものである。そしてモリス自身が1966年の彫刻論(『彫刻に関する覚え書き』Notes on Sculpture)でいうように、これら立体作品ではパフォーマーの行為ではなく観客の知覚や行為が問題となっている。それらの立体作品は、観客の視点の移動によって、また作者自身が日々作品の配置を変更することによって、見え方を劇的に変える。つまり、かつてパフォーマーがいた位置に、今度は作品の鑑賞者が立つことになるのである。
そして1960年代の終わりになると、この単純な幾何形態は解体される。彼自身が「アンチ・フォーム」とよぶ一連の作品が登場する。それらはたとえば部屋中に散乱する金属や木、ゴムの切れ端であり、あるいは壁からだらしなく垂れ下がるフェルト、さらには地面に開けた四角い穴から吹きだす蒸気であったりする。そしてときにはそれらもまた、作者の手によって日々変更が加えられる。今度はぐにゃぐにゃ、ふわふわしたつかみどころのない形の知覚が問題になるのである。
さらに1970年代には巨大な迷路の作品に移行、その後は『黙示録』を題材にした重々しいレリーフ作品を制作したかと思うと、1990年代の終わりには再びかつての迷路の再構築のような作品も制作した。めまぐるしく作風を変えはするものの、ある問題にきわめて知的・論理的に取り組んで一定の解答を得て、それを足がかりに次の問題へと移るという姿勢は一貫していた。
[林 卓行 2018年12月13日]
イギリスの動物行動学者。ウィルトシャーに生まれる。オックスフォード大学で高名なオランダの動物学者ティンバーゲンに学び博士号を取得。1956年ロンドン動物園のテレビ映像部門の責任者となり、1959~1967年は同動物園の哺乳(ほにゅう)動物科長を務めた。その間に、多くの映画・テレビ番組や著作を発表したが、なかでも『裸のサル』(1967)は大きな話題となり、世界中で翻訳されて800万部も売れた。
その後『人間動物園』(1969)、『ふれあい』(1971)と人間行動に関する著作が続き、とくに人間の身体言語を研究した『マンウォッチング』(1977)は、その後のウォッチング・シリーズの基盤となった。1973年には母校の特別研究員に迎えられ、フットボール・クラブの理事にもなって『サッカー人間学』(1981)を書き、さらに年齢別の人間行動の実態を具体的に論述した『年齢の本』(1983)、人体各部に独自の解析を試みた『ボディウォッチング』(1985)を発表した。
1982年(昭和57)には来日して、テレビ番組『マンウォッチング 日本』を制作。1986年からはペットの行動分析に興味をもち、『ドッグ・ウォッチング』『キャット・ウォッチング』(ともに1986)などの著作とビデオをつくった。1990年代には『赤ん坊はなぜかわいい?(ベイビー・ウォッチング)』(1991)、『ボディートーク』(1994)、『セックスウォッチング』(1997)などを出版、2000年にはこれまでの世界各地でのマンウォッチングの旅をまとめた『裸の眼(め)』を出すなど、長年にわたって多彩な研究・著作と映像作成に励んできた。なお、モリスは美術にも造詣(ぞうけい)が深く、60年以上にわたって自身の作品をロンドン、パリなどのギャラリーで発表している。
[藤田 統]
『日高敏隆訳『裸のサル――動物学的人間像』(1969・河出書房新社/改訂版・角川文庫)』▽『矢島剛一訳『人間動物園』(1970・新潮選書)』▽『石川弘義訳『ふれあい――愛のコミュニケーション』(1974・平凡社)』▽『藤田統訳『マンウォッチング』(1980・小学館)』▽『小原秀雄監修、鶴田公江訳『ナポレオンとひきがえる』(1981・日本ブリタニカ/改題改訂版『モリス自伝――動物とわたし』・1988・角川選書)』▽『岡野俊一郎監修、白井尚之訳『サッカー人間学――マンウォッチングⅡ』(1983・小学館)』▽『日高敏隆訳『年齢の本』(1985・平凡社)』▽『藤田統訳『ボディウォッチング』(1986・小学館)』▽『竹内和世訳『ドッグ・ウォッチング――イヌ好きのための動物行動学』(1987・平凡社)』▽『羽田節子訳『キャット・ウォッチング――ネコ好きのための動物行動学』(1987・平凡社)』▽『幸田敦子訳『赤ん坊はなぜかわいい?――ベイビー・ウォッチング12か月』(1995・河出書房新社)』▽『日高敏隆監修、羽田節子訳『セックスウォッチング――男と女の自然史』(1998・小学館)』▽『東山安子訳『ボディートーク――世界の身ぶり辞典』(1999・三省堂)』▽『別宮貞徳訳『裸の眼――マン・ウォッチングの旅』(2001・東洋書林)』
アメリカのプロ野球選手(左投左打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のタンパベイ・デビルレイズ(現タンパベイ・レイズ)で投手としてプレー。35歳でデビューした、元教師の新人ということで注目を集めた異色の大リーガーである。
1月19日、テキサス州ブラウンウッドで生まれる。レンジャー短大から1983年、第二次ドラフト1巡目指名を受けてミルウォーキー・ブリュワーズに入団。マイナーのルーキー級に配属され、3勝6敗の成績を残した。1984年はA級に昇格し、8勝をマークして期待されたが、85年は故障がちで振るわなかった。1986年は左肩を手術してシーズンを全休し、87年に再起を目ざしたが4試合の登板で解雇。1988年もふたたび手術を受けてリハビリに費やし、89年はシカゴ・ホワイトソックスのマイナーA級で再スタートを切ったが、この年も故障で2試合しか投げられず、同年限りで野球界から引退した。その後、高校の野球部で監督をしていたが、1999年に野球部の選手たちとの約束でデビルレイズの入団テストを受けることになって合格。左肩はみごとに回復していた。AA級、AAA級を経て、その年のうちに大リーグへ初昇格し、5試合に登板。2000年も救援としてワンポイントで起用され、16試合に登板した。シーズンオフに解雇され、一度はロサンゼルス・ドジャースと契約したが、引退した。2002年、自伝が映画化(邦題『オールド・ルーキー』)された。
2年間の通算成績は、登板試合21、投球回15、0勝0敗、防御率4.80、奪三振13、完投0、完封0。
[山下 健]
『ジム・モリス、ジョエル・エンゲル著、松本剛史訳『オールド・ルーキー 先生は大リーガーになった』(2001・文芸春秋)』
アメリカの哲学者。コロラド州デンバーに生まれる。ウィスコンシン大学およびノースウェスタン大学で学び、シカゴ大学大学院で学位をとる。長くシカゴ大学教授を務めたのち、フロリダ大学教授となる。
ウィーン学団の統一科学運動をシカゴに迎え入れ、ノイラート、カルナップとともに『統一科学の国際百科全書』(1938年より刊行、1969年第2巻完結)を編集する。ここで彼は、論理実証主義とプラグマティズムという二つの経験主義的理論を統一するものとして「記号論」を提唱した。それは記号間の関係を扱う「統語論」、記号と対象との関係を扱う「意味論」、記号と解釈者との関係を扱う「語用論」の三つに分けられる(『記号論の基礎』1938)。この構想はのちに行動主義の立場から再編成される(『記号・言語・行動』1946)。そのほかに、人間のさまざまな生き方を分類した『人生の道』(1942)、各国の人々の価値観の相違をアンケート調査に基づいて明らかにした『人間の価値の諸相』(1956)などの著書がある。
[魚津郁夫 2015年10月20日]
イギリスの日本文学研究家、翻訳者。ロンドン生まれ。「紫式部の文体」でロンドン大学より学位取得。『光源氏の世界』でダフ・クーパー賞を受賞。コロンビア大学東洋学部長、国際アムネスティ・アメリカ支部長として活躍。大岡昇平『野火』、三島由紀夫『金閣寺』、丸山真男(まさお)『現代政治の思想と行動』などを翻訳。私小説の始発を森鴎外(おうがい)の『舞姫』に指摘し、戦後文学の終焉(しゅうえん)を太宰治(だざいおさむ)の自殺に明証するなど、近代文学の史的構造に独自の分析を試みた。日本翻訳出版文化賞を受けた『枕草子(まくらのそうし)』(1967)の翻訳と研究で国際的名声を確立。主著『挫折(ざせつ)の高貴性――日本史の悲劇の英雄』(1975)は、三島由紀夫に捧(ささ)げられ、日本民族の精神史的研究の画期的成果として欧米の知識人に衝撃を与えた。A・ウェーリーの直弟子である。
[千葉宣一]
『斎藤和明訳『光源氏の世界』(1969・筑摩書房)』▽『斎藤和明訳『高貴なる敗北――日本史の悲劇の英雄たち』(1981・中央公論社)』
アメリカの小説家。ネブラスカ州生まれ。自在で鋭い想像力と旺盛(おうせい)な創作力をもち、土着性と国際性を備えた、現代アメリカ文学の特異な存在である。全米図書賞を受賞した代表作『視界』(1956)は、メキシコの闘牛場を背景に、アメリカ人グループの過去と現在を、視点の手法を駆使して描いた、アメリカ探究の力作である。ほかに『ダドレーおじさん』(1942)、『食人種の中の愛』(1957)、『ローン・ツリーの祝宴』(1960)、『火の説教』(1971)など多数の長編小説を書いている。得意の写真にテクストを組み合わせた『居住者たち』(1946)、『家郷』(1948)、『情事――ベニスの日記』(1972)のほか、評論集として『彼方(かなた)の土地』(1958)、『小説について』(1975)などがある。
[武藤脩二]
『武藤脩二訳『視界』(1974・白水社)』
イギリスの詩人,工芸家,社会改革家。エセックス州の裕福な実業家の家に生まれる。聖職を志して,オックスフォードのエクセター・カレッジに入学。幼いころから中世のロマンスの世界に憧れており,中世史を熱心に学ぶ。オックスフォード運動の余波やラスキン,ピュージン,ラファエル前派の影響を受け,宗教的・芸術的情熱の発露を建築に見いだして,56年建築家G.E.ストリートの弟子となる。大学入学以来の親友バーン・ジョーンズが師と仰いだD.G.ロセッティにひかれて画家を志望し,57年オックスフォードのユニオン討議場の天井と壁画の装飾に加わったのち工芸家に転向。〈世界で一番美しい家〉と呼んだ新居レッド・ハウスRed House(1860)にふさわしい家具調度類を,家を設計したP.ウェッブらとデザインする。これを端緒に61年ロセッティ,バーン・ジョーンズ,ウェッブら7名を設立参加者にして,ステンド・グラス,家具,タイル,壁紙,染織など室内装飾のいっさいをとり扱うモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立して,モリス自身も椅子,壁紙,染色などのデザインに携わった(1875年,モリスの単独経営によるモリス商会として再発足)。
彼は産業革命によって可能となった大量生産で市場に氾濫する俗悪な製品を嫌悪し,作る人にとっても使う人にとっても喜びとなるような製品を作るべきであるという信念から,中世を範とし,手仕事と共同作業による,労働および工芸品の質に変革が必要なことを主張した。これはアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの推進力,ひいては近代デザイン誕生の布石となるものである。77年には古代建築保護委員会を設立し,この頃から急進的な政治的発言をするようになる。83年には社会民主連盟に参加し,自ら社会主義者と名のる。84年新たに社会主義者同盟を設立。90年にはこれを退きさらにハマースミス社会主義者協会を設立。講演,文筆活動を精力的に行って,芸術による社会改革を訴えた。
彼はすでに56年,仲間たちと《オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン》を刊行し,詩や随筆を発表している。《ギネビアの抗弁》(1859),《地上楽園》(1868),社会主義者同盟の機関誌《コモンウィール》に連載した《ジョン・ボールの夢》(1886-87。単行本1888),《ユートピア便りNews from Nowhere》(1890。単行本1891)など,中世の理想社会を主題とする多くの著作のほか,アイスランドの伝説,古代英詩,ギリシア古典などの翻訳も行った。美しい本づくりも彼の夢の一つであり,早くから彩色手稿本の製作を手がけていたが,90年ケルムスコット・プレスを創設する。1877年にオックスフォードの詩学教授の座を,92年にテニソン死後の桂冠詩人の座をいずれも拒否。彼の多岐にわたる活動は,欧米のみならず日本でも広く受容されたが,とくに,台頭期の社会主義運動や柳宗悦の民芸運動などに及ぼした影響は見のがすことはできない。
執筆者:湊 典子
アメリカの哲学者,記号学者。アメリカにおける論理実証主義,統一科学運動の指導者のひとり。コロラド州のデンバーに生まれ,ウィスコンシン大学とノースウェスタン大学で工学,生物学,心理学などを学び,その後シカゴ大学に移って哲学を専攻した。1925年に博士号を取得,長年シカゴ大学で教え,58年からフロリダ大学に移った。モリスの思想はプラグマティズムに属し,特にC.S.パースの記号学,J.デューイの行動の哲学,G.H.ミードの社会心理学の影響を強く受けている。モリスを特に著名にしたのは,38年の小冊子《記号理論の基礎》(《統一科学国際百科全書》の第1巻第2分冊)で,統一科学の普遍的基礎学として,記号学を創唱したことである。その内容については批判も多いが,記号過程(セミオシス)を記号と記号の関係,記号とその表意対象の関係,記号とその解釈者(または使用者)の関係の三つの側面に区分し,それらに対応する記号学の部門をそれぞれ〈構文論〉〈意味論〉〈語用論〉と称し,この3部門から成る記号学の体系を提唱したことは広く受け入れられ,今日学界に定着している。なお,モリスは主著《記号,言語および行動》(1946)において,彼の記号学を新たに行動学的に基礎づけ,さらに発展させている。
執筆者:米盛 裕二
イギリスの動物学者。バーミンガム大学を卒業,オックスフォード大学でティンバーゲンの下に研究を続ける。魚類や哺乳類の行動の研究から出発したが,徐々に人間の動物学的研究へと関心を移し,《裸のサル》(1967)では動物行動学,生態学を適用した大胆な人間論を展開して話題となった。そのほかにも《芸術の誕生》(1962),《マンウォッチング》(1977)など動物学関係の一般向けの著作が多く,R.アードリーとともに動物行動学的思想の普及に果たした役割は大きい。
執筆者:小林 伝司
アメリカの商人,政治家。イギリスに生まれ,1747年ごろアメリカに渡る。フィラデルフィアでウィリングらと提携しつつ貿易商として成功。独立革命時は革命政府の財務総監(1781-84)を務め,公私の信用を駆使して財政難を救済し〈独立革命の財政家〉と呼ばれた。戦後はフェデラリスツの政治家として連邦議会上院議員(1789-95)などを務めて活躍したが,土地投機に失敗して獄につながれ失意のうちに死んだ。
執筆者:田島 恵児
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… 人の唇は他の霊長類に比べて厚く外へめくれている。D.J.モリスは,人が直立したために性的信号を前面から送るようになり,めくれた赤唇は陰唇を模倣した信号となっているという。彼によれば,唇の薄い類人猿も上手にキスするから,人の唇の形は触覚よりも視覚信号であり,性的興奮によって唇も膨れるし,文化的にも数千年の昔から口紅で赤く装い性器を暗示してきた。…
…象は胸に2個の乳房をもつという指摘(《動物部分論》同上)は,より正しくは前肢の付け根というべきで,ほかでは霊長類とコウモリの胸に乳首がある。 霊長類の中で人だけが隆起した乳房をもつ理由について,D.J.モリスはそれが猿の〈肉質の尻(しり)のコピー〉だからという(《裸のサル》)。2足で直立して胸と腹を見せ合う人間にとっては,他の霊長類のように充血したしりの性皮を見せて異性を性的に誘う方法は有効でない。…
…狭義では上記の展覧会を指すが,広義ではミニマル・アートからコンセプチュアル・アートにかけての動向中の立体造形(彫刻)を指す。代表的作家は,カロAnthony Caro(1924‐ ),ジャッドDonald Judd(1928‐94),ルウィットSol LeWitt(1928‐ ),モリスRobert Morris(1931‐ ),キングPhilip King(1934‐ ),グローブナーRobert Grosvenor(1937‐ )ら。【千葉 成夫】。…
…このような理想主義は,社会主義の原理を包括することによってはじめて実現可能となるのであるから,芸術活動は必然的にきわめて社会主義的性格をもつこととなった。情熱的なW.モリスの活動によってこの運動は形をなし,61年,モリス・マーシャル・フォークナー商会の設立(1875年,モリスの個人経営によるモリス商会として再発足)となって一段と社会性をもつにいたる。彼は大量生産に抗し,生活空間の美化をはかるためにはあらゆる部門の連携が必要であると考え,多くのデザイナーと提携した。…
…ラスキンは工業社会が生み出す醜悪な生活環境に抗議し,ゴシックの時代の工人の伝統をよみがえらせようとした。これに呼応してW.モリスは,家具や衣服など身のまわりのもののデザインに関心を向けた。また19世紀後半は,万国博覧会の時代でもあり,パリやロンドンで開かれた博覧会には世界中から出品され,ヨーロッパは自分たちの芸術だけが唯一ではないことを知った。…
…W.モリスのはじめた印刷工房で,名称は彼のオックスフォード近郊の別荘の名にちなむ。1891年設立,モリスの死後2年を経た98年まで存続し,その間に53部65巻の書物を出版した。…
…そのため,さまざまな様式というものは構造体の表面にはりつける装飾であると考えられるようになった。 このようなルネサンス以来の装飾に対する考え方に革新的な意見を述べたのは,W.モリスである。モリスは産業革命による労働の分化と機械化に抵抗して,手工芸の復活につとめた室内装飾家と目されているが,様式をはりつけたとしか思えないような歴史主義の装飾にも強く反対した。…
…同年,党内民主主義と社会主義戦術とをめぐり分裂。W.モリスらは脱退し,エンゲルスの支持を得て社会主義連盟を結成する。連盟がアナーキズムに傾く一方,ハインドマンのSDFは失業者示威運動を組織して戦闘性を強め,革命と改良の中間の道を選んだ。…
…服装の簡素化をもたらしたフランス革命の影響によってヨーロッパ大陸の伝統手芸は急速に衰え,またイギリスでも産業革命の勃興とともに手作り品は機械生産品との競争に敗れ,衰微していった。伝統技術の衰微を憂えたW.モリスはその保存を図る運動を起こし,王立刺繡学校設立の機運をつくった。 日本で手芸という言葉が使われたのは明治以降で,それ以前にはつまみ細工,押絵,袋物などが細工物と呼ばれて女子の教養の一部として盛んに行われていた。…
…イギリスのW.モリスの3巻,4万2000行に及ぶ長編詩。1868‐70年刊。…
… このような生産技術を中心とした流れのほかに,もう一つの水脈があった。それは19世紀後半イギリスのW.モリスとアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントである。モリスらは機械製品の粗悪な質に対して,かつて手仕事による工芸品がもっていた質の回復を図ろうとする。…
… 第2は,ロマン主義の影響のもとに成立したものであり,第1とは逆に高度な技術文明を嫌悪し,前産業化社会を背景として調和と協働,自然への回帰と人間性の回復を基調とする理想社会をもとめた。ブルワー・リットン《未来の人種》(1871),W.モリス《ユートピア便り》(1890)などが典型例で,これらは社会運動としてはギルド社会主義にも結びつき,近代社会批判として強い影響力をもった。 第3は,党派的なユートピアであるが,かつて宗教的運動の中で主張されたような孤絶したユートピア構想とは異なった,新しい開放性をもっている。…
※「モリス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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