20世紀ドイツの政治学者、公法学者。ウェストファーレンのプレッテンベルクに生まれる。ベルリン、ミュンヘン、ストラスブール大学で法律学を修め、「責任および責任の種類に関して、その術語的研究」という刑事責任論の論文を書いて学位を得た。グライフスワルト、ボン、ベルリン商科、ケルン、ストラスブール大学教授を歴任し、ヒトラー政権成立後ベルリン大学教授に任命され、ナチ法学界の中心的存在となったが、1936年ごろから彼の政治学は民族理論が弱いとして批判を受け、第一線から退いた。
第二次世界大戦後はアメリカ軍によって一時期勾留(こうりゅう)され、釈放後は故郷のプレッテンベルクで著作活動を続け、『大地のノモス』(1950)、『ドノソ・コルテス論』(1950)、『パルチザンの理論』(1963)などを発表している。
第一次世界大戦前は公法学者として活躍し、『法律と判決』(1912)、『国家の価値と個人の意義』(1914)などを発表し注目されたが、戦後は政治学者に転じ、ワイマール体制下にあって一貫して「強いドイツ」の復興のために理論活動を行った。『政治的ロマン主義』(1919)、『独裁論』(1921)、『政治神学』(1922)、『現代議会主義の精神史的地位』(1923)、『大統領の独裁』(1924)、『政治的なものの概念』(1927)、『憲法理論』(1928)、『憲法の番人』(1928)、『全体国家への転回』(1931)、『合法性と正当性』(1932)、『国家・運動・国民』(1933)など次々に著作を発表し、これらの著作を読むだけで、ワイマール14年間の主要な政治的争点、ワイマール共和国の崩壊過程、ナチス政権成立の事情などが手にとるようにわかる。
シュミットの学問的出発点は、自由主義的なワイマール民主体制に反対し、ドイツ大統領のリーダーシップによる権力集中型国家の構築を目ざしたもので、これは当時のドイツの保守支配層の考え方を代弁したものといえる。したがって、彼の全著作を通じて、一方では近代民主主義の思想やその制度的表現である議会制度を批判し、他方ではワイマール憲法の枠内で大統領の権限強化を図りつつ大統領の独裁を確立するという試みが対(つい)をなして行われている。
彼の議会制批判の要旨は、次のとおりである。いまや新しい社会階級である労働者階級が台頭し、彼らは社会主義の実現を目ざし階級闘争を唱え、ドイツの統一を破壊しようとしている。彼らはドイツ支配層の不倶戴天(ふぐたいてん)の敵である。にもかかわらず議会制民主主義の下では、「敵」である彼らに議席を与え「討論相手」に変えてしまっている。このような状況では、彼らに対抗できない。議会制度は否定されるべきである。
そこで彼は、議会に拠点を置かない大統領中心の政府をつくることを目ざす。そのため、憲法第48条を手掛りにして「例外状態」「異常事態」において大統領のとる措置、命令は無制限であるという解釈を唱える。
ところで、ワイマール期14年間は数年間を除きほとんど「例外状態」の連続であったから、大統領は第48条の「非常大権」を発動して危機を切り抜けていた。ということは「例外」は「例外」でなく大統領政治が恒常的であることを意味したから、シュミットの独裁論はけっして当時にあっては奇異なこととは感じられなかった。とくに1929年の世界大恐慌発生後から1933年ヒトラー政権が成立するまでは大統領内閣の時代が続いた。そこでシュミットは、いまや大統領の命令や措置は法律に等しいと極言するまでになった。彼は、独裁は専制とは異なり危機回避のための有効な手段であると述べ、憲法の番人である、また敵を指定できる大統領が真の主権者であるとして、国民主権主義を否定しワイマール議会制民主主義に死亡宣告を下した。そして、議会政治では国民は代表者を選んだのちにはなんらなすすべをもたない「見えない政治」であるから、いまや「歓呼と喝采(かっさい)」によって主権者の「上からの命令」に「下から呼応」するような「見える政治」に変えなければならない、という。こうした考えは、まさに、ヒトラーのナチ党の行動とほとんど同じものであったことはいうまでもないであろう。1933年5月1日、シュミットはついにナチ党に入党し、ナチ党の法律顧問の地位につく。しかし、ナチ党の狂信主義はとどまるところを知らず、シュミットの政治論は民族理論が弱いと批判され失脚する。
第二次世界大戦後、彼は『パルチザンの理論』などを発表して注目されたが、これはベトナム戦争を題材にして、彼がかつて唱えた敵・味方論がベトナムの地を舞台にして米ソの代行戦争として闘われているという自己弁護論にすぎず、もはや往年の精彩を失ったものといわざるをえない。
日本では昭和初年の「政治概念論争」のなかでシュミットの「敵・味方論」が一時期話題となり、また第二次世界大戦後の昭和40年代前半に、戦後民主主義の再検討との関連で、シュミットの議会制批判が利用されたが、もともとシュミットは民主政治を否定するためにその理論を展開していたのであるから、そのようなシュミット理論の利用の仕方は誤用であったといわざるをえない。シュミットの「魔性の政治学」はあくまでも反面教師としての意味以上のものではないのである。
[田中 浩]
『田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』(1970・未来社)』▽『田中浩・原田武雄訳『政治神学』(1971・未来社)』▽『田中浩・原田武雄訳『大統領の独裁』(1974・未来社)』▽『田中浩・原田武雄訳『合法性と正当性』(1983・未来社)』▽『田中浩著『カール・シュミット』(1992・未来社)』
天文学者。アメリカ合衆国モンタナ州のミズーラMissoula生まれ。13歳でアラスカ州のアンカレッジに移動。子供のころから気象学者になるのが憧れだった。1989年アリゾナ大学を卒業、1993年ハーバード大学で博士号取得。ハーバード・スミソニアン天体物理学センター研究員などを経て、2010年からオーストラリア国立大学特別教授となった。2011年に「遠方の超新星観測を通した宇宙膨張加速の発見」の業績により、カリフォルニア大学バークリー校のソール・パールマッター、ジョンズ・ホプキンズ大学のアダム・リースとノーベル物理学賞を共同受賞した。シュミットとリースは、同じ超新星観測プロジェクト・チームHigh-z Supernova Search Teamに参加していた。
従来は、宇宙が膨張するその果てでは、膨張速度が衰えていくと推測されていた。パールマッターのプロジェクトチームSupernova Cosmology Projectは、観測結果から膨張速度は逆に急激に加速していることを解明、1998年に発表した。くしくも同じ1998年、シュミットとリースらの研究チームも、Ⅰa型超新星の観測から超新星の明るさが、これまで考えられてきた減速膨張宇宙の予想よりも暗くなっていることを発見し、宇宙の膨張は急加速で勢いを増していくことを解明し、同様の観測結果を発表した。
「宇宙が加速して膨張する原理は何か」という問いに、現在の観測結果や物質だけでは説明ができない。彼らの研究により、宇宙には星や銀河が互いに引き合う重力を上回る大きさで宇宙を押し広げていく力があることが周知され、その力の源泉は「暗黒エネルギーdark energy」と名付けられた。その正体については、世界中で新たな研究競争が展開されている。シュミットは、ノーベル賞受賞後の記者会見で「宇宙膨張には、外に向けた大きな暗黒エネルギーが必要であり、この未知のエネルギーの存在を突き止めることが、宇宙物理学の最大のテーマになった」と語っており、2012年時点で、南天の観測と地図化を進めるスカイマッパーSky Mapper天体観測プロジェクトのリーダーを務めている。
[馬場錬成]
スイスの映画監督。フリムス・ワルトハウスに生まれ、中・高等教育をスイスで受ける。ドイツに出て、ベルリン自由大学でマルクーゼなどの講義を聴いたのち、アメリカ各地を旅行。大学に戻り、文学や宗教史を学ぶ一方、映画・テレビアカデミーで演出を学ぶ。監督デビュー作は、ドイツのテレビ用につくった『キス・ミー・アゲイン』(1968)で、以後スイスやドイツで活躍した。作品には『ラ・パロマ』(1974)、『天使の影』(1976)、『ヘカテ』(1982)、『トスカの接吻(せっぷん)』(1984)などがあり、その多くにはオペラや演劇の要素が取り入れられ、デカダンな傾向が強い。日本文化にも大きな関心を寄せ、坂東(ばんどう)玉三郎を記録した『書かれた顔』(1995)や舞踊家大野一雄についての記録映画『ダニエル・シュミットの大野一雄』(1995)などを発表した。A・タネール、C・ゴレッタらとともにスイス映画の代表的監督であった。
[小松 弘]
主人の蝋燭(ろうそく)を節約するためにすべてを暗闇のなかで行うこと Thut alles im Finstern, eurem Herrn das Licht zu ersparen(1970)
今宵かぎりは… Heute nacht oder nie(1972)
ラ・パロマ La Paloma(1974)
天使の影 Schatten der Engel(1976)
カンヌ映画通り Notre Dame de la Croisette(1981)
ヘカテ Hécate(1982)
人生の幻影 Mirage de la vie(1984)
トスカの接吻 Il bacio di Tosca(1984)
デ・ジャ・ヴュ Jenatsch(1987)
季節のはざまで Hors saison(1992)
ダニエル・シュミットの大野一雄 Kazuo Ohno(1995)
書かれた顔 Das geschriebene Gesicht(1995)
ベレジーナ Beresina oder Die letzten Tage der Schweiz(1999)
『蓮実重彦編著『リュミエール叢書9 光をめぐって――映画インタビュー集』(1991・筑摩書房)』▽『由良君美著『セルロイド・ロマンティシズム』(1995・文遊社)』
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のフィラデルフィア・フィリーズで1972年から89年まで三塁手として活躍、力強い打撃と堅実な守備で、史上最高の三塁手ともいわれる。
9月27日、オハイオ州のデイトンに生まれる。フィリーズに昇格した1972年のシーズン終盤と73年は、三塁のほかにも、内野の全ポジションを守るが、打撃は1割9分6厘の不振に終わり、367打数で136個の三振を喫した(ともに1973年の成績)。1974年は三塁に定着、ホームラン36本を放ち、初のホームラン王を獲得、次の2年間も連続して38本のホームランを打って、3年連続ホームラン王に輝いた。1980年には、ホームラン48本で4回目のホームラン王、打点121で初の打点王を獲得するとともに、初の最優秀選手(MVP)にも輝く活躍で、チームのリーグ優勝に貢献した。カンザスシティ・ロイヤルズとの間で行われたワールド・シリーズでも打率3割8分1厘、ホームラン2本、打点7を記録して優勝の立役者の一人になった。翌81年はストライキでシーズンが短縮されたが、ホームラン31本で2年連続MVPに選ばれた。打撃と同様に守備力も評価され、守備範囲の広さ、軽快なフットワーク、肩の強さは最高のレベルといわれ、1976年から9年連続ゴールドグラブ賞(守備の優れていた選手に贈られる賞)を受賞した。オールスター・ゲームには12回出場している。
18年間の通算成績は、出場試合2404、安打2234、打率2割6分7厘、本塁打548本、打点1595。獲得したおもなタイトルは、本塁打王8回、打点王4回、MVP3回、ゴールドグラブ賞10回。1995年に野球殿堂入り。
[出村義和]
主としてオーストリアで活躍したドイツ生まれの民族学者。いわゆるウィーン学派の総帥であり、また文化圏説の大成者。カトリック教神言会に属する神父で、多くの宣教師民族学者を養成し、民族学、言語学のための国際的な専門誌『アントロポス』を創刊した。ウィーン大学で講義をし、その後1941年からスイスのフリブール大学教授となった。初め言語学者として出発し、東南アジア、オセアニアにおける語族の分類、設定に功績があり、1926年には世界の言語の概説を著した。しかし、すでに1910年ごろから研究の主力は民族学に向かい、民族学の立場から人類の初期文化史の大綱を再構成することに努力した。F・グレープナーがオセアニアにおいて設定した文化圏の体系を全世界的に拡大発展させ、グローセErnst Grosse(1862―1927)が提唱した経済形態と家族形態の対応の説も受容し、さらに進化主義からは発展段階の概念を受け継いだ壮大な体系をつくったが、これは今日学問的には完全に崩壊している。宗教の起源を至高神崇拝に求める説は大著『神観念の起源』全12巻(1912~1955)で展開された。ほかにコッパースWilhelm Koppers(1886―1961)との共著『民族と文化』(1924)がある。
[大林太良 2018年6月19日]
『シュミット著、山田隆治訳『母権』(1962・平凡社)』▽『シュミット、コッパース著、大野俊一訳『民族と文化』上下(1970・河出書房新社)』
ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。ハンブルクで高校教諭の子に生まれる。第二次世界大戦に参加、敗戦時中尉。1946~1949年ハンブルク大学で経済学、政治学を学ぶ。1946年より社会民主党員で、1947~1948年社会主義学生同盟の全国議長。1949~1953年ハンブルク市政府の経済、交通局長。1953~1962年および1965年以降国会議員。1961~1965年ハンブルク市政府の内相。1965~1966年党副委員長、1966~1969年党院内総務、1968年党副委員長。1969年10月発足したブラント第一次政権で1972年まで国防相として国防軍の包括的な改革を指導。1972年8月経済相兼蔵相、同年12月第二次ブラント政権で蔵相。1974年5月ギョーム事件で辞職したブラントの後を継いで首相。1982年10月経済財政事情の悪化を背景とする自由民主党との連立政権の分裂のため辞任した。首相退任後も「OBサミット」「シュミット委員会」などを提唱して国際的に幅広く活躍。1983年『ディ・ツァイト』誌の編集顧問、1985年以降同誌発行人。1986年政界引退。
[中川原徳仁]
『永井清彦・萩谷順訳『シュミット外交回想録』上下(1989・岩波書店)』
ソ連の数学者、探検家、地球物理学者。ベロルシア(現、ベラルーシ)モギリョフに生まれる。ウクライナのキエフ(キーウ)大学卒業後、同大学数学講師、モスクワ大学数学教授などを務めた。1928年パミール高原探検隊に参加。1932年ソ連の北洋航路総局長となり、北極圏開発の責任者として数回の探検を行った。砕氷船による探検を指揮したほか、1937年からは、現在でも北極海観測の有力な手段である、漂流する氷盤上に建設された漂流観測所での長期観測を指揮した。晩年は太陽系起源の問題を研究し、1948年、惑星の起源は太陽に捕捉(ほそく)された冷たい星間物質の雲であるとする説を発表した。著書に『地球成因論に関する四つの講演』(1950)がある。
[吉井敏尅]
ドイツの経営経済学者。ワーレンブリュックに生まれ、オーバーウルゼルで没した。1909年ライプツィヒ商科大学を卒業、1909~1910年ドルトムント商科大学講師、1913年フランクフルト大学講師、ついで同大学教授となり経営経済学講座を担当した。1924年には、現在ドイツの経営学雑誌として著名な『経営学雑誌』Zeitschrift für Betriebswirtschaftを創刊し、主宰した。主著『有機的貸借対照表学説』Die organische Tageswertbilanz(第3版・1929)は、会計学における有機論ないし時価論に理論的根拠を与えた名著として高く評価されている。彼の有機論の特色は、第一次世界大戦後のドイツ・インフレーションを背景として、企業を総合経済における一細胞として把握し、したがって、企業会計も総合経済との有機的関係のもとに、財産の評価に再調達価格を用いることによって、正しい財産計算と正しい成果計算とを可能ならしめる点にある。すなわち、企業の経営維持とは、総合経済におけるその相対的価値維持を意味するものとしている。
[宇南山英夫]
『山下勝治訳『有機的貸借対照表学説』(1934・同文舘出版)』▽『市原一著『ドイツ経営学』(1954・森山書店)』
エストニア出身の光学器械製作者。ナイッサール島で生まれ、幼少時よりレンズ作りなど工作や実験に熱中していたが、15歳のときに火薬の実験中に右手のほとんどを失う事故にあう。スウェーデンのイョーテボリ工科大学、ドイツのミットバイダ大学で学ぶ。1904年に卒業後、ミットバイダにて天文学者用にレンズと鏡の製作を始めた。シュミットの製作したレンズ、鏡は非常に高い評価を得た。1909年にはのちにシーロスタット(当時はウラノスタットとよばれた)とよばれる水平望遠鏡と赤道儀式平面鏡を製作した。その後、1927年ハンブルグに行き、1931年にハンブルグ天文台の台長ショルRichard Schorr(1867―1951)のもとで明るく視野が広い画期的なシュミット・カメラを発明した。
[編集部 2023年5月18日]
ドイツの言語学者。A・シュライヒャーの弟子で、1876年以降ベルリン大学教授。『印欧諸言語の親縁関係』(1872)という有名な論文で、インド・ヨーロッパ諸言語の関係を1本の樹木の枝分れ図で表したシュライヒャーの説を批判し、言語変化は、あたかも水面に生じた波紋のように、中心部から地理的に連続した周辺部へしだいに弱まりながら伝播(でんぱ)し、さまざまな形で発生したこのような改新波(=等語線)の累積によって方言分化が行われると主張した。これをシュライヒャーの「系統樹説」に対して「波動説」と称する。ほかに、インド・ヨーロッパ語の母音組織や形態論に関しても優れた研究を残したが、同時代のブルーグマンらに代表される青年文法学派の動きに対しては、終始批判的な立場をとった。
[松本克己 2018年6月19日]
ドイツの地球物理学者。1884年からゴーダの高等学校の教師を務めながら地磁気を研究した。1902年からポツダム観測所の地磁気部長、1906年同所長となり、1904年からはベルリン大学教授も兼ねた。地磁気ポテンシャルの球関数展開、地磁気擾乱(じょうらん)の観測およびその統計的研究に関し多数の論文がある。1915年シュミット式磁力計を考案。取扱いが容易で性能が安定していることから、野外観測などで広く用いられた。
[吉井敏尅]
フランスの作曲家。パリ音楽院でデュボア、ラビニャック、ジェダルジュ、マスネ、フォーレに学ぶ。1900年ローマ大賞を獲得してローマ留学後、パリで活動。22~24年リヨン音楽院長を務める。29~39年『ル・タン』紙の音楽批評を担当。ドビュッシー、フォーレの影響のもとに、ドイツ後期ロマン派音楽との親近性を示しながら、古典的な均整のとれた音楽を書いた。代表作は『詩篇(しへん)第47番』(1904)、バレエ曲『サロメの悲劇』(1907)、ピアノ五重奏曲(1908)など。
[寺田由美子]
ドイツの小説家。ハンブルク生まれ。生起と反復を繰り返す意識の諸現象をとらえるために、正確に対応する散文形式を目ざし、構文の独特な配置実験を試みる。代表作は『レビアータン』(1949)、『石の心』(1956)、『学者共和国』(1957)、『無神論者の学校』(1972)など。伝記、エッセイ、翻訳などの分野で、過去の文学や忘れられた作家の紹介にも情熱を傾けた。
[平井 正]
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ドイツの公法学者,政治思想家。ウェストファーレンのカトリック系の家庭に生まれる。第1次大戦と戦後の混乱に衝撃をうけ,19世紀の自由主義的法治主義,議会制などがその歴史的基盤を失ったと主張した。彼によれば20世紀は法をこえて〈政治〉が発動する時代であり,その〈政治〉とは規範の拘束を受けない敵味方の関係である。〈政治〉が規範的拘束から解きはなたれて発現する場が〈非常事態〉であり,主権者とは〈非常事態の決断者〉である。その主著《憲法論》(1928)において,ワイマール憲法を〈政治的部分〉と〈法治国的部分〉に分け,大統領の非常大権を,非常事態における法治国原理の失効であると説明した。1930-33年の大統領内閣時代には,ベルリン商科大学教授として,政府の枢機に参与,ナチスと共産党の脅威からワイマール共和国を守ることを主張した。33年のナチス政権の成立後ナチスに転向,ゲーリングの保護のもとで当時の代表的法学者として,ドイツ法学の非ユダヤ化を唱え,〈具体的秩序思想〉によってナチス革命を正当化した。やがてかつての親ユダヤ的言動などがオポチュニズムとして非難をうけ,36年より主流の座を離れた。戦後はアメリカ軍に逮捕され,教職をおわれて,故郷で著述を続けた。黒田覚,丸山真男,清水幾太郎など,多くの日本の学者に注目され,《政治的なものの概念》《憲法論》など翻訳も多い。
執筆者:長尾 龍一
オーストリアの作曲家。プレスブルク(現,ブラティスラバ)に生まれ,1888年にウィーンへ移住。90年よりウィーン音楽院に学ぶ。1896-1911年,宮廷歌劇場チェロ奏者を務めるかたわら,1901-08年母校のチェロ教師。14年より母校が改組された国立アカデミーの教授としてピアノ,対位法,作曲法を教え,25年に同校院長,続いて27~31年,音楽・造形芸術専門学院院長を歴任。34年にウィーン大学より名誉博士号を授与される。作風は東欧風の民俗的旋律とリストやブルックナーを思わせる後期ロマン派的な豊かな響きを特徴とし,また変奏技法を駆使した作品や室内楽にはレーガーの影響もうかがわれる。作品には交響曲(4),管弦楽用変奏曲(2),ピアノ協奏曲(1),オペラ(2),オラトリオ(1)のほか,いくつかの室内楽,オルガン曲,ピアノ曲がある。51年にウィーンで〈フランツ・シュミット協会〉が設立された。
執筆者:土田 英三郎
ドイツの光学器械技術者。シュミットカメラ,あるいはシュミット望遠鏡と呼ばれるコマ収差のない広い視野をもつ光学系を発明した。彼は通信技士,写真技師,設計技師などとして働きながら,天文学と光学について独学して経験を積んだ。やがて,小さい光学工場と天文台をもって,光学技師としての評判を得るに及んで,1926年からドイツのハンブルク天文台で働くことになった。シュミット望遠鏡の着想を得たのは29年の日食のときといわれる。口径35cm,口径比1.75の最初のシュミット望遠鏡の製作は,30-32年に行われた。シュミットの光学系は,屈折型と反射型に次いで第3の型の大型天体望遠鏡として,世界中の天文台で用いられているばかりか,実験室においても広く用いられている。
執筆者:石田 蕙一
ドイツに生まれ,スイスで没したが,おもにオーストリアで活躍した民族学者,言語学者。言語学者として出発し,東南アジア,オセアニアの言語分類に貢献したが,のち民族学を主とし,文化圏説の大成者,ウィーン学派の総帥となった。カトリック教,神言会派の神父で,宣教師の民族学的調査を奨励,指導した。神観念の起源をいわゆる原始一神教に求めたが,主著《神観念の起源Der Ursprung der Gottesidee》全12巻(1912-55)はその成果である。弟子のW.コッパースとの共著《民族と文化Völker und Kulturen》(1924)に示されたような彼の文化圏の体系は,第2次世界大戦後,決定的に崩壊した。
執筆者:大林 太良
フランスの作曲家。パリ音楽院でマスネーやフォーレに師事し,1900年にカンタータ《セミラミス》でローマ大賞をうけた。あらゆるジャンルの作曲に手を染め,とりわけ合唱曲《詩篇47番》(1904),バレエ曲《サロメの悲劇》(1907),ピアノ五重奏曲(1901-08),弦楽四重奏曲(1948),《交響曲第2番》(1958)などが高い評価を得ている。その音楽は,力強さと優しさ,悲劇性とユーモア,記念碑的な偉大さと細密画風の装飾的な繊細さ,といった互いに相反するものが両立して均衡を目ざすところに,独特な個性を示す。1922-24年リヨン音楽院長,36年デュカースの後任として芸術アカデミー会員となる。
執筆者:平島 正郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1918~
ドイツの政治家。ブラントのあとを継ぎ,自由民主党(FDP)との連合政権を率いた社会民主党(SPD)の首相(在任1974~82)。さまざまな分野の政策通として著名。連邦議会で院内総務を務めたのち,ブラント政権では国防相,経済・蔵相などを歴任した。首相在任中は,オイルショックによる不況のなか,経済の建て直しと治安対策に奔走した。対外政策においても,フランスとの協調を軸として欧州通貨制度を発足させるなどの功績を残した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…B.シュミットが考案した光学系をもつ望遠鏡。この光学系を利用した天体写真儀をシュミットカメラSchmidt cameraという。…
… アウストロネシア語族の故地は,1889年オランダのケルンH.Kernによってインドシナ半島北東部沿岸であったろうと推定され,多くの学者によって支持されているが,アメリカのダイエンI.Dyenは,アウストロネシア諸語の現在における分布状態から推測し,ニューギニアが故地であった可能性を示唆している(1956,65)。
[他語族との関係]
オーストリアのW.シュミットは,アウストロネシア語族とアウストロアジア語族が親縁関係にあったとし,両者を合わせてアウストリック語族なる名称を与えたが,科学的に証明されたわけではない。近年アメリカのベネディクトP.K.Benedictは,アウストロネシア語族がコーチシナや海南島の非漢語系の言語(カダイ諸語と呼ばれる)を介してタイ諸語と親縁関係があるとし,アウストロ・タイ語族を提唱しているが,いまだ定説とはなっていない。…
…文化圏Kulturkreisという用語は,以前から一般的な概念として存在していたが,民族学の専門用語として1898年にL.フロベニウスが初めて導入した。1904年におけるF.グレーブナーの《オセアニアにおける文化圏と文化層》,H.アンカーマンの《アフリカにおける文化圏と文化層》の講演,さらに1911年のグレープナーの《民族学方法論》において,文化圏説は確立し,W.シュミットとW.コッパースは《民族と文化》(1924)において全世界にまたがる文化圏体系を設定した。シュミットやコッパースは,その学問を文化圏説とは呼ばず,文化史的民族学と称した。…
…そうしたなかで,ワイマール共和国期のドイツでは,ひときわはげしく議会制論がたたかわされた。カール・シュミットは,〈議会制〉と〈民主主義〉のむすびつきをきりはなし,それどころか,その二つを相互排斥的なものとして位置づけ,議会主義への信念は民主主義でなく自由主義の思想界に属するとし,民主主義の名において議会主義を否定した。彼によれば,民主主義は議会によってではなく,国民の歓呼とアクラマチオAkklamatio(喝采)によって支持される独裁によってこそ,よりよく実現されるというのである。…
… 改正限界説は,憲法変更現象を認識する理論という性格と同時に,すぐれて実践的主張としての性格をもった理論である。もともと改正限界説は,所説の内容からして,憲法改正権から憲法の基本原理を防衛するという実践的主張としての性格(保守的機能)を本質的にもつが(ワイマール憲法のもとで限界説を主張したC.シュミットの基本的な狙いのひとつは,社会主義勢力が多数を占める議会=憲法改正権者から憲法を防衛する点にあった),今日のドイツや日本の一部の学説で主張されている限界説のように,憲法の基本原理を超実定法的自然法原理とし,憲法制定権力もこのような基本原理に拘束されるとする限界説の場合には,限界をこえた〈改正〉に対しては国民の抵抗権の発動が要請されることになり,憲法保障のための実践的主張という性格をいっそう強くもつことになろう。これに対して,C.シュミットのように,群集の歓呼や喝采に国民の憲法制定権力の発動をみる場合には,限界説は,逆に非合理的な憲法破壊を弁証する実践的主張としての性格(変革機能)を強くもつことになる。…
…シエイエスの母国でも,近代憲法の確立期であった第三共和政期の憲法学は,pouvoir constituantという言葉を,もっぱら憲法所定の形式に服する憲法改正権という意味で使用し,本来の憲法制定権を法的思考の外に締め出したのであった。その後,憲法の現代的危機の時代になって,この観念は,C.シュミットによって,ふたたび意義づけを与えられた。彼は,基本的な政治的諸決定を実体とする〈憲法〉と,普通の〈憲法律〉を区別し,〈憲法律〉に基づいて規律される憲法改正権の上位に,みずから〈憲法〉を制定する憲法制定権力の存在を考える。…
…第3に,憲法の規定によらずに,国家緊急権が行使される場合である。 C.シュミットは,第2のものを委任的独裁,第3のものを主権的独裁とよぶ。第2のものの基礎には,緊急権の濫用を防止するためには,それを実定法上認めたうえで,条件,期間,手続等の点で制限を加えた方がよいとする考え方がある。…
…革命の戦争化である。 実際,第1次世界大戦は〈ヨーロッパ国際法の在来的な国家間の戦争として始まり,革命的な階級敵対関係の世界内戦で終わった〉(C.シュミット)。そして1918年のドイツとハンガリーでの革命は,ヨーロッパ社会の伝統的な枠組みを破壊し,国際体制を基礎づけていたイデオロギー的合意の否定を意味するほどの衝撃力をもっていた。…
…ヨーロッパ語でこの言葉の原型にあたるラテン語のrepraesentareは,あるものを現前させる(目の前にあらわれさせる),ということを意味する。C.シュミットが,〈代表するとは,ひとつの目に見えぬ存在を,公然と現存する存在によって目に見えるようにし,現前させることである〉と述べ,〈目に見えないものが現存しないと前提され,しかも同時に現存するとされる〉という〈弁証法〉について語るのは,そのような言葉の系譜をふまえながら,憲法上の代表論のなかに,一定の形而上学的含意をもちこもうとするものであった。 私法の分野では,講学上,法人の機関の行為が法律では法人の行為としてあつかわれることを指して,機関が法人を代表するという。…
…同時に,この手段的性格,臨時的性格が,やがて自己目的化し恒常化して私的で恣意的な専制政治一般に転化していったという点でも,独裁のメカニズムを示している。
[独裁概念の分類]
ワイマール期ドイツの政治学者C.シュミットは上記の(2)(3)に着目し,独裁を専制政治と区別する特徴を,〈具体的例外性konkrete Ausnahme〉に見いだした。すなわち,独裁官は非常事態における法秩序の侵犯者としてあらわれるが,この侵犯は現行法秩序そのものを防衛するための形式的法規範の侵犯であり,この侵犯によりかえって法そのものは実現される,とする。…
※「シュミット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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