日本大百科全書(ニッポニカ) 「タイ捨流」の意味・わかりやすい解説
タイ捨流
たいしゃりゅう
近世剣術の一流派。新陰(しんかげ)流の分かれ、初め新陰タイ捨流と称した。流祖は肥後国球磨(くま)郡人吉(ひとよし)(熊本県人吉市)の相良壱岐守(さがらいきのかみ)の家臣、丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)長恵(ながやす)(1540―1629)。彼は幼少より剣術を好み、14歳のとき父に従って薩摩(さつま)の島津氏との合戦に初陣の功名をあげ、ついで天草本渡(あまくさほんど)の天草伊豆守について諸流の修行を積み、永禄(えいろく)(1558~70)の初め上洛(じょうらく)し、新陰流の上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)(信綱)の門に入って頭角を現し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)の命によって伊勢守が新陰の兵法を上覧に供した際、選ばれて師の打太刀(うちだち)を勤めたという。1567年(永禄10)極意の殺人刀(せつじんとう)・活人剣(かつじんけん)の相伝を受け、西国における同流の弘布(こうふ)を志して帰国、九州諸国に流勢を広げた。その後、弟の丸目寿斎(じゅさい)・同安芸守頼蔵(あきのかみらいぞう)、木野(きの)九郎右衛門、神瀬軍助(かんぜぐんすけ)、小田(おだ)六右衛門ら5人の高弟を伴ってふたたび上京を試みたが、すでに恩師は関東へ去り、その念願を果たさなかった。そして1575年(天正3)のころには、師伝に自らのくふうを加え、真剣の勝味を考案して、流名から新陰をとってタイ捨を標榜(ひょうぼう)した。いっさいの我執を捨て、純一無雑の心境で相手に対するという意味で、あえて仮名書きにするのは、体・太・待・対などの漢字をあててみても、いずれも流儀の真意を穿(うが)つことができないからであるという。こうしてタイ捨流は、肥後人吉藩を中心に九州一円に行われ、薩摩の示現(じげん)流祖東郷重位(しげかた)も初めタイ捨を学んだといい、筑前(ちくぜん)の安倍(あべ)流剣道や心抜(しんぬき)流・大石神影(おおいししんかげ)流などにも影響を与えた。
[渡邉一郎]