ヒンドゥー教の神。ビシュヌ神の化身(アバターラavatāra)の一人で,ラーマ王子とともにインドの民衆にこよなく愛され続けてきた英雄神である。クリシュナは前7世紀以前に実在した人物であるとみなされ,遊牧に従事していたヤーダバ族Yādavaの一部ブリシュニ族に生まれたという。バーラタ(バラタ)族の大戦争に参加しパーンダバ軍を助けたことは,大叙事詩《マハーバーラタ》,およびその一部であるヒンドゥー教の代表的聖典《バガバッドギーター》によってうかがい知ることができる。やがてクリシュナはヤーダバ族の奉ずる神バガバットと同一視され,さらに太陽神ビシュヌの化身とみなされるようになり,ビシュヌ教のバーガバタ派の最高神となった。
後代に発達したクリシュナ伝説によれば,ビシュヌは暴虐な王の姿をとって地上に出現した悪魔たちを成敗するために,ヤーダバ族のバスデーバVasudevaとその妻デーバキーの息子クリシュナとして生まれた。デーバキーの兄のカンサの迫害を恐れ,クリシュナは兄のバララーマBalarāmaとともに牛飼村の長ナンダとその妻ヤショーダーにより養育されたが,少年期より奇跡を現じて幾多の悪魔たちを殺し,ついには悪王カンサを殺した。英雄クリシュナはまた牧女たちのあこがれの的であった。特に牧女ラーダーRādhāは,牧歌的抒情詩《ギータゴービンダ》により,彼の愛人として有名である。彼の正妻はルクミニーであり,彼女の産んだプラデュムナは愛神カーマの化身とされる。クリシュナは猟師に急所であるかかとを射られて悲劇的な最期をとげる。
執筆者:上村 勝彦
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もと「黒」を意味する形容詞で、ヒンドゥー教の二大神の一つ、ビシュヌの第8番目の化身として、もっともよく知られているが、クリシュナ伝説の成立過程はきわめて複雑で、これを体系的に論ずることは不可能に近い。『マハーバーラタ』、なかでも『バガバッド・ギーター』において、彼はパーンダバ軍に味方し、アルジュナ王子の御者として、ときには励まし、ときには奸策(かんさく)を与えて王子を戦勝に導いた。このクリシュナは、歴史的人物と思われ、古く遊牧に従事していた部族の一つであるブリシュニ人の英雄で、実践的な有神論を説いていたものが、死後神格化されて、ビシュヌの化身となったものと思われる。
これとは別に「プラーナ文献」において、彼はマドゥライ周辺にバースデーバの名で生を受け、幼時より怪童としてさまざまな奇蹟(きせき)を行い、悪王を誅(ちゅう)して人民を救った英雄として描かれる。また美貌(びぼう)の主で、婦人たちにこよなく愛され、夕べに横笛を奏じては牧女たちの恋情をかき立てた。彼の最愛の牧女ラーダーとの宗教的に高められた官能的な愛の叙情詩は、12世紀ベンガルの詩人ジャヤデーバの『ギータ・ゴービンダ』(牛飼いの歌)に美しく歌われている。
[原 實]
『上村勝彦著『インド神話』(1981・東京書籍)』
ヒンドゥー教の神。元来,北インドの牧畜の民ヤーダヴァ族の英雄神であった。『マハーバーラタ』において,戦いに勝利したパーンダヴァ5王子の友人,軍師として登場する。『バガヴァッド・ギーター』は彼が語った宗教詩。ここにおいて彼は崇高な神バガヴァッドとして登場する。彼をめぐる神話は『マハーバーラタ』の補遺をなす『ハリヴァンシャ』や『バーガヴァタ・プラーナ』において語られる。悪王などとして地上にやってきた魔族たちを成敗するため,ヴィシュヌがクリシュナとして牛飼いの家に生まれたとされる。12世紀の宗教叙事詩『ギータゴーヴィンダ』で牧女ラーダーとの恋物語が描かれ,彼へのバクティ崇拝はさらに広がり,ラーマと並び広く崇拝されている。
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…すなわち,10世紀から13世紀ごろまでのあいだにラージャスターニー語に基づく文語で,王侯の事績をたたえる叙事詩が多数編まれた。14世紀以降は,アワディー方言による恋愛物語と,同方言を文語化した言語によるラーマ信仰の叙事詩がつくられる一方,ブラジュ方言に基づく文語でクリシュナ信仰の抒情的な詩と技巧的な恋愛詩がよまれるようになった。そして19世紀中ごろからは,ムガル朝治下で広い地域に普及していたカリー・ボーリーKhaṛī Bolī方言が先行の諸文語の語彙をとりいれながら共通語となって,従来の韻文から散文を主とする近・現代文学を担うこととなった。…
…一般に一神教的な思想と多種多様な信仰形態を調和させ,特定の強力な神仏が種々に顕現するという形で,起源の異なる種々の神格を統一して特定の神仏に帰するという,諸信仰の習合の合理化として現れる。ヒンドゥー教信仰に現れるアバターラAvatāraの訳語として用いる場合は,本体の神は天上界にありつづけ,その体の一部だけを地上に降下させ,それが化身となって活動する――たとえば10の権化をもつとされるビシュヌの第8の権化クリシュナKṛṣṇa(〈黒〉の意)はビシュヌの黒い頭髪を地上に降下させたものとされる――という形で,本体と化身の関係を合理的に説明している観念であることに注意しなければならない。仏教ではとくに観音があらゆる地域を通じ,人々の危難に際しそれを救うにふさわしい姿で権化する者として信仰を集めた。…
…《マハーバーラタ》の中でも比較的早い時期に成立したとされ,1世紀ころの成立と考えられる。元来は,一部族の英雄神クリシュナを信仰する非バラモン的宗派,バーガバタ派の聖典であったとされる。バーガバタ派がクリシュナをビシュヌ神の権化の一つと位置づけることにより,正統バラモン文化の中に吸収され,重要な位置を占めるようになる過程で,その聖典も《マハーバーラタ》の一部として取り入れられた。…
…(1)バーガバタ派 最高神を〈バガバッドBhagavad〉の名で崇拝するためにこの名がある。この神は,具体的には,古くはバースデーバ,後にはクリシュナ,ないしビシュヌと称せられている。この派の成立をめぐる歴史的経過は相当に複雑であるが,おおよそ次のように考えられている。…
…人口3万7000(1981)。ヒンドゥー教の三大神のうち,守護神ビシュヌの第8番目の化身とされるクリシュナ神がこの地に現れ,数々の徳を施したとされる説話で有名である。町には数えきれないほど多くの大小の寺院が建立されている。…
…石材はごくわずかな例外を除いてすべて近郊のシークリーSīkrī産の黄白班のある赤色砂岩を用い,この独特の石質ゆえにマトゥラー作品であるか否かを容易に判定しうる。マトゥラーは東西通商路の要衝を占め,商業都市として繁栄したのみならず,仏教やジャイナ教が盛行し,ヒンドゥー教徒にとってはクリシュナの聖地とされる宗教都市でもあった。中世には造形活動が衰退したため,仏教とジャイナ教の遺品が多数を占めるものの,ヒンドゥー教のそれも無視できない。…
…同時期のムガル細密画の影響を無視できないが,主題,画法ともに大いに異なり,ラージプート絵画はヒンドゥー教ことにビシュヌ神信仰と深く結びついて展開した。最も好まれた主題は,若くて美しい牛飼いの青年クリシュナと乳しぼりの乙女ラーダーとの恋である。ビシュヌ神の化身であるクリシュナの伝説は《バーガバタ・プラーナ》に詳しく,12世紀末のジャヤデーバの《ギータゴービンダ(牛飼いの歌)》はクリシュナと牧女との恋を美しくうたい上げている。…
※「クリシュナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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