フランスの印象派の画家。裸婦や少女たちの豊かな魅力を備えた作品によって、国際的にも、日本でも、もっとも親しまれている画家。
1841年2月25日リモージュに生まれる。幼年時代、一家とともにパリに移住。1854年、陶器の工房に絵付(えつけ)職人として徒弟奉公に入り、かたわら夜学で素描を学ぶ。4年後、この工房の職を失ったため、家具の絵付け、ついで巻き上げ日よけの絵付けに従事するが、やがて画家となることを決意し、エコール・デ・ボザールのシャルル・グレールCharles Gleyre(1806―1874)の画室に入る。フォンテンブローの森で会ったクールベ、あるいはドラクロワの影響を受ける。1867年の『狩りのディアナ』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)はクールベの、1872年の『アルジェリア風のパリジェンヌ』(東京、国立西洋美術館)はドラクロワの影響を示す例である。しかし、グレールの画室で出会ったモネ、シスレー、バジールJean Frédéric Bazille(1841―1870)、そして彼らを通じて知ったピサロ、セザンヌたちとともに「カフェ・ゲルボアの集い」に参加し、マネ、モネの影響下にしだいに印象主義の技法とビジョンの形成へと向かってゆく。1869年モネとともに描いた『ラ・グルヌイエール』(ウィンタートゥール、ラインハルト・コレクション)は、印象主義的技法の最初の適用を示している。モネたちとともに画架を立てたパリ近郊のセーヌ川周辺、とくにアルジャントゥーユでの制作は、1874年、1876年の印象派展に出品された。
この1876年前後はルノワールの独自の作風が形成される時期にあたり、1876年の第2回印象派展には15点の作品が展示されるが、1877年の第3回展には『日の当たる裸婦』『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(ともにパリ、オルセー美術館)などを出品、1869年から1880年にかけてのルノワールの印象派時代を代表する作品群が生み出されている。彼はモネたちと異なり人物像に執着し、戸外や室内の光線が人物に当たる効果を追求している。同じころ、ルノワールはシャルパンティエ家の保護を得て、『腰掛けているジョルジェット・シャルパンティエ嬢』(1876、東京、アーティゾン美術館)、『シャルパンティエ夫人とその子供たち』(1879サロン出品、ニューヨーク、メトロポリタン美術館)など、魅惑的な肖像、室内像が多く描かれる。
1881年前後、ルノワールは彼自身がいう「壁」に突き当たる。構図・形態の堅固さと明確さ、質感を求めての模索がほぼ10年続いた。いわゆる「酸っぱく描く時期」である。新たな探究のため、1881年、アルジェ、イタリアに旅行。ラファエッロ、ポンペイの壁画に大きな影響を受けて、薄塗りの色面、構図性が『大水浴』(1884~1887、フィラデルフィア美術館)などで試される。後期のルノワールの特徴的な主題である裸婦も、この時期に本格的に始まる。
1890年前後から薄塗りの色彩を重層させる手法、いわゆる「虹(にじ)色の時期」が始まり、印象主義と古典的構図や質感の表現との調和が、ルノワールのまったくオリジナルな手法として完成された。『眠る浴女』(1897、ラインハルト・コレクション)など、多くの傑作がこの時期に属する。
1903年、南フランスのカーニュ・シュル・メールに移住して以後の最晩年は、赤、緋色(ひいろ)などがいっそう強さと輝きを増し、浴女、子供、花、風景などが大量に描かれ、それらの対象は世俗的な魅力を維持しつつ、象徴的・詩的な世界に到達している。彫刻、リトグラフ類もこの時期に手がけられた。ただ手の神経痛のため、何点かのバリアントをもつ『パリスの審判』など若干の大作はあるが、油彩類はこの時期小品が多い。1919年12月3日カーニュで没。
私生活では1881年、40歳でアリアーヌAline Charigot(1859―1915)と結婚、長男ピエールPierre Renoir(1885―1952。俳優)、次男ジャン(映画監督)、三男クロードClaude Renoir(1913―1993)をもうけている。また1900年にはレジオン・ドヌール勲章を授与された。
[中山公男]
『富永惣一解説『現代世界美術全集4 ルノワール』(1969・集英社)』▽『黒江光彦・小松崎邦雄編『世界の素描25 ルノワール』(1977・講談社)』▽『H・ペリュショ著、千葉順訳『ルノワールの生涯』(1981・講談社)』▽『A・ヴォラール著、成田重郎訳『ルノワールは語る』改訳新版(1981・東出版)』▽『島田紀夫編『現代世界の美術2 ルノワール』(1985・集英社)』▽『W・パッチ解説、富山秀男訳『ルノワール』(1991・美術出版社)』▽『中山公男編著『25人の画家9 ルノワール』(1995・講談社)』▽『ジャン・ルノワール著、粟津則雄訳『わが父ルノワール』(2008・みすず書房)』
フランスの映画監督。1894年9月15日パリに生まれる。父は印象派の画家オーギュスト・ルノワールである。第一次世界大戦後、前衛芸術家たちと交わり、非商業的な前衛映画をつくったが、彼の本質はリアリズムにあり、早くもゾラ原作の『女優ナナ』(1926)で彼らと決別した。サイレント映画より現実的なトーキーの時代となって、いっそう彼の本領は発揮された。いくつかの佳作ののち、モーパッサン原作の『ピクニック』(1936)で生粋(きっすい)のフランス的リアリズムを完成させ、ゴーリキー原作の『どん底』(1936)ですら、フランス的にみごとに消化した。1930年代後半はフランス映画の黄金期として知られるが、ルノワールはこの時代に画期的な傑作『大いなる幻影』(1937)を発表し、第二次世界大戦中のドイツの捕虜収容所を舞台に、国境を越えた人間愛の精神を高揚した。この映画は知性に裏づけられた詩的リアリズムの成果であった。続く『獣人』(1938)はゾラの映画化で鉄道の脅威を描き、1939年の『ゲームの規則』はブルジョア生活の空虚を鋭く批判した傑作であった。大戦中はアメリカに亡命して数編の映画をつくった。その後インドに渡って『河』(1951)をつくったが、これまた悠々たる大河のような壮大な傑作だった。その後は昔日のおもかげはないが、ヌーベル・バーグの青年たちは彼を師と仰ぎ、彼の功績はいまや不朽なものと一般に認められている。1979年2月12日ロサンゼルスで没した。
[飯島 正]
カトリーヌ Catherine(1924)
水の娘 La Fille de l'eau(1924)
女優ナナ Nana(1926)
チャールストン Sur un air de Charleston(1927)
マッチ売りの少女 La Petite marchande d'allumettes(1928)
のらくら兵 Tire au flanc(1928)
坊やに下剤を On purge bébé(1931)
牝犬 La Chienne(1931)
素晴らしき放浪者 Boudu sauvé des eaux(1932)
ボヴァリィ夫人 Madame Bovary(1933)
トニ Toni(1935)
ピクニック Partie de campagne(1936)
どん底 Les Bas-fonds(1936)
大いなる幻影 La Grande illusion(1937)
ラ・マルセイエーズ La Marseillaise(1938)
獣人 La Bête humaine(1938)
ゲームの規則 La Règle du jeu(1939)
スワンプ・ウォーター Swamp Water(1941)
自由への闘い This Land Is Mine(1943)
南部の人 The Southerner(1945)
小間使の日記 The Diary of a Chambermaid(1946)
浜辺の女 The Woman on the Beach(1947)
河 The River(1951)
黄金の馬車 Le Carrosse d'or(1953)
フレンチ・カンカン French Cancan(1954)
恋多き女 Elena et les hommes(1956)
コルドリエ博士の遺言 Le Testament du Docteur Cordelier(1959)
草の上の昼食 Le Déjeuner sur l'herbe(1959)
捕えられた伍長 Le Caporal épinglé(1961)
『アンドレ・バザン著、奥村昭夫訳『ジャン・ルノワール』(1980・フィルムアート社)』▽『西本晃二訳『ジャン・ルノワール自伝』(2001・みすず書房)』
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1841~1919
フランスの画家で,印象派の代表的一人。明るい甘美な量感にあふれる色調で好んで裸婦やバラを描いた。彼の次男ジャン(Jean)は映画監督として知られる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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