サーリネン(読み)さーりねん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サーリネン」の意味・わかりやすい解説

サーリネン(父子)
さーりねん

ともにフィンランドに生まれ、フィンランド、アメリカで活躍した建築家。父エリエルEliel Saarinen(1873―1950)はランタサルミの生まれ。ヘルシンキ絵画、建築を学び、1897年に友人たちと建築活動を始めた。1900年パリ万国博覧会のフィンランド館設計に参加、その優雅なスタイルが注目された。1904年にはヘルシンキ中央駅の設計競技勝利を収め、彼のプランは1914年に実施された。1922年、シカゴ・トリビューン社の新社屋設計競技に参加、二等となった機会をとらえてアメリカに移住し、1924年にはミシガン大学客員教授に迎えられた。同地では、クランブルック・スクールの建築計画を手がけ、これが美術アカデミーへと発展するに及んで、その校長に任命された。1947年にはアメリカ建築家協会賞を、1950年には英国王立建築家協会賞を受賞するなど、幅広い活動を評価された。

 子エーロEero Saarinen(1910―1961)はキルクコヌンミの生まれ。父エリエルとともにアメリカに渡り、1934年エール大学を卒業。2年間ほどヨーロッパを旅したあと、クランブルックの父のもとに戻り、1930年代後半には父を助けて設計活動に参加した。本格的な仕事として注目されたのは、父の死後引き継いだゼネラル・モーターズ技術センター(1955)で、ここには幾何学的な単純さを明快に主張した、エーロのモダン・デザインが見て取れる。彼の仕事はこのあと、自由な曲線のダイナミックな動きをはらんだニューヨークのジョン・エフ・ケネディ国際空港のTWAターミナルビル(第5ターミナル)、ワシントン・ダレス国際空港(ともに1962年完成)などの建築がとりわけ著名となったが、ロンドン(1960)およびオスロ(1955)のアメリカ大使館など、むしろ落ち着いた雰囲気づくりを目ざしたものもあって、生涯傾向はかならずしも一定していない。

[宝木範義]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サーリネン」の意味・わかりやすい解説

サーリネン
Saarinen, Eero

[生]1910.8.20. キルクコヌンミ
[没]1961.9.1. ミシガン,アナーバー
フィンランド生れのアメリカの建築家。エリエル・サーリネンの息子。 1929年パリで彫刻を,30~34年エール大学で建築を学び,37~50年父とともに働いた。独立後は折衷主義的な傾向を示し,建物の機能に合わせて手法を選ぶ柔軟な姿勢でのぞんだ。おもなものにゼネラル・モーターズ技術センター (1948~56,ミシガン,ウォーレン) ,マサチューセッツ工科大学講堂およびクレスギ礼拝堂 (53~55,ケンブリッジ) ,イエール大学ホッケーリンク (53~59) ,TWAエアターミナル・ビル (56~62,ケネディ空港) ,ダレス空港ビル (56~62,ワシントン D.C.近郊) などがある。

サーリネン
Saarinen, Eliel

[生]1873.8.20. ランタサルミ
[没]1950.7.1. ミシガン,ブルームフィールドヒルズ
フィンランド生れのアメリカの建築家。 1893~97年ヘルシンキで絵画と建築を学び,96年 H.ゲゼリウスおよび A.リンドグレンとともに建築実務を開始。 99~1900年のパリ万国博覧会におけるフィンランド館の設計により名声確立。 02年ヘルシンキ国立美術館,04年当時の折衷主義建築の典型であるヘルシンキ鉄道駅 (1905~14) を設計。 22年シカゴ・トリビューン社の社屋懸賞設計で2位に当選したのを機会に渡米し,27年クランブルック少年学校,34年クランブルック美術アカデミー (ともにブルームフィールドヒルズ) を建造した。このほか息子エーロとの共同制作による作品も多い。

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