1905年設立。2000年代に入ると後にドルトムント(ドイツ)を率いた名将のクロップ氏が監督を務めて力をつけ、04年に1部初昇格。13年から日本代表FW
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ドイツ西部,ラインラント・ファルツ州の州都。ライン,マイン両川の合流点に位置する交通の要衝で,古くから軍事上,政治上の拠点,宗教,文化,商工業の中心地として発展した。人口18万3134(1999)。地名は,紀元前38年ごろローマ人が先住ケルト人の光の神モゴンの祭場跡に建設した軍団宿営地モゴンティアクムMogontiacumに由来する。前9年将軍ドルススの第4次ゲルマニア進攻の基地となり,兵士の家族,商工業者などの移住につれて,都市生活が開花した。やがて,ゲルマニア・プリマ州の主府となり,キリスト教の布教にともない346年司教の居住が知られる。民族移動期には荒廃するが,フランク王国成立後司教座都市として再生し,8世紀後半大司教座に昇格,975年大聖堂が建立された。大司教は,全盛期には15司教区を擁するヨーロッパ最大の教会管区の統轄者であり,また神聖ローマ帝国官房長かつ筆頭選帝侯として,聖俗両界に甚大な影響力をもった。その下で市民たちは,11世紀末叙任権闘争を好機とみて自立運動を開始した。1115年大司教アダルベルト1世を皇帝ハインリヒ5世の捕囚から救出して特許状の下付をうけ,1244年参事会員選出などの諸特権を獲得して自由都市となった。54年ライン都市同盟結成の主役となり,経済的にも東西交易の結び目として〈黄金のマインツ〉とうたわれ,繁栄を享受した。だが,1332年門閥商人の寡頭市政に手工業者が反抗し,1444年政権を略取,聖職者との軋轢(あつれき)も生じた。しかも62年大司教位をめぐる争いに介入したため,勝利者アドルフ2世フォン・ナッサウに制圧され,都市の全権を剝奪されて,従属的な君侯都市となった。
1445年ごろ都市門閥出身のグーテンベルクは活字印刷術を発明し,77年選帝侯ディーター・フォン・イゼンブルクは大学を創設した(1798年閉鎖,1946年再開)。1514年大司教位を手に入れたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは,借財返済の方便として贖宥状を乱売させ,ルターの宗教改革を招いた。歴代選帝侯は,市内のマルティン城を居所としたが,17世紀にはルネサンス様式の宮殿(今日のローマ・ゲルマン中央博物館)に移った。このころ市も強固な要塞として防備され,三十年戦争,フランス革命戦争では敵の攻略目標となった。1792-93年にフランス革命軍の占領下にドイツ最初の共和政体が誕生,98年フランスに併合,ウィーン会議により1816年ヘッセン大公国に加えられた。しかし要塞と軍事施設は,ドイツ連邦のプロイセン,オーストリア駐屯軍の共同管理にとどめられ,ついでドイツ帝国に帰したため,市域の拡大,工業地帯の形成は,19世紀末にようやく実現をみた。第2次大戦では市の8割以上が破壊されたが,近年は各種工場の進出とブドウ酒取引,さらにライン川遊覧船の発着地として活気をとり戻した。グーテンベルク博物館とカーニバルは国際的に有名である。
執筆者:小倉 欣一
正称はザンクト・マルティン・ウント・ザンクト・シュテファン。東西2基の交差部塔と二重内陣とをもつ,ライン地方のロマネスク建築の代表作である。創建当時(975-1036)の東の双塔とゴシック時代に付加された南北側廊の祭室群を別にすれば,本体の大部分は1081-1239年に建造。身廊天井を交差ボールトとした試み(のちにオジーブ・ボールトとなる)は,シュパイヤー大聖堂とともに当時としては斬新な手法であった。堂内には墓碑彫刻が多数あり,〈ナウムブルクの作家〉(ナウムブルク)による彫刻の断片が残る。
執筆者:勝 國興
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ドイツ西部、ラインラント・プファルツ州の州都。人口18万2900(2000)。ライン川中流左岸、マイン川との合流点にある。対岸はヘッセン州の州都ウィースバーデン。州関係の立法、司法、行政各機関のほか、連邦政府機関、経済団体、各種研究・教育機関などが集中する。また、カトリックの大司教座、プロテスタントの教区長が置かれ、宗教都市でもある。第二次世界大戦の爆撃で市街地の80%を破壊されたが、奇跡的に破壊を免れたロマネスク様式の大聖堂をはじめ歴史的建造物が多い。数多い美術館、博物館では、印刷技術に関するグーテンベルク博物館が著名。市街地北部、ライン河畔に工業港をもち、車両、ガラス、製紙、事務機器などの工業が立地する。音楽関係の出版・印刷業は伝統をもつ。周辺には、ラインヘッセン、ラインガウ、ラインプファルツなど著名なワイン産地があり、ワインおよびシャンパンの取引中心地である。19世紀から続くカーニバルも重要な観光資源となっている。
[朝野洋一]
市の起源は紀元前13年ローマの将軍ドルススが築いた城塞(じょうさい)にさかのぼり、古名をモゴンティアクムMogontiacum(またはマグンティアクムMaguntiacum)とよんだ。紀元後300年ごろローマの属州ゲルマニア・プリマの首都となったが、ゲルマンの民族移動期には徹底的に破壊され、5世紀にフランク人の支配下に入って安定を取り戻した。この地に司教座が置かれたのはローマ時代末期のことであるが、747年ドイツ人の使徒ボニファティウスの努力によって大司教座に昇格し、歴代大司教に人材が輩出したため、ドイツの政教両界に大きな位置を占めることになった。すなわち、同大司教は宗教的には全ドイツ教会の3分の2を統轄し、政治的には神聖ローマ帝国宰相として重きをなし、皇帝選立の際にはつねに重要な役割を演じ、1356年の金印勅書でその選帝侯としての地位が確認された。
ライン、マイン両川の合流点という交通上の要衝にあるため、中世後期には経済的にも大いに繁栄し、都市支配権を握る大司教に対し市民の自治権闘争が繰り返され、1244年その目的を達した。1254年には大空位時代(1256~73)の混乱に対処するためライン都市同盟を結成し、それを主宰した。しかし、1462年大司教アドルフ2世Adolf Ⅱ(在位1461~75)の占領によって市民的自治は終息し、以後は選帝侯の居城都市となった。1477年には大司教ディーターDiether(在職1475~82)により大学が設立された。また、15世紀中ごろグーテンベルクが活字印刷を始めたのもこの地である。15世紀以来、城塞都市として防備が固められたため、かえって三十年戦争、プファルツ戦争に際して、フランス軍の侵入を受けた。1815年のウィーン条約でマインツ大司教領は四分されて、マインツ市はヘッセン大公領に属し、のち1866年プロイセン領となった。
[瀬原義生]
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ドイツ,ライン川中流左岸の要衝を占める都市。4世紀以降司教座が置かれ,8世紀にはボニファティウスがここからドイツの布教を行った。780年最終的に大司教座所在地と定められる。マインツ大司教は諸侯筆頭また帝国大官房長として選帝侯に列するとともに,皇帝選挙と戴冠式を取り仕切った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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