ダイエー(読み)だいえー

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダイエー」の意味・わかりやすい解説

ダイエー(株)
だいえー

スーパーマーケットダイエー中核とした小売企業。イオングループの一員。1957年(昭和32)中内㓛(なかうちいさお)が大栄薬品工業を設立。同年大阪市京阪電鉄千林(せんばやし)駅前に主婦の店・ダイエー薬局を開店した。「よい品を安く豊かに」をモットーとして、翌年にはチェーン店第1号を神戸に開業したのを手始めに、創立満5年の1962年までに阪神間に6店のスーパーマーケットを開設、あわせて店舗数は20を超え、年商300億円という急成長を示す。1964年東京へ進出。1970年に社名をダイエーに変更、1971年大阪証券取引所(現、大阪取引所)第二部市場に、1972年には大阪・東京両証券取引所第一部市場に株式を上場し、小売業売上高で三越(みつこし)百貨店を追い抜き、百貨店業界第1位を達成して、流通革命の旗手として注目されるに至った。ストア・ブランドあるいはノーブランドの商品を開発し廉価で販売することでも先鞭(せんべん)をつけた。世界30数か国から商品を輸入、1980年にはパリのプランタンと提携しデパートメントストア経営にも乗り出すなど国際的な営業を行った。1988年にはプロ野球球団南海(なんかい)ホークス買収福岡ダイエーホークスを発足させる。1992年(平成4)情報産業のリクルートに資本参加、1994年には傘下のスーパーマーケットであった忠実屋、ユニードダイエー、ダイナハを吸収合併し、全国チェーンとなる等事業拡大を続けた。しかし1990年代からのバブル経済の崩壊や、1995年におきた阪神・淡路大震災により多くの店舗が被害を受けた影響で経営は悪化、1998年には株式上場以来初の赤字に陥る。翌年中内が社長を退き、鳥羽董(とばただす)(1930― )が後任に就いたが、2000年(平成12)にグループ企業内の株式売買の不明朗取引で利益を得ていたことが発覚、鳥羽は社長職を辞任、創業者の中内も会長職を辞任し経営の一線から退くことになった。ダイエーの株価は経営に対する不信により急落し、同年、1972年以来守り続けた小売業売上高首位の座をセブン‐イレブン・ジャパンに明け渡す。2002年には産業再生法の適用が認められ、経営の建て直しを図ったが、自主再建断念、2004年産業再生機構に支援を要請するに至った。同年福岡ダイエーホークスをソフトバンクに売却。2013年8月、TOB(株式公開買付)によりイオンの連結子会社となり、2015年1月には株式交換により完全子会社化された。資本金565億円(2015)、売上高7564億8700万円(2014年2月)、店舗数218(2015)。

[森 真澄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダイエー」の意味・わかりやすい解説

ダイエー

イオン傘下のスーパーマーケットチェーン。1957年実業家の中内が大栄薬品工業として設立。1959年主婦の店,1962年主婦の店ダイエー,1970年ダイエーに商号を変更。関西地方を中心に店舗を増設しながら全国展開,良質で安価な商品をモットーに成長し小売業界のトップとなった。1975年コンビニエンスストアのダイエーローソンを設立(→ローソン)。1988年よりプロ野球球団福岡ダイエーホークスを経営。1994年忠実屋ユニードダイエー,ダイナハの 3スーパーチェーンを合併。1997年グループ傘下のサービス,外食,不動産関連の企業 40社を統括する持株会社,ダイエーホールディングコーポレーションを設立。1999年財務再建のため,多角化部門を持株会社の傘下へと分離を進めた。2001年,ローソンを三菱商事に売却。2002年,持株会社を清算。その後も自力再建の努力を続けたが,2004年10月産業再生機構に再建の支援を要請。再建策の一環として,2005年福岡ダイエーホークスをソフトバンク(→ソフトバンクグループ)に売却した。2006年に丸紅が筆頭株主となる。2007年イオンが参入し 3社による資本・業務提携を締結。2013年イオンがダイエーに対する株式公開買付 TOB(→株式公開買付制度)によって筆頭株主となり,ダイエーを子会社化した。

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