日本大百科全書(ニッポニカ) 「マインツ」の意味・わかりやすい解説
マインツ
まいんつ
Mainz
ドイツ西部、ラインラント・プファルツ州の州都。人口18万2900(2000)。ライン川中流左岸、マイン川との合流点にある。対岸はヘッセン州の州都ウィースバーデン。州関係の立法、司法、行政各機関のほか、連邦政府機関、経済団体、各種研究・教育機関などが集中する。また、カトリックの大司教座、プロテスタントの教区長が置かれ、宗教都市でもある。第二次世界大戦の爆撃で市街地の80%を破壊されたが、奇跡的に破壊を免れたロマネスク様式の大聖堂をはじめ歴史的建造物が多い。数多い美術館、博物館では、印刷技術に関するグーテンベルク博物館が著名。市街地北部、ライン河畔に工業港をもち、車両、ガラス、製紙、事務機器などの工業が立地する。音楽関係の出版・印刷業は伝統をもつ。周辺には、ラインヘッセン、ラインガウ、ラインプファルツなど著名なワイン産地があり、ワインおよびシャンパンの取引中心地である。19世紀から続くカーニバルも重要な観光資源となっている。
[朝野洋一]
歴史
市の起源は紀元前13年ローマの将軍ドルススが築いた城塞(じょうさい)にさかのぼり、古名をモゴンティアクムMogontiacum(またはマグンティアクムMaguntiacum)とよんだ。紀元後300年ごろローマの属州ゲルマニア・プリマの首都となったが、ゲルマンの民族移動期には徹底的に破壊され、5世紀にフランク人の支配下に入って安定を取り戻した。この地に司教座が置かれたのはローマ時代末期のことであるが、747年ドイツ人の使徒ボニファティウスの努力によって大司教座に昇格し、歴代大司教に人材が輩出したため、ドイツの政教両界に大きな位置を占めることになった。すなわち、同大司教は宗教的には全ドイツ教会の3分の2を統轄し、政治的には神聖ローマ帝国宰相として重きをなし、皇帝選立の際にはつねに重要な役割を演じ、1356年の金印勅書でその選帝侯としての地位が確認された。
ライン、マイン両川の合流点という交通上の要衝にあるため、中世後期には経済的にも大いに繁栄し、都市支配権を握る大司教に対し市民の自治権闘争が繰り返され、1244年その目的を達した。1254年には大空位時代(1256~73)の混乱に対処するためライン都市同盟を結成し、それを主宰した。しかし、1462年大司教アドルフ2世Adolf Ⅱ(在位1461~75)の占領によって市民的自治は終息し、以後は選帝侯の居城都市となった。1477年には大司教ディーターDiether(在職1475~82)により大学が設立された。また、15世紀中ごろグーテンベルクが活字印刷を始めたのもこの地である。15世紀以来、城塞都市として防備が固められたため、かえって三十年戦争、プファルツ戦争に際して、フランス軍の侵入を受けた。1815年のウィーン条約でマインツ大司教領は四分されて、マインツ市はヘッセン大公領に属し、のち1866年プロイセン領となった。
[瀬原義生]