バクティ
bhakti[サンスクリツト]
インドの宗教,とくにヒンドゥー教における重要概念。これは,最高の人格神に,肉親に対するような愛の情感を込めながらも絶対的に帰依することであり,ふつう〈信愛〉と訳されている。ベーダの祭式は,王侯や司祭階級バラモンたちの独占するところであり,またウパニシャッドに説かれる自己と宇宙に関する深遠な洞察は,知的エリートにのみ可能であった。バクティの概念を前面に打ち出したのは《バガバッドギーター》が最初であるが,ここにようやく,ベーダ以来の正統的宗教が一般民衆に開かれたものになり,ヒンドゥー教が急速に発展する基盤が形成されたのである。バクティは,とくに南インドのビシュヌ派諸派の間で重要視された。寺から寺へ渡り歩き,バクティにあふれた宗教詩を神像の前で歌い上げた,アールワールと呼ばれる神秘主義的詩人たちの言説は,やがて神学的に整備され,ラーマーヌジャによって一応の哲学的な完成を見た。彼によれば,個我が解脱するためにはバクティがなければならない。神に絶対的に帰依するとき,神の恩寵によって無明の闇が払われるのである。そのバクティは,聖典に説かれる真理の知識に基づき,宗教的なもろもろの義務を遂行することによって得られるのである。ラーマーヌジャのバクティは主知主義的な傾向が強く,必ずしも一般民衆に開かれたものではなかった。ただし,彼はバクティと類似したプラパッティという道も示している。これはただひたすら神の前に身を投げ出すことを意味し,バクティを行うことが不可能な女性,下層階級が採るべき道であるとされている。この解釈をめぐり,さまざまな論争が起こったが,そのなかでも,人間の努力の価値を否定し,ただひたすら神に身をゆだねること,つまりプラパッティこそがバクティにほかならないとする考えがしだいに強くなり,中世インドのいわゆるバクティ運動を濃厚に彩ることになった。
執筆者:宮元 啓一
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バクティ
ばくてぃ
bhakti
ヒンドゥー教を著しく特色づける信心の形態で、信愛とか絶対的帰依(きえ)などと訳されている。仏教などの信心と異なり、このバクティは、食事を分かち合う(バジュ)夫婦・肉親同士の無条件な愛をその起源としている。神にバクティを捧(ささ)げ、その恩寵(おんちょう)を受けて解脱(げだつ)に至るとする考えが最初に明確に説かれたのは、『バガバッド・ギーター』においてである。しかし、ここでは、バクティは解脱に至る三つの道のうちの一つにすぎなかった。バクティを中心に据えてそれを歌い上げたのは、ビシュヌ派のプラーナ聖典『バーガバタ・プラーナ』である。ここで歌われたバクティは、主として南インドで歓迎され、アールワールとよばれるビシュヌ派の一群の吟遊詩人たちの熱烈な歌と行動によって急速に広められ、ついには、12世紀の学匠ラーマーヌジャの手によって、その哲学、実践体系の頂点に置かれるようになった。しかしそれはまた、バラモンのような上級カーストにしか望めないものでもあったため、その後、改革運動が起こり、真に民衆のレベルでのバクティが確立された。このバクティ運動がラーマーナンダによって北インドに伝えられるや、爆発的な流行をよんだ。北インドでは、大別して、カビールのように、無属性(無形象)の神にバクティを捧げる流派と、スールダースなどのように、有属性の神にバクティを捧げる流派に分かれる。クリシュナ崇拝の大流行は後者に属する。
[宮元啓一]
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バクティ
bhakti
中世ヒンドゥー教を代表する信仰形態の一つ。神に対する敬愛による絶対的,献身的な拝礼,信仰を特徴とする。神の名を一心に称えることによってのみ解脱を得ることができるとする教えは,11世紀頃から,まず南インドで興り,北インドにまで及ぶが,これらを総称してバクティ派といい,その信仰者をバクタと呼ぶ。その初期の代表者はラーマーヌジャで,南インドのビシュヌ派の系統をひきその信者はシュリー・バイシュナバ派と呼ばれた。南インドに興ったバクティ信仰はベンガル地方に広がり,12世紀にはジャヤデーバが『ギータ・ゴービンダ』を著わし,クリシュナ=ラーダー崇拝を広めた。その後,この派には有名なチャイタニヤが出現し,神に対する愛を歌った賛歌によって多くの信者を獲得した。このクリシュナ=ラーダー信仰に対して,北インドを中心として広まったのがラーマーナンダによって始められたラーマ崇拝である。彼のあと,北インドには有名なカビールが現れて,イスラムとヒンドゥー教の神をあわせて同時に崇拝する特異な信仰形態を発展させた。彼の教団はカビール・パントと呼ばれた。この系統にはのちに『ラームチャリットマーナス』の著者として有名なトゥルシーダースが出た。これらのバクティ諸派とともに,特徴ある宗派をなしているのがマハラシュトラ・バクティ派で,マラータの土着神ビトーバーに対する絶対的愛と献身を特色とし,ジュニャーナデーバをはじめとして,エークナート,トゥカーラーム,ラームダースなどの聖者を生んだ。
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バクティ
フランスの振付家モーリス・ベジャールによるバレエ(1968)。原題《Bhakti》。初演は20世紀バレエ団。神々に扮したダンサーがインドの伝統音楽に合わせて踊る作品。
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世界大百科事典(旧版)内のバクティの言及
【インド文学】より
… 多数の近代語による文学が並存するインドにおける注目すべき特徴は,諸文学相互の影響関係である。古くは,タミル文学のアールワール(神秘的賛歌の吟唱者たち)の作品に盛られた思想と熱情が,バクティの運動の大きなうねりをおこして,北インドの諸文学のバクティ文学の形成に大きな刺激を与えたことがあり,19世紀の事例では,外界に接することの多いベンガル文学とマラーティー文学が新しい思潮と文芸を他に伝えた。このような影響・伝播は,時代が下るにつれて顕著となり,今日では民間の努力と政府(国立文学アカデミー,各州機関)の支援とにより,民族文学のすぐれた作品が他の民族語に翻訳され,一民族の作品を多くの民族が享受する機会が多くなってきている。…
【エークナート】より
…正規のサンスクリットの教育を受けたが,俗語マラーティーで《バガバッドギーター》の注釈書《ジュニャーネーシュワリー》を著した13世紀の宗教家ジュニャーネーシュワルに傾倒,同書の編纂に当たった。彼は,熱烈な一神教的な[バクティ](信愛)の念を歌い上げる宗教詩人として膨大な詩を作ったといわれるが,現存するものとしては,聖典《バーガバタ・プラーナ》の第11章への注釈書,《ラーマーヤナ》の精神を歌った《バーバールタ・ラーマーヤナ》がある。いずれもマラーティー語で書かれている。…
【カビール】より
…ただ彼は,だからといってヒンドゥー教に改宗したわけではない。彼は,唯一の神への[バクティ](絶対的信愛)を基軸にして,ヒンドゥー教とイスラムを批判的に統合しつつ,まったく独自の一神教を唱えた,いわば宗教改革者であった。彼によれば,さまざまな名称をもって呼ばれても,実は神はただ一つであり,しかも,天や寺院などではなく,ほかならぬ各人の心の中にのみ存在する。…
【ナーヤナール】より
…アディヤールadyārとも称せられる。彼らは,シバ派の聖典であるアーガマを研究,解説する神学者ではなく,叙事詩(《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》)やプラーナなど,一般民衆にも親しみのある文献を典拠にして,神に対する絶対的な信愛(バクティ)の情感を吐露する熱烈な宗教詩人であった。彼らは寺院から寺院へと渡り歩きながら,シバ神やその神妃ウマー女神などの神像の前でタミル語の賛歌を歌い上げ,しばしば陶酔状態で踊ったりして,一般の民衆にシバ教の神髄を伝え広めた。…
【ビシュヌ派】より
…これらすべては,六つの属性(叡智と5種の力)をそなえたビシュヌ(バースデーバ)にほかならないが,そのうちの二つずつが顕現してサンカルシャナなどになるとされる。この派は,南インドのタミル地方で,[バクティ](神への絶対的な帰依,信愛)の念にあふれた宗教詩を熱烈に歌いながら寺から寺へと渡り歩いたアールワールと呼ばれる一連の神秘主義的詩人たちの活動を基盤にして,シュリーバイシュナバ(シュリーとビシュヌ)派を生み出した。この派からは,有名な哲学者[ラーマーヌジャ]が現れ,この派の教義をベーダーンタ哲学として整備し,シャンカラの不二一元論に対抗して被限定者不二一元論を唱導し,バクティを解脱への道の最高の手段とした。…
【マドバ】より
…この無知を滅しうるのは神の恩寵のみである。恩寵を得るには,神への帰依,信愛([バクティ])によらなければならない。神は信愛するものに恩寵を与えるが,直接神に近づくことはできない。…
【ラーマーヌジャ】より
…処女作は,ウパニシャッドの趣旨を明らかにしようとした《ベーダールタ・サングラハVedārtha‐saṃgraha》であるといわれ,主著は《ブラフマ・スートラ》に対する最初の宗派的色彩をもった注釈《シュリー・バーシャŚrī‐bhāṣya》である。10世紀になると,南インドにおいてヒンドゥー教ビシュヌ派の一派シュリーバイシュナバ派のアラギヤと称する学者たちの間で,信愛(バクティ)を強調する大衆的なナーラーヤナ崇拝を,ベーダーンタ哲学によって哲学的に基礎づけようとする動きがおこった。この試みに最初に成功したのがラーマーヌジャであった。…
※「バクティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」