日本大百科全書(ニッポニカ) 「シンドラー」の意味・わかりやすい解説
シンドラー
しんどらー
Rudolph M. Schindler
(1887―1953)
オーストリア生まれのアメリカの建築家。ウィーンに生まれる。1906年よりウィーンの王立工科大学で構造について学んだ後、11年オットー・ワーグナーの主宰するウィーン美術アカデミーに入学、ここで建築を学ぶ。当時ウィーンで活動していたアドルフ・ロースに影響を受け、14年、ロースの勧めにより渡米。17年よりフランク・ロイド・ライトに師事し、自らが担当する住宅監理のため20年にロサンゼルスへ移る。以後、終生ロサンゼルスを拠点として活動を行う。
21年にライトの事務所を離れ独立、同時に自邸となるシンドラー・チェイス邸(1922、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド)を完成させる。処女作となるこの住宅は、シンドラー家と友人のチェイス一家の共同住宅として建てられ、カリフォルニアの風土と地域性を考慮した優れた作品となっている。ここでは敷地全体を植栽によって囲い込んだうえで、内部と外部の境界が希薄で、屋外に向かって空間が開放的に連続していくような住宅がつくられた。住宅そのものは平屋で、機能ごとに諸空間を雁行(がんこう)配置し、その間に生まれるスペースを庭として計画した。また、構造的にもコンクリートと木造を混在させて全体をまとめ、その後のシンドラーの作品を予感させる要素が各面に見いだされる。自邸完成後、初めての斜面住宅となるハウ邸(1925、ロサンゼルス)を設計。この作品では急勾配の傾斜地を生かして、光と眺望を複雑にコントロールし、高低差を利用した居住空間をつくった。シンドラーはこうした傾斜住宅を得意とし、以降、ウォーカー邸(1936、ロサンゼルス)、ウィルソン邸(1939、ロサンゼルス)、カリス邸(1946、ロサンゼルス)といった斜面住宅の傑作を次々と生み出してゆく。
26年に、住宅や生活様式をめぐる理論を初めて『ロサンゼルス・タイムズ』紙の「ケア・オブ・ザ・ボディ」欄に発表。このころ、ウィーン時代に交流のあったリチャード・ノイトラがシンドラー邸に移り、AGIC(Architectural Group for Industry and Commerce)という名で2人の協同作業が始まるが、両者の不仲により、このパートナーシップはすぐに解散する。シンドラーとノイトラの協同作業としては、26年の国際連盟本部の設計競技案などがある。この前後にシンドラーは代表作となるロベル・ビーチ・ハウス(1926、カリフォルニア州ニューポート・ビーチ)を設計。この住宅はフィリップ・ロベルPhilip Lovellの夏の別荘としてつくられ、薄いコンクリート・フレームによって居住空間をもち上げた大胆な構成となっている。
ビーチ・ハウスを完成させた後、シンドラーは住宅を安価に建設するための手法として木造フレーム構法(ロサンゼルスの在来標準構法)を改良し、シンドラー・フレームと呼ばれる構法を考案する。そして以降の作品では、原則としてこのフレーム・システムが採用された。
シンドラーは亡くなるまで、500あまりの作品を残し、そのうちの150以上が実際に建てられ、そのほとんどが独立住宅だった。これら住宅の特徴には、コンクリートや木造等を混合させた多重構造、地域性を考慮した素材の利用、外部と内部をつなぐ開放的な空間、段差や高低差を通した複雑な空間構成、そして二次元の図面に還元できない三次元空間の組み合わせなどが挙げられる。ここからは、シンドラーがロースやワーグナー、ライトといった建築家から強い影響を受けながら、それを消化し、展開させた軌跡を読みとることができる。こうしたシンドラー作品の空間は、写真や図面のみでは伝わりにくいことが指摘されている。そのため、作品の魅力にもかかわらず、長らく脚光を浴びることがなかった。そのことを象徴的に示しているのが、32年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開かれた「国際建築」展である。シンドラーはすでにロベル・ビーチ・ハウスの革新的な構成によって住宅の新しい境地を拓いていたが同展には招待されなかった。代わりにノイトラが招待され、ノイトラはビーチ・ハウスと同じロベルの依頼によって設計した邸宅により、一躍世界的に名を知られる建築家となった。
しかし20世紀におけるモダニズムの再考によりシンドラーの作品が改めて注目されるようになり、再評価の試みが多様になされている。
[南 泰裕]
『デヴィッド・ゲバード著、末包伸吾訳『ルドルフ・シンドラー――カリフォルニアのモダンリビング』(1999・鹿島出版会)』▽『「特集R・M・シンドラー」(『建築文化』1999年9月号・彰国社)』