改訂新版 世界大百科事典 「スペランスキー」の意味・わかりやすい解説
スペランスキー
Mikhail Mikhailovich Speranskii
生没年:1772-1839
ロシアの政治家。中央神学校卒業後,同校教師(物理,数学,修辞学担当)。啓蒙思想,自然科学等に造詣が深かった。クラキン公に認められ,パーベル1世時代に官界に入る。豊かな分析力,平明な文章力など,当時のロシアで抜群の官僚的資質があったため,アレクサンドル1世に抜擢されて新しい体制づくりに尽力。伝統的貴族国家の中で,上流社会に入らず,孤独の中にひたすら帝意にこたえようと仕事に専念した。有効で整然とした行政機構づくりを念願とし,国務会議を創設し,内閣制度,官僚制の基礎をつくった。とくに1809年,貴族に課した昇進試験制度は貴族の怨嗟(えんさ)の的となり,このため彼は〈成り上がり者〉〈体制の破壊者〉等のレッテルを貼られた。アレクサンドル1世は1812年のナポレオン軍侵入の直前,彼をニジニ・ノブゴロド(現,ゴーリキー),ウラル西麓のペルミに流刑にしたが,帝の真意は明らかでない。16年,追放解除後,シベリア総督を務めたのち中央官界に復帰した。デカブリストたちには親近感を抱いていたふしがあり,それだけにニコライ1世からは完全な信頼を得ていなかったようである。ピョートル1世以来企図されながら成功を見るにいたらなかったロシアの法典編纂の大業は,ニコライ1世の治下,彼の指導下に第11次の委員会によって完成した。《ロシア帝国法律大全》45巻(1830),《ロシア帝国法典》15巻(1835)。この功業によって伯爵を授けられた。
執筆者:山本 俊朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報