フランクリン(読み)ふらんくりん(英語表記)John Hope Franklin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランクリン」の意味・わかりやすい解説

フランクリン(Benjamin Franklin)
ふらんくりん
Benjamin Franklin
(1706―1790)

アメリカの政治家、印刷業者、著述家、発明家、科学者。ろうそく製造職人の子として1月17日ボストンに生まれる。12歳で兄の経営する印刷所に年季奉公に入り、そこで発行する新聞『ニューイングランドクーラント』に匿名で寄稿するなど文章の練磨に努めた。17歳のとき、印刷工の職を求めてフィラデルフィアに移った。1729年、すでに発行されていた『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買い取り、1730年には独立してこの新聞の発行にあたった。同年、デボラ・リードDeborah Read(1708―1774)と結婚。1732年から約25年間、リチャード・ソーンダーズの名前で暦を出版、一般市民に勤勉と節約の教訓を諺(ことわざ)風に説いた。これは『貧しきリチャードの暦』として有名になった。また、道路の舗装と清掃、街灯の改善、消防組合の組織など、市民生活の向上に貢献した。1731年会員制貸出し図書館、1743年アメリカ哲学協会、1751年貧民救済病院および大学(後のペンシルベニア大学)の設立に努めた。1736~1751年植民地議会書記、1751~1764年議員、1737~1753年フィラデルフィア郵便局長、1753~1774年植民地郵政長官の公職についた。

 科学技術にも深い関心を寄せており、その方面の業績としては、オープン・ストーブ(フランクリン・ストーブ)の発明(1742)、地震の原因の研究、北東風の起源の研究(暴風が動く風系であることを明らかにした)、海流の研究(帆船による大西洋の経済運航に役だった)、雷の電気および避雷針の研究(1752年に凧(たこ)の実験によって稲妻が電気放電であることを明らかにした)などがある。

 1754年、オルバニー会議にペンシルベニア代表として出席、最初の植民地連合案を起草したが、これは、本国のイギリス政府と各植民地議会の賛同を得られず実施に至らなかった。1755年ブラドックEdward Braddock(1695―1755)将軍のオハイオ遠征を援助、自らも義勇民兵軍を組織して戦った。1757年植民地議会代表として防衛、課税問題折衝のため本国に派遣された。1764年ペンシルベニア王領植民地化の請願のため再度渡英したが、おりしも植民地では1765年に本国議会を通過した印紙法への反対運動が起こり、この撤廃に一役買った。1775年植民地の第2回大陸会議代表に選ばれ、帰国するときには本国との和解への望みを捨て、以後アメリカの独立に尽力した。1776年の「独立宣言」の起草委員となり、同年12月大陸会議代表としてフランスに渡り同盟を結び、1783年のパリ条約締結にはアメリカ代表の一人に選ばれた。この在任中、彼はパリで、世界で最初のころの気球の上昇を見ている。また、1783年に険悪な天気が続いたときは、これがアイスランドの火山噴火の結果おこったことを推論し、気候変化と火山活動を結び付けた世界で最初の論文となった。

 1785年ペンシルベニア行政長官、1787年連邦憲法会議代表となり、会議の調停、満場一致による憲法の承認に努めた。しかし彼自身は連邦憲法に満足せず、自邦の急進憲法を支持した。1790年4月17日フィラデルフィアで死去。彼の実際的性格と現実的考え方は『自伝』によく表れており、代表的アメリカ人といわれるゆえんである。

[白井洋子]

『松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』(岩波文庫)』


フランクリン(Aretha Franklin)
ふらんくりん
Aretha Franklin
(1942―2018)

アメリカのリズム・アンド・ブルース(R&B)、ソウル、ゴスペル歌手、ピアノ奏者。テネシー州メンフィス生まれ。父クラレンス・L・フランクリンClarence L. Franklin(1915―1984)はバプティスト派の有名な牧師。5歳のときに父親が教会を設立したデトロイトに移住。8歳から父にピアノを学ぶ。姉のアーマErma(1938―2002)、妹のキャロリンCarolyn(1946―1988)とともに教会でゴスペルを歌い、14歳で初録音。1960年ニューヨークに行き、名プロデューサーのジョン・ハモンドJohn Hammond(1910―1987)に認められてコロンビア・レコードと契約、同年秋に『今日ブルースを歌う』Today I Sing the Bluesがヒットする。ジャズやポップスも録音して数曲のヒット曲を出すが、1966年アトランティック・レコードに移籍してからR&B歌手としての実力を発揮、「クイーン・オブ・ソウル(ソウル・ミュージックの女王)」とよばれる大スターになった。

 グラミー賞の受賞歴は、1967年度R&B録音賞と最優秀R&B女性歌唱賞を受賞したヒット曲『リスペクトRespectから、ゴスペル・アルバム『ワン・ロード、ワン・フェイス、ワン・バプティズム』One Lord, One Faith, One Baptismでの1988年度最優秀ソウル・ゴスペル女性歌唱賞受賞まで計15回に上る。これは全分野を通じて女性アーティストのグラミー賞最多受賞記録である。映画『マルコムX』(1992)のサウンド・トラックで歌ったダニー・ハサウェイのカバー曲『いつの日か私たちはみんな自由になる』Someday We'll All Be Freeが評判になり、同サウンド・トラックは1993年度グラミー賞最優秀R&B女性歌唱賞にノミネートされた。一方、映画『ブルース・ブラザーズ』(1980)ではウェイトレス役を好演、続編の『ブルース・ブラザーズ2000』(1998)にも出演した。

[青木 啓]

『Aretha Franklin, David Ritz:Aretha;From These Roots(1999, Random House)』『Mark Bego:Aretha Franklin;The Queen of Soul(2001, Da Capo Press)』


フランクリン(Rosalind E. Franklin)
ふらんくりん
Rosalind E. Franklin
(1920―1958)

イギリスのX線結晶学者。ケンブリッジ大学で学び、パリでの研究ののち、キングズ・カレッジのウィルキンズのもとで、DNA(デオキシリボ核酸)のX線結晶学的研究に取り組んだ。DNAの繊維は水分含量により結晶型(A)と濡(ぬ)れた型(B)の2種類のX線図を生じることをみいだし、二つの型がはっきり区別できるよい写真を撮るのに成功した。とくにB型については、1953年、螺旋(らせん)構造であり、その螺旋は34オングストロームで1回転し、その間に10個の塩基を含むこと、またリン酸基の骨格は外側に、したがって塩基は内側にあるなど、重要な知見を含むX線図を得て、J・D・ワトソンとクリックによるDNA分子モデル作成を導いた。のちバークベック・カレッジに移り、タバコモザイクウイルスの構造を研究した。

[石館三枝子]

『アン・セイヤー著、深町真理子訳『ロザリンド・フランクリンとDNA――ぬすまれた栄光』(1979・草思社)』『シャロン・バーチュ・マグレイン著、中村友子訳『お母さん、ノーベル賞をもらう――科学を愛した14人の素敵な生き方』(1996・工作舎)』『ウラ・フェルシング著、田沢仁・松本友孝訳『ノーベル・フラウエン――素顔の女性科学者』(1996・学会出版センター)』


フランクリン(John Hope Franklin)
ふらんくりん
John Hope Franklin
(1915―2009)

アメリカ合衆国の黒人歴史家。オクラホマ州のレンティスビルに生まれ、10歳のとき付近のタルサに移り住む。最初は父のあとを継いで弁護士志望だったが、フィスク大学の学生時代に歴史研究に興味を抱いた。1935年同大学を卒業、ハーバード大学大学院に進み、1936年に修士号、1941年に博士号を取得した。彼の歴史学の特色は、フランクリン以前の黒人歴史家が概して「黒人史の歴史家」だったのに比べて、黒人史を広くアメリカ史の全歴史過程のなかに正当に位置づけ、同時に黒人史の視点からアメリカ史、とりわけ南部史の科学的解明に貢献したことにある。フィスク大学、ハワード大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1964年から16年間シカゴ大学教授、ついでデューク大学教授を務めたり、アメリカ黒人の生活・歴史研究協会、南部歴史学協会、アメリカ歴史家協会、アメリカ歴史学協会などの会長を歴任したのは、このような彼の学問的立場と無関係ではない。膨大な数にのぼる諸著作のなかで、日本で翻訳出版されているものに次の2冊がある。From Slavery to Freedom:A History of Negro Americans(井出義光他訳『アメリカ黒人の歴史――奴隷から自由へ』1978・研究社出版)、Race and History:Selected Essays, 1938―1988(本田創造監訳『人種と歴史』1993・岩波書店)。また社会的諸活動の一環としては、1997年に設けられたクリントン大統領の諮問機関で7人の専門家からなる人種関係委員会の委員長を務めた。外国の大学を含めて授与された名誉学位の数は100を超える。

[本田創造]

『本田創造著『アメリカ南部奴隷制社会の経済構造』(1964・岩波書店)』『本田創造著『アメリカ黒人の歴史 新版』(岩波新書)』


フランクリン(カナダ)
ふらんくりん
Franklin

カナダ、ノースウェスト・テリトリーズおよびヌナブート・テリトリーにまたがる地区。北米大陸の最北部であるカナダ北極海諸島(バフィン島を含む)、ブーシア、メルビル両半島を含む地域をさす。面積約142万2500平方キロメートル。人口約7000。うち77%はイヌイットとアメリカ先住民で、多くは狩猟生活を営んでいる。1895年に地区が発足し、1897年に領域が確定した。この地域は戦略的に重要で、飛行場、測候所などが設けられている。北西航路発見者フランクリンSir John Franklin(1786―1847)を記念して命名された。

[山下脩二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランクリン」の意味・わかりやすい解説

フランクリン
Franklin, Aretha

[生]1942.3.25. テネシー,メンフィス
[没]2018.8.16. ミシガン,デトロイト
アメリカ合衆国の歌手。フルネーム Aretha Louise Franklin。1960年代ソウル・ミュージックの黄金時代を築いた。母はゴスペル歌手(→ゴスペル・ソング),父はデトロイト市内の教会の牧師で,全米に知られた説教師でもあった。6歳のときに両親が離婚。10代の初めから父の伝道活動に同行して全米各地の都市で賛美歌をうたい,天才歌手と称された。18歳のとき,父の賛同を得て宗教音楽から一般音楽へ転向,ニューヨーク市に移り,コロムビア・レコードからデビュー。1966年アトランティック・レコードに移籍し,ルーツであるゴスペルやブルースに立ち戻って飛躍的な成功を収めた。1967年『貴方だけを愛して』I Never Loved a Man(the Way I Love You)が初のミリオンセラーとなった。おりしも公民権運動が高まり,ブラック・アーバン音楽(→黒人音楽)が人気を得た時代であった。フランクリンは「ソウルの女王」とたたえられ,オーティス・レディングのカバー曲『リスペクト』Respect(1967)や自作の『シンク』Think(1968)など次々とヒット曲を発表した。1972年の『アメイジング・グレイス』Amazing Graceのカバーは,時代をこえたゴスペルの傑作の一つに数えられる。1970年代後半はヒットに恵まれなかったが,1982年の『ジャンプ・トゥー・イット』Jump to Itでトップ歌手に返り咲いた。1987年,女性アーティストとして初めてロックの殿堂入りを果たした。

フランクリン
Franklin, Benjamin

[生]1706.1.17. ボストン
[没]1790.4.17. フィラデルフィア
アメリカの文筆家,出版業者,発明家,科学者,外交官,政治家。貧家の 17人兄弟の 15番目に生れ,印刷工になった。 1721年新聞『ニューイングランド・クーラント』紙を創刊。 31年フィラデルフィア読書愛好会を設立,49年にはフィラデルフィア・アカデミー (ペンシルバニア大学) の創設にも協力した。 46~47年電気の研究を行い,雷が電気現象であることを証明し,49年避雷針を考案した。また,正,負の帯電状態を電気流体の過不足として説明した。 51年には有名な『電気に関する実験と観察』 Experiments and Observations on Electricityという書簡集を刊行。 54年オールバニ連合案を立案 (→オールバニ会議 ) 。 64~75年ペンシルバニアの代理人としてイギリスに駐在,65年イギリス議会で印紙税法に対する植民地人の立場を証言。 75年帰国,76年経済・軍事援助を求めるために大陸会議がフランスに派遣した使節団に加わってパリにおもむき,フランスとアメリカ植民地との同盟条約の締結に成功した。 83年パリ条約に調印後もフランスとアメリカとの通商条約の締結に尽力。 85~88年ペンシルバニア議会の議長をつとめた。 87年合衆国憲法制定会議に出席し,対立点の妥協に尽力した。『自叙伝』 Autobiographyは有名。

フランクリン
Franklin, Sir John

[生]1786.4.16. リンカーンシャー,スピルズビー
[没]1847.6.11.
イギリスの北極探検家。 14歳で海軍に入る。 1818年北極探検に参加。 19年カナダ北部で陸路の北極探検を指揮。 25年第2回北極探検に出発し,約 3000kmにわたって北海岸を調査。 29年ナイト爵を授けられた。 36~43年タスマニア総督。 45年北西航路を求めて出発したが,行方不明となり,探検史上まれにみる 134名全員遭難という惨事を引起した。 59年死亡が確認された。フランクリン海峡は彼の名にちなみ命名。主著"Narrative of a Journey to the Shores of the Polar Sea" (1823) 。

フランクリン
Franklin, Frederic

[生]1914.6.13. イギリス,リバプール
[没]2013.5.4. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
イギリスの舞踊家。 1931年カジノ・ド・パリでデビュー,35~37年マルコワ=ドーリン・バレエ団を経て,38年バレエ・リュス・ド・モンテカルロに入り,44年メートル・ド・バレエとなる。 A.マルコワ,A.ダニロワらのパートナーをつとめた。 53年 M.スラベンスカとともに来日し,『欲望という名の電車』を踊って好評を博した。ワシントン・バレエ団,アメリカン・バレエ・シアターなどで要職についたこともある。

フランクリン
Franklin, William Buel

[生]1823.2.27. ペンシルバニア,ヨーク
[没]1903.3.8. コネティカット,ハートフォード
アメリカの軍人。南北戦争の北軍の勇将。陸軍士官学校卒業,アメリカ=メキシコ戦争に参加。南北戦争ではブルランの戦いに参加したあとポトマック軍に配属され,対リッチモンド作戦 (1862) に准将として出陣,G.マクレラン将軍の退却を巧みに補う活躍をしたが,のちフレデリックスバーグの戦闘の不手ぎわを A.バーンサイドに非難された。 1866年陸軍を辞し,ハートフォードでコルト特許火器製造会社を経営した。

フランクリン
Franklin

アメリカ合衆国,ペンシルバニア州北西部にある町。ピッツバーグの北約 100kmに位置する。フレンチ川とアレゲニー川の合流点にあり,戦略上の要衝にあたるため,1750年以降フランスとイギリス (のちアメリカ合衆国) がしばしば争い,それぞれの砦が築かれた。地名は B.フランクリンにちなむ。 1859年石油採掘が始り,最盛期には 200万バーレルを産出し,20世紀になって石油採掘の中心が南西部に移るまでは,アメリカ合衆国における産油,製油の中心地であった。人口 7329 (1990) 。

フランクリン
Franklin, William

[生]1731
[没]1813.11.16.
イギリスのアメリカ植民地総督。 B.フランクリンの息子。 1757年父とイギリスに渡って教育を受け,63年ニュージャージー植民地総督に任命された。 65年の印紙税法をめぐってイギリス側の立場を取ったため,植民地人とも父とも仲たがいした。独立戦争中革命協議会によって逮捕され,のち 78年にイギリスに行き永住した。

フランクリン
Franklin, James

[生]1697
[没]1735
アメリカの印刷業者。 B.フランクリンの兄。 1721~26年に"New England Courant"紙,1732年"Rhode Island Gazette"紙を発刊した。

フランクリン
Franklin, Edward Curtis

[生]1862.3.1. ケンタッキー,ゲリ
[没]1937.2.13. カリフォルニア,パロアルト
アメリカの化学者。カンザス大学,スタンフォード大学教授。液体アンモニア中における各種の物質の溶解度,導電率,蒸気圧などについて測定・研究した。

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