アメリカの政治家,文筆家,科学者。〈代表的アメリカ人〉と呼ばれる。ボストンのろうそく屋に生まれ,印刷業を営む兄の下で徒弟として勤め,1723年フィラデルフィアに移る。24年イギリスに渡り印刷技術をみがき,1726年に帰米後印刷・出版業に従事,《ペンシルベニア・ガゼット》紙の発行者となる。ことに32年より売り出された処世訓,格言を付した《貧しいリチャードの暦》は大衆的な読物として好評を博し,年間1万部売れ,啓蒙的な思想家としての彼の名を高めた。印刷・出版業の成功で財をなしたフランクリンは経営をパートナーにまかせ,科学・学術の分野での活動,政治的活動に専念した。しかし,生涯〈印刷業者フランクリン〉と自称した。
1727年にすでに〈ジャントーJunto〉と称する読書・討論クラブを組織していたが,31年にはアメリカ最初の巡回図書館を経営,36年には消防組合を組織,43年にはアメリカ学術協会を設立,51年には宗教と関係のない近代的学校の設立を考えフィラデルフィア・アカデミー(ペンシルベニア大学の前身)を創立した。フランクリンはまた自分自身で科学の研究や発明に従事することを好み,1742年にはいわゆるフランクリン・ストーブ(前開き式鉄製ストーブ)を発明し,長年の電気についての研究ののち,52年には凧(たこ)を使って稲妻と電気との同一性を実験したことは有名であるが,その前年には電気の性質についての論文をものにしていた。こうした科学上の活動は,彼の名声をヨーロッパに響かせ,56年にはイギリスのローヤル・ソサエティ会員に選ばれ,オックスフォード大学をはじめいくつかの大学から学位を与えられ,〈フランクリン博士〉の名をもって呼ばれ,ヨーロッパで最も著名なアメリカ人になった。
フランクリンはまた数多くの政治的活動を行っている。ペンシルベニア植民地議会の書記を務めたのち,同議会の議員(1751-64),植民地の郵便総局長(1753-74)を務め,植民地間の連合を議したオルバニー会議(1754)では,独自の連合案を提案し,採択はされなかったが,彼の政治的関心の広さを示した。57年からはペンシルベニア植民地議会を代表してイギリスに渡り,一時帰米をはさんで,66年には印紙税法廃止のためにイギリスで活動,実質上各植民地の代表となった。75年5月帰米,さっそく第2回大陸会議の代表に選ばれ,初代郵政長官となり,独立宣言の起草ではジェファソンを助け,76年にはフランスの援助をとりつけるためフランスに派遣され,同盟条約(1778)を結ぶことに成功した。フランスにあっては,ボルテールをはじめとする啓蒙主義者と交遊関係を結び,多くのサロンに招かれ婦人たちの間でも人気があった。パリでイギリスとの和平交渉使節の一員となり,82年11月仮講和条約を結ぶことに成功する。85年9月帰国し,ペンシルベニア州行政参事会の議長(知事)を88年まで務め,その間連邦憲法制定会議(1787)には元老として参加,その常識とユーモアで対立する意見の妥協を図った。90年,84歳で世を去ったときにはアメリカ議会は1ヵ月間喪に服し,フランス国民議会も3日間喪に服した。
フランクリンは《自叙伝》(1771執筆開始)をはじめおびただしい文章を書いており,1959年以来イェール大学により刊行されつつある全集は,完成すれば40巻になるという。彼の著作は,《貧しいリチャードの暦》や《自叙伝》にも示されるように,だれにも読める平易な文章でつづられ,一見通俗的な道学者流の教訓が述べられている。しかし,その基底にあるものは,独立,自由,機会,勤労,成功といった,宗教改革を源泉とし,啓蒙主義を経て脱宗教化したピューリタニズムの基本的価値であった。フランクリンは,まさにM.ウェーバーのいうように〈近代的人間類型〉の古典的見本であり,〈資本主義の精神〉の体現者であったといえよう。彼は代表的アメリカ人であるとともに,また代表的近代人でもあったのである。
その点,明治維新以降日本が〈近代化〉を目ざすときに,この代表的近代人が一つのモデルとされたことは当然であろう。宮中でも彼の《自叙伝》が講ぜられ,昭憲皇太后がフランクリンの12の徳目を和歌にし,それが華族女学院の校歌にまで発展する。もちろん,フランクリンが広く日本に受け入れられたのは,その自主,独立,勤労の教えのゆえであり,その《自叙伝》は1887年に《名華之余薫》(御手洗清和訳)として訳出され,国木田独歩なども《自叙伝》によりつつフランクリンの伝記(少年伝記叢書第1巻《フランクリンの少壮時代》1896)を公にしている。明治の興隆期に,フランクリンが立志伝中の人としてモデル化されるとともに,他方その現実主義的な教えのゆえに,世俗的功利主義の代表者として,アメリカ文明の物質主義的側面を象徴する存在かのごとくとらえられるに至ったことも否定できない。
執筆者:斉藤 真
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アメリカの政治家、印刷業者、著述家、発明家、科学者。ろうそく製造職人の子として1月17日ボストンに生まれる。12歳で兄の経営する印刷所に年季奉公に入り、そこで発行する新聞『ニューイングランド・クーラント』に匿名で寄稿するなど文章の練磨に努めた。17歳のとき、印刷工の職を求めてフィラデルフィアに移った。1729年、すでに発行されていた『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買い取り、1730年には独立してこの新聞の発行にあたった。同年、デボラ・リードDeborah Read(1708―1774)と結婚。1732年から約25年間、リチャード・ソーンダーズの名前で暦を出版、一般市民に勤勉と節約の教訓を諺(ことわざ)風に説いた。これは『貧しきリチャードの暦』として有名になった。また、道路の舗装と清掃、街灯の改善、消防組合の組織など、市民生活の向上に貢献した。1731年会員制貸出し図書館、1743年アメリカ哲学協会、1751年貧民救済病院および大学(後のペンシルベニア大学)の設立に努めた。1736~1751年植民地議会書記、1751~1764年議員、1737~1753年フィラデルフィア郵便局長、1753~1774年植民地郵政長官の公職についた。
科学技術にも深い関心を寄せており、その方面の業績としては、オープン・ストーブ(フランクリン・ストーブ)の発明(1742)、地震の原因の研究、北東風の起源の研究(暴風が動く風系であることを明らかにした)、海流の研究(帆船による大西洋の経済運航に役だった)、雷の電気および避雷針の研究(1752年に凧(たこ)の実験によって稲妻が電気放電であることを明らかにした)などがある。
1754年、オルバニー会議にペンシルベニア代表として出席、最初の植民地連合案を起草したが、これは、本国のイギリス政府と各植民地議会の賛同を得られず実施に至らなかった。1755年ブラドックEdward Braddock(1695―1755)将軍のオハイオ遠征を援助、自らも義勇民兵軍を組織して戦った。1757年植民地議会代表として防衛、課税問題折衝のため本国に派遣された。1764年ペンシルベニア王領植民地化の請願のため再度渡英したが、おりしも植民地では1765年に本国議会を通過した印紙法への反対運動が起こり、この撤廃に一役買った。1775年植民地の第2回大陸会議代表に選ばれ、帰国するときには本国との和解への望みを捨て、以後アメリカの独立に尽力した。1776年の「独立宣言」の起草委員となり、同年12月大陸会議代表としてフランスに渡り同盟を結び、1783年のパリ条約締結にはアメリカ代表の一人に選ばれた。この在任中、彼はパリで、世界で最初のころの気球の上昇を見ている。また、1783年に険悪な天気が続いたときは、これがアイスランドの火山噴火の結果おこったことを推論し、気候変化と火山活動を結び付けた世界で最初の論文となった。
1785年ペンシルベニア行政長官、1787年連邦憲法会議代表となり、会議の調停、満場一致による憲法の承認に努めた。しかし彼自身は連邦憲法に満足せず、自邦の急進憲法を支持した。1790年4月17日フィラデルフィアで死去。彼の実際的性格と現実的考え方は『自伝』によく表れており、代表的アメリカ人といわれるゆえんである。
[白井洋子]
『松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』(岩波文庫)』
アメリカのリズム・アンド・ブルース(R&B)、ソウル、ゴスペル歌手、ピアノ奏者。テネシー州メンフィス生まれ。父クラレンス・L・フランクリンClarence L. Franklin(1915―1984)はバプティスト派の有名な牧師。5歳のときに父親が教会を設立したデトロイトに移住。8歳から父にピアノを学ぶ。姉のアーマErma(1938―2002)、妹のキャロリンCarolyn(1946―1988)とともに教会でゴスペルを歌い、14歳で初録音。1960年ニューヨークに行き、名プロデューサーのジョン・ハモンドJohn Hammond(1910―1987)に認められてコロンビア・レコードと契約、同年秋に『今日ブルースを歌う』Today I Sing the Bluesがヒットする。ジャズやポップスも録音して数曲のヒット曲を出すが、1966年アトランティック・レコードに移籍してからR&B歌手としての実力を発揮、「クイーン・オブ・ソウル(ソウル・ミュージックの女王)」とよばれる大スターになった。
グラミー賞の受賞歴は、1967年度R&B録音賞と最優秀R&B女性歌唱賞を受賞したヒット曲『リスペクト』Respectから、ゴスペル・アルバム『ワン・ロード、ワン・フェイス、ワン・バプティズム』One Lord, One Faith, One Baptismでの1988年度最優秀ソウル・ゴスペル女性歌唱賞受賞まで計15回に上る。これは全分野を通じて女性アーティストのグラミー賞最多受賞記録である。映画『マルコムX』(1992)のサウンド・トラックで歌ったダニー・ハサウェイのカバー曲『いつの日か私たちはみんな自由になる』Someday We'll All Be Freeが評判になり、同サウンド・トラックは1993年度グラミー賞最優秀R&B女性歌唱賞にノミネートされた。一方、映画『ブルース・ブラザーズ』(1980)ではウェイトレス役を好演、続編の『ブルース・ブラザーズ2000』(1998)にも出演した。
[青木 啓]
『Aretha Franklin, David Ritz:Aretha;From These Roots(1999, Random House)』▽『Mark Bego:Aretha Franklin;The Queen of Soul(2001, Da Capo Press)』
イギリスのX線結晶学者。ケンブリッジ大学で学び、パリでの研究ののち、キングズ・カレッジのウィルキンズのもとで、DNA(デオキシリボ核酸)のX線結晶学的研究に取り組んだ。DNAの繊維は水分含量により結晶型(A)と濡(ぬ)れた型(B)の2種類のX線図を生じることをみいだし、二つの型がはっきり区別できるよい写真を撮るのに成功した。とくにB型については、1953年、螺旋(らせん)構造であり、その螺旋は34オングストロームで1回転し、その間に10個の塩基を含むこと、またリン酸基の骨格は外側に、したがって塩基は内側にあるなど、重要な知見を含むX線図を得て、J・D・ワトソンとクリックによるDNA分子モデル作成を導いた。のちバークベック・カレッジに移り、タバコモザイクウイルスの構造を研究した。
[石館三枝子]
『アン・セイヤー著、深町真理子訳『ロザリンド・フランクリンとDNA――ぬすまれた栄光』(1979・草思社)』▽『シャロン・バーチュ・マグレイン著、中村友子訳『お母さん、ノーベル賞をもらう――科学を愛した14人の素敵な生き方』(1996・工作舎)』▽『ウラ・フェルシング著、田沢仁・松本友孝訳『ノーベル・フラウエン――素顔の女性科学者』(1996・学会出版センター)』
アメリカ合衆国の黒人歴史家。オクラホマ州のレンティスビルに生まれ、10歳のとき付近のタルサに移り住む。最初は父のあとを継いで弁護士志望だったが、フィスク大学の学生時代に歴史研究に興味を抱いた。1935年同大学を卒業、ハーバード大学大学院に進み、1936年に修士号、1941年に博士号を取得した。彼の歴史学の特色は、フランクリン以前の黒人歴史家が概して「黒人史の歴史家」だったのに比べて、黒人史を広くアメリカ史の全歴史過程のなかに正当に位置づけ、同時に黒人史の視点からアメリカ史、とりわけ南部史の科学的解明に貢献したことにある。フィスク大学、ハワード大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1964年から16年間シカゴ大学教授、ついでデューク大学教授を務めたり、アメリカ黒人の生活・歴史研究協会、南部歴史学協会、アメリカ歴史家協会、アメリカ歴史学協会などの会長を歴任したのは、このような彼の学問的立場と無関係ではない。膨大な数にのぼる諸著作のなかで、日本で翻訳出版されているものに次の2冊がある。From Slavery to Freedom:A History of Negro Americans(井出義光他訳『アメリカ黒人の歴史――奴隷から自由へ』1978・研究社出版)、Race and History:Selected Essays, 1938―1988(本田創造監訳『人種と歴史』1993・岩波書店)。また社会的諸活動の一環としては、1997年に設けられたクリントン大統領の諮問機関で7人の専門家からなる人種関係委員会の委員長を務めた。外国の大学を含めて授与された名誉学位の数は100を超える。
[本田創造]
『本田創造著『アメリカ南部奴隷制社会の経済構造』(1964・岩波書店)』▽『本田創造著『アメリカ黒人の歴史 新版』(岩波新書)』
カナダ、ノースウェスト・テリトリーズおよびヌナブート・テリトリーにまたがる地区。北米大陸の最北部であるカナダ北極海諸島(バフィン島を含む)、ブーシア、メルビル両半島を含む地域をさす。面積約142万2500平方キロメートル。人口約7000。うち77%はイヌイットとアメリカ先住民で、多くは狩猟生活を営んでいる。1895年に地区が発足し、1897年に領域が確定した。この地域は戦略的に重要で、飛行場、測候所などが設けられている。北西航路発見者フランクリンSir John Franklin(1786―1847)を記念して命名された。
[山下脩二]
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1706~90
18世紀の代表的アメリカ人。新聞発行,科学的発明,学問振興,政治外交など多方面に活躍した。ボストンの貧しい職人の子に生まれ,フィラデルフィアで印刷出版業者として成功し,特に1732年から57年まで発行した『貧しいリチャードの暦』はユーモアをまじえた実用的処世訓の掲載によって好評を博した。彼はまた種々の科学的実験や発明を行い,アメリカ哲学協会設立,図書館や高等教育機関の創立など文化事業に貢献した。独立戦争中はフランスにおもむいて外交交渉に活躍し,憲法制定会議には最長老として出席した。『フランクリン自伝』は有名。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…州都イェローナイフ。カナダ全土の3分の1余りを占め,三つの行政区,マッケンジーMackenzie,キーウェーティンKeewatin,フランクリンFranklinに分かれる。面積337万9683km2,人口6万5800(1995)。…
…強大な中央集権国家フランスにおいても,たとえばボルドーのアカデミーと《法の精神》の著者モンテスキューとの結びつきはきわめて重要である。アメリカ合衆国では,植民地時代の1743年にすでにB.フランクリンがフィラデルフィアにアメリカ哲学協会American Philosophical Societyを設立し,建国後の80年にはボストンでアメリカ学芸アカデミーAmerican Academy of Arts and Sciencesが発足した。 フランス大革命に際して国民公会は〈民主化〉のたてまえから,1793年に国内のアカデミーを廃止したが,2年後にフランス学士院Institut de Franceが五つのアカデミーを擁して発足,アカデミーは事実上の復活を見た。…
… 18世紀になるとニューイングランドでは教会の権威が弱まってきたが,その中で宗教の再興をはかろうとしたエドワーズは《意志の自由について》(1754)などの神学的著述によって気を吐いた。しかしこの時代を引っ張ったのは,合理主義の精神に実用性と政治性を加え,文学的にもある種の結実を見せたフランクリンであろう。その《自伝》(1771‐89執筆,1818刊)は,これまで支配的であったニューイングランドの宗教的伝統を日常的モラルに転化し,自己を例にして人間の可能性を語ったところに意義がある。…
…ガラスのコップや水盤などの縁を濡れた指でこすって発音させる楽器の一種。B.フランクリンが1761年,水盤を並べてペダルで回す機構を考案し,実用化したものが代表的。透き通る甘い音色で,18世紀後半から19世紀初頭の西欧で流行した。…
… このころになると,摩擦起電機と蓄電器とを使ったさまざまの静電気学的実験が,初めは宮廷で,後には民間でも一種の見世物として大いに流行した。たとえば,B.フランクリンが電気学の研究に志したのも,そのような電気実験の興行を見たのがきっかけであった。また,電気的衝撃を医療に用いる試みもこのころいくつか行われている。…
…18世紀初頭以降はイギリス伝道協会の手で,教区図書館のため書物が送られた。また労働者がみずからの資力で維持し,自己啓発を図る組合図書館も次々と設立されるが,なかでもB.フランクリンが主導的役割を果たしたフィラデルフィア・ライブラリー・カンパニー(1731設立)は近代公共図書館の原型として高く評価される。 17世紀の後半から18世紀の終りまでは,自然と社会に対して人間の目が激しく注がれる時代であった。…
…イギリス,フランス両国と比べて最も大きな相違はこの点であり,奴隷制廃止はアメリカの場合いっそう困難な状況にあったといえる。 植民地時代からクエーカー教徒をはじめ宗教的な立場から奴隷制に反対する気運はあったが,すべて個人的運動にとどまり,本格的な組織ができたのは1775年で,B.フランクリン指導のもとでフィラデルフィアに結成された奴隷制反対協会が初めである。それから18世紀末までの間に,南部の一部をも含む8州に奴隷制反対協会がつくられ,94年には各代表がフィラデルフィアに集まって会議を行った。…
…アイビー・リーグの一つ。1740年設立の慈善学校をもとに,B.フランクリンの援助を得て,植民地時代の大学としては初めての無宗派大学として創設され,55年,フィラデルフィア大学College and Academy of Philadelphiaとして勅許状を得た(現大学名は1791年以降)。以来この大学は実利的,現世的で自由主義的な教育方針のもとに,教育・研究の近代化の先駆けとなり,伝統的な古典科目に加えて,現代言語,物理学,数学,経済学などをアメリカでは早期にカリキュラムにとり入れた。…
…図1‐cのごとく対角線に平行な汎対角線(例えば14+16+23+5+7)がすべて定数65となるものを完全方陣という。このほかに八方陣で示すように相結,対称四和,フランクリン型などの性質がある。このようにいろいろの性質があるから作り方は一様でない。…
※「フランクリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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