ダラピッコラ

百科事典マイペディア 「ダラピッコラ」の意味・わかりやすい解説

ダラピッコラ

イタリア作曲家。オーストリア・ハンガリー二重帝国領のピジーノ(イストラ半島中部,現スロベニア領パジン)に生まれ,第1次世界大戦中は敵国人としてオーストリアのグラーツへ集団強制移住させられる。グラーツでは少数民族ゆえの差別を体験するが,一方でドイツ音楽に親しみ,古典文学に開眼。1922年フィレンツェケルビーニ音楽院に入学。同地でシェーンベルクが指揮する《ピエロ・リュネール》を聴き,感化を受ける。在学中からピアノ奏者として活動し,《ミケランジェロ合唱曲集》(1933年−1936年)など初期傑作を発表。1933年ベルクウェーベルンに会い,オペラ夜間飛行》(1938年,原作サンテグジュペリ)などで12音技法(十二音音楽)を採用。一方,第2次世界大戦中ユダヤ人の妻と共にした苦難は,少年期の被抑圧体験とともに,自由への希求というテーマに結晶した。作品は12音技法を核にしながらも豊かな旋律抒情にあふれ,古典文学の深い素養と相まって独自の劇的様式を形づくる。その後の主要作品に,混声合唱と器楽アンサンブルのための《とらわれの歌》(1938年−1941年),オペラ《とらわれ人》(1948年),バリトンと8楽器のための《5つの歌》(1956年),オペラ《オデュッセウス》(1967年−1968年)など。→シェルヘンベリオ

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改訂新版 世界大百科事典 「ダラピッコラ」の意味・わかりやすい解説

ダラピッコラ
Luigi Dallapiccola
生没年:1904-75

イタリアの作曲家。フィレンツェのケルビーニ音楽院に学び,1934-67年母校でピアノを教えた。1920年代にドビュッシー,30年代にシェーンベルク,ベルク,ウェーベルンに影響を受け,全音階主義と半音階主義を経て歌劇《とらわれ人》(1948)より完全な十二音技法を採るにいたる。歌劇《夜間飛行》(1938),宗教劇《ヨブ》(1950),室内声楽曲《ギリシアの詩》(1945),歌曲《ゲーテ歌曲集》(1953),合唱曲《解放の歌》(1955)など,イタリア的感性による声楽作品を書く。少年期にオーストリア政府により強制移住させられ,第2次大戦中にはユダヤ人の妻の安全が脅かされた体験により,自由を求めた作品が多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダラピッコラ」の意味・わかりやすい解説

ダラピッコラ
Dallapiccola, Luigi

[生]1904.2.3. ピジーノ
[没]1975.2.19. フィレンツェ
イタリアの作曲家。6歳から音楽を学ぶ。 1917年オーストリア政府のイタリア系住民に対する圧力によりグラーツへ強制移住。第1次世界大戦後ピジーノへ戻る。ケルビーニ音楽院で,ピアノをエルネスト・コンソロ,作曲をビート・フラッツィに師事。卒業後,母校のピアノ科教授,ピアニスト,作曲家として活躍。 12音技法 (→12音音楽 ) に基づくと同時に,温かい人間的感情に包まれた作風で知られ,オペラ『夜間飛行』 (1940,フィレンツェ初演) ,ファシスト政府やナチスの残虐行為への反抗としてつくられた『とらわれ人の歌』 (1938~41) ,祖国の解放を喜ぶ『解放の歌』 (1955) などの作品がある。 1972年オネゲル賞受賞。

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