日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハサウェイ」の意味・わかりやすい解説
ハサウェイ
はさうぇい
Donny Hathaway
(1945―1979)
アメリカのシンガー・ソングライター。シカゴに生まれセントルイスで育つ。ソウル・ミュージックの次代を担う人物とされたものの、若くして自殺した。
祖母はマーサ・クラムウェルMartha Crumwellというゴスペル・シンガーで、彼女の指導の下に、アメリカで最も若いゴスペル・シンガーとして3歳から舞台に立っていた。この時の楽器は子供にも手ごろな大きさのウクレレだったが、のちにピアノを学ぶようになる。高校を卒業後、黒人の社会的貢献に大きな役割をはたしてきたワシントンDCの名門ハワード大学に奨学生として入学し音楽を専攻、学生時代からジャズ・バンドに参加するなど多くのプロ・ミュージシャンと接する。同大学を中退するが、これは周囲からのプロ転向の強い要請があったからである。
ハサウェイは曲作りから演奏まで幅広くこなすミュージシャンとして、アレサ・フランクリンやステープル・シンガーズほか、当時のトップ・シンガーたちを支える重要な存在として働いた。特にシカゴの大物シンガー、カーティス・メイフィールドからは、彼が設立したカートム・レコードのハウス・プロデューサーとして迎え入れられている。このときのハサウェイは、まだ20代前半だった。
1970年、アトランティック・レコードと契約し「ザ・ゲットー・パート1」を発売する。このシングルは大きなヒットにはならなかったものの、深刻な社会問題を柔らかな歌声に包んだ彼のスタイルは、黒人音楽の新しい時代を告げるものとして注目された。71年、同じ大学の仲間だったロバータ・フラックとのデュエット「きみの友だち」が発売され、これが大ヒット。続く2人のアルバム『ロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ』(1972)も高い評価を受けて、彼らは「恋人は何処に」でグラミー賞「ベスト・ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞(グループ部門)」を受賞。72年はハサウェイにとっては頂点といえる年で、ソロ作品として、ソウル・ミュージック、ロックにとっての歴史的な名演アルバム『ライヴ』が発表されている。
しかし彼は重い鬱病を抱え、入退院を繰り返さなければならず、大々的な公演旅行もかなわなかった。73年、病いを抱えながらも発表されたアルバム『愛と自由を求めて』は、ソウル・ミュージックやロックといったジャンルを超えた意欲作で、そのボーカル・スタイル、作曲法、社会を見つめる視点など、後世のミュージシャンにとっての指針となった作品である。
その後の彼は目立った活動を控えるようになってゆく。77年、フラックとのデュエット「クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー」がヒットし、ようやく本格的に動き出すかと思われたやさきの79年の1月、彼はニューヨークのホテルから身を投げてしまう。33歳だった。
[藤田 正]