画家。イギリス国籍だが、生涯の大半をフランスで過ごし、フランス印象派の代表的な画家の一人に数えられる。パリ在住の富裕なイギリス人家庭の生まれで、父親は輸出業を営んでいた。1857年から4年間、商業を学ぶべくロンドンに送られたが、コンスタブルやターナーの絵に強い関心を抱いた。パリに戻り両親の許可を得て、1862年にグレールCharles Gleyre(1806―1874)のアトリエに入門、そこでモネ、ルノワール、バジールFrédéric Bazille(1841―1870)らと知り合う。1866年のサロンに初入選。プロイセン・フランス戦争後の1871年に破産状態で父親が他界するや、家計の負担がシスレーの双肩にのしかかり、経済的困窮を強いられる。このころからしだいに初期のコローやクールベからの影響を脱して、自然を外光のもとでとらえる明るい色調の画風を確立、モネらと印象主義運動を推進し、8回開かれた印象派展に4回出品した。1879年にはサロンでの成功を企てたが不首尾に終わり、翌年からはグループから離れるようにセーヌをさかのぼって、ブヌー・ナドンやモレ・シュル・ロワンに居住し、モレに没した。彼は印象派のなかでももっとも純粋な風景画家で、微妙な光のもと、透明な大気に包まれた自然の情景を、前景から後景へと退く奥深い遠近法を用いて表現した。穏やかで詩情に富む作風は終生かわらず、本来の印象主義様式を生涯守り通したほとんど唯一の画家であった。代表作『ポール・マリーの洪水』(1876)。
[大森達次]
『フランソワ・ドールト著、松本芳夫訳『ファブリ版世界の美術 印象派の巨匠たち7 シスレー』(1976・小学館)』
フランス印象派として活躍したイギリス人画家。印象派の中ではC.モネ,C.ピサロとともに風景画家グループをなし,1870年代の印象派の画風を最後まで変わらず持ちつづけた唯一の画家である。パリで生まれる。父は貿易商を営んでおり,彼を商売の見習にとロンドンに留学させた(1857-61)が,シスレーがそこで学んだのは母国のJ.M.W.ターナー,R.P.ボニントン,J.コンスタブルらの風景画であった。帰国して入ったグレールM.G.C.Gleyreのアトリエで,F.J.バジール,モネ,A.ルノアールらと知りあい,風景画の戸外制作に励む。普仏戦争の際に父は破産し,はじめて経済的苦労を知るが,ルーブシエンヌ,マルリ,モレ・シュル・ロアンなどの田舎に住み,生涯穏やかな光に満ちたイル・ド・フランス地方の田園風景を描きつづけた。画風はイギリスの風景画からの影響が濃厚で,低い地平線によって空の大気の微妙な状態や雲の力強い動きを伝えようとし,かつその自然の堂々たる威容を安定した構図で表現した。引込みがちな性格もあって,生前にはごく少数の画商や愛好家と取引があっただけで,経済的には恵まれなかった。20年暮らしたモレ・シュル・ロアンの地で,癌で没した。
執筆者:馬渕 明子
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