フランス印象派の代表的な画家。11月14日パリに生まれる。5歳のころ一家はル・アーブルに移住し、彼はこのセーヌ河口の港町で少年時代を過ごす。初め町の名士たちを描いたカリカチュアで評判を得たが、風景画家ブーダンと出会い、決定的な影響を受ける。モネはブーダンから油絵を学ぶとともに、戸外で風景や海景を描くよう促され、以来、風景画が彼の第一の関心事となる。1859年にパリに出、1862~1864年シャルル・グレールCharles Gleyre(1806―1874)のアトリエに通う。ここでバジールJean Frédéric Bazille(1841―1870)、シスレー、ルノワールといった後の印象派の画家たちと知り合い、4人はときおりフォンテンブローの森で制作をともにした。また1862年にはル・アーブルの近くでオランダの風景画家ヨンキントと出会い、水や大気や光の描写に関して大いに感化を受けた。1865年のサロンに2点の海景画が入選、翌1866年のサロンでも2点の作品が入選する。彼はまたこの時期、戸外に人物を配した構成にも関心を抱き、大作『庭の女たち』を直接戸外で仕上げようとさえした。この作品は1867年のサロンに落選の憂き目をみる。モネはますます光の効果や水の反映に敏感になり、色調も1860年代末にはいっそう明るさを増した。1870年プロイセン・フランス戦争が勃発(ぼっぱつ)すると難を避けてロンドンに渡り、同じくこの地にきていたドービニーを介して画商デュラン・リュエルPaul Durand-Ruer(1831―1922)を知る。
1871年末、フランスに戻ったモネは、パリ郊外のセーヌ河畔の行楽地アルジャントゥイユに居を構え、いまだ田舎(いなか)じみた様相をとどめると同時にしだいに近代化・工業化の波に洗われつつあったこの地のさまざまな情景を、自発性に富んだ筆致と光に満ちた色彩で描き、印象派の一つの典型的なありようを示した。彼は自然を変化する相のもとに記録しようと、あるときはアトリエ仕立ての舟をセーヌに浮かべて描くこともあった。1874年にはピサロらとともにサロンに対抗して独立のグループ展(いわゆる印象派展)を組織し、そこに出品した作品の一つ『印象―日の出』から印象派なる呼称が生まれた。彼は続く4回のグループ展に作品を送るが、残る3回の印象派展には出品を見合わせている。1878年の初頭までアルジャントゥイユにとどまったモネは、同年セーヌを下ってベトゥイユに移り住み(1878~1883)、1883年にはさらに下ってジベルニーに居を構え、ここが彼の終焉(しゅうえん)の地となる。
1880年代、モネはノルマンディーや地中海沿岸、中部フランスやブルターニュのベリール島など各地を盛んに旅行し、劇的な構図を好んで描いた。またこの時期から経済的安定を得、成功への道を歩むようになる。1890年代に入ると頻繁に旅行することはやめ、同一のモチーフを扱いながら時間の推移につれて描き分ける連作に取り組み、「積み藁(わら)」(1890~1891)、「ポプラ並木」(1891)、「ルーアン大聖堂」(1892~1894)のシリーズが生まれた。また1893年にはジベルニーに睡蓮(すいれん)の池を造成し、1895年ごろから「睡蓮」の連作を開始する。モネはつねに自然を前に、その移ろいゆく瞬間の様相をとらえようとした。しかし、彼の後期の作品では、現場のみならずアトリエでの制作もしだいにその重要度を増してゆく。彼はすばやく容易に達成できるものにもはや満足せず、自らの意図する瞬間の効果を求めて幾度となく絵に立ち戻り、アトリエでその仕上げを行った。また連作では個々の作品の相互の関係がアトリエで調整され、全体が一つの統一あるものに仕立て上げられる。最晩年、友人で政治家のクレマンソーの勧めで睡蓮の大装飾画に着手し、それはやがて国家に寄贈され、パリのオランジュリー美術館に設置された。1926年12月5日没。ジベルニーの家と庭園は1980年からモネ記念館として、春から秋に公開されている。
[大森達次]
『黒江光彦編『現代世界美術全集2 モネ』(1970・集英社)』▽『G・ジェフロワ著、黒江光彦抄訳『クロード・モネ――印象派の歩み』(1974・東京美術)』▽『木島俊介編『現代世界の美術1 モネ』(1985・集英社)』▽『W・ザイツ著、辻邦夫訳『モネ』(1994・美術出版社)』
フランスの経済テクノクラート。フランス南西部コニャック市の生まれ。酒造業者の子として早くから海外での売り込みに従事した経験を買われて、第一次世界大戦中のフランスの海外物資買付けを担当して活躍した。戦後は国際連盟事務局次長(1919~1923)を務めたほか、多くの国際機関に経済専門家として参加した。第二次世界大戦に際してはふたたび英仏のため軍需物資買付けに奔走する一方、ドゴールの国民解放委員会に参加し連合国間でのドゴールの地位向上に寄与した。大戦後は「モネ計画」ともよばれたフランス経済近代化計画の立案と実施に貢献した(1947~1953)ばかりでなく、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体創設を目ざして1950年に発表された「シューマン計画」の立案にも参画し、共同体の初代議長(1952~1955)を務めた。ロベール・シューマン仏外相と並んでヨーロッパ統合の最大の功労者。著書に『回想録』(1976)がある。
[平瀬徹也]
フランス印象派の代表的画家。パリに生まれる。幼いとき一家はル・アーブルに移り,海に親しんで成長する。またカリカチュアを好み,町の名士たちの姿を描いていたところを画家ブーダンに発見され,油彩と戸外制作の手ほどきを受けて風景画家の道を歩むことになる。19歳のとき,親の反対を押し切ってパリに出,グレールM.G.C.Gleyreのアトリエやアカデミー・シュイスに通い,後の印象派のグループと親交を深める。バジールとともにバルビゾン近くの村シャイイやフォンテンブローの森で戸外制作を行い,マネに刺激された《草上の昼食》(1865),《庭の女たち》(1866)で,大画面の光あふれる戸外制作の作品を描くが,世に入れられない。その後もサロン(官展)に作品を送りつづけるが思うように入選せず,普仏戦争とそれに続くイギリス,オランダ旅行ののち,仲間とグループ展を開く計画を実行に移す。こうして1874年第1回印象派展が開かれた(モネは,《印象・日の出》ほかを出品)が,結果はわずかな好意的批評家を除いては悪意に満ちた中傷のうちに終わった。その後も彼らの作品の新しさはなかなか社会に受け入れられず,モネは画商デュラン=リュエル商会の後援によってかろうじて生計を立てていたものの,アルジャントゥイユ時代(1872-78),ベトゥイユVétheuil時代(1878-81)は苦しいものだった。しかし画面はますます輝きを増し,筆触は細かくなり画面から濁色が消えて,とくに朝や夕暮の微妙なニュアンスに深く関心を抱くようになる。83年にジベルニーGivernyに生涯の居を構えてからは仲間との交流も少なくなり,他の画家もみな独自の方向に散ってゆくが,モネにとってこの時期は連作と《睡蓮》の時代であった。かねてから同じ場所,同じような構図を続けて繰り返し描くことを好んでいたが,ジベルニーでは《積みわら》(1890-91),《ポプラ》(1891)などをモティーフに,時間を変えて何枚ものキャンバスを制作し,さらに《ルーアン大聖堂》(1894)では構図を固定したうえで時間と天候の推移による色調の変化だけを追うという試みを行った。また90年ころから《睡蓮》の連作を始め,モティーフは,若いころから関心を持っていた水面にきらめく光の表現から,そこに映る倒立した像と水面との微妙なニュアンスに移ってゆく。やがてオランジュリー美術館に寄贈する8枚の大画面の制作に,このジベルニー時代の全成果を投入する。最晩年に目を患った前後の,荒々しいタッチで描かれた一連の作品(パリ,マルモッタン美術館)は,のちの抽象表現主義に大きな影響を与えた。
執筆者:馬渕 明子
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1840~1926
フランスの画家。印象派の指導者。主に風景画を描き,特に光線の微妙に変化する水辺の風景を多く描いた。主作品「睡蓮」「ルーアン大聖堂」「積み藁」など,いずれも連作。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…クールベはアカデミーと世論に対する戦いぶりで範を示し,また歴史画,神話画,宗教画といった伝統的ジャンルを離れた現代的主題を印象派に教えた。ドービニー,ヨンキント,ブーダンは印象派に先んじて川や海など,光に満ち大気が変化しやすい場所での正確な自然観察を行い,明るく生き生きした画面を作り上げ,特にブーダンはモネの少年時代の直接の師となった。
[革新の内容]
印象派の革新にはさまざまなものがあった。…
…彼の好んだのはフランドルやオランダの画家だったが,何よりも自然の風景,とりわけ海と空から直接に多くを学ぶ。58年ル・アーブルでカリカチュアを展示していたモネの才能を発見し,この若者に油彩と戸外制作を教えたことが,後の印象派の形成に決定的な役割を果たすことになる。彼自身も,それまでにフランスにわずかしか存在しなかった〈海景画〉という分野を確立し,海と空の移ろいやすい光の状態を描いた。…
※「モネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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