バレンボイム
ばれんぼいむ
Daniel Barenboim
(1942― )
イスラエルの指揮者、ピアノ奏者。両親はユダヤ系ウクライナ人で、ブエノス・アイレスに生まれた。初め父にピアノを学ぶ。10歳のときからザルツブルク、パリ、ローマに留学、マルケビッチ、E・フィッシャー、N・ブーランジェNadia Boulanger(1887―1979)などに師事、1950年代なかばからピアノ奏者として活動。62年イスラエルで指揮者としてデビュー、ロンドンでイギリス室内管弦楽団を指揮して名をあげ、世界各地の管弦楽団に客演。75~89年パリ管弦楽団音楽監督。91年シカゴ交響楽団音楽監督に就任、あわせて92年からベルリン国立歌劇場音楽総監督も務めている。1966年(昭和41)初来日。
ピアノと指揮を両立させてきた数少ない演奏家だが、1970年代後半からは指揮に重点を移し、可ならざるはなしといえるほど広いレパートリーをもち、それに磨きをかけ、深い表現力を具(そな)えるに至った。91年に自伝『A Life in Music』(邦訳『音楽に生きる』)を出版。2002年ベルリン国立歌劇場を率いて来日、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環(ゆびわ)』全曲公演を指揮して評価を高めた。
[岩井宏之]
『蓑田洋子訳『音楽に生きる――ダニエル・バレンボイム自伝』(1994・音楽之友社)』▽『吉田秀和著『吉田秀和全集13 音楽家のこと』新装復刊版(2001・白水社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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バレンボイム
Daniel Barenboim
生没年:1942-
アルゼンチン出身のピアニスト,指揮者。ユダヤ人の家系に生まれ,幼少の頃から家庭内で音楽に親しんだ。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院でピアノと指揮を学ぶ。さらにパリとローマに留学。初めピアニストとしてデビューし,1960年代になると指揮者としても活躍するようになる。情感の豊かな色彩的な音楽づくりに優れ,ベルリオーズ,サン・サーンス,ラベルらフランス近代音楽の演奏を得意とする。66年ピアニストとして初来日。75年パリ管弦楽団の音楽監督に就任し,80年には同管弦楽団を率いて来日した。
執筆者:後藤 暢子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「バレンボイム」の意味・わかりやすい解説
バレンボイム
アルゼンチン出身のピアノ奏者,指揮者。ウクライナ系ユダヤ人で,ブエノス・アイレス生れ。オーストリアのモーツァルテウム音楽院などに学んだ。E.フィッシャーらに師事し,フランス近代音楽の演奏を得意とする。1952年イスラエルへ移住し,1953年ピアノ奏者,1962年指揮者としてデビュー,1966年にはピアノ奏者として初来日した。1975年‐1987年パリ管弦楽団音楽監督を務め,1980年日本公演を行った。1987年パリ新オペラ座(オペラ・バスティーユ)音楽監督,1991年アメリカのシカゴ交響楽団音楽監督,1992年ベルリン州立歌劇場音楽監督。チェロ奏者J.デュ・プレは最初の妻。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内のバレンボイムの言及
【華僑】より
…これが史上明らかな華僑の大量発生の起源といわれている。元の末には中国の海賊が東南アジアの海上に勢力を張り,スマトラのパレンバンがその根拠地で在留中国人も数千家に上って,さながら独立国の観を呈したという。1405年(永楽3)から明の成祖が数回にわたって鄭和を南海遠征に派遣したのは,これらの海賊を鎮定して政府による貿易独占を図るのが目的であった。…
※「バレンボイム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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