バンダラナイケ(読み)ばんだらないけ(英語表記)Solomon W. R. D. Bandaranaike

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バンダラナイケ」の意味・わかりやすい解説

バンダラナイケ
ばんだらないけ
Solomon W. R. D. Bandaranaike
(1899―1959)

スリランカ独立初期の政治家。植民地時代に宗主国イギリスに留学したのち、1925年に帰国し、スリランカ独立運動にセイロン国民会議派を通して参加した。1948年2月、スリランカ独立と同時にバンダラナイケは新しくスリランカ自由党を結成し、セイロン国民会議派から統一国民党へと連なる穏健路線に決別した。第3回総選挙(1956)の結果、自由党は圧勝し、バンダラナイケ新首相が誕生した。新首相は外交内政の両分野で画期的な方針を具体化し、スリランカ独立の土台を築いた。対外関係では従来の西側追従政策にかわって非同盟政策が採用され、スリランカの英軍基地は撤去された。内政面では、バスの国有化、コロンボ港の国有化と稲作保護法が続けざまに導入された。また、シンハラ語の公用語化が断行された。これらの革新的な諸政策は工業化の促進も含んでいたが、その「急進的」な政策の実践は国内に不満を残すことになり、1959年には首相の政策に危機感をもった仏教シンハラにより暗殺された。その死はインドのマハートマー・ガンディーの死に対比されている。バンダラナイケの死後、その妻シリマボ・バンダラナイケSirimavo R. D. Bandaranaike(1916―2000)が自由党の最高指導者として首相の座に2回(1960~1965、1970~1977)つき、亡夫の志を実現しようとした。その後、1994年11月二女のクマラトゥンガの大統領就任とともに三度目(~2000)の首相に就任した。

[中村平治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バンダラナイケ」の意味・わかりやすい解説

バンダラナイケ
Bandaranaike, S.W.R.D.

[生]1899.1.8. コロンボ
[没]1959.9.26. コロンボ
セイロンの政治家。首相(在任 1956~59)。フルネーム Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike。首相として近代セイロンの政治史に大きな変化をもたらした。イギリスのオックスフォード大学で学び,1925年に弁護士資格を取得。母国に戻ったあと政界に身を置き,1931年に国会が開設されると国会議員に選出された。1947年与党統一国民党 UNPの有力党員として新憲法発布後の第1回選挙に立候補して当選,保健・地方行政大臣に任命された。1951年に閣僚を辞し,親欧米色が強い UNPを離党した。翌 1952年民族主義的なスリランカ自由党 SLFP創設者として再選され,議会の野党リーダーとなった。1956年には民族主義的・社会主義的な 4政党の左派連合,人民統一戦線 MEPを結成した。同 1956年の選挙で MEPが圧勝し,これをうけて首相の座についた。強力な民族主義的政策を展開し,多数派シンハラ族の言語であるシンハラ語を公用語とし,シンハラ族の宗教である仏教を優遇した。1959年仏教僧に暗殺され,1960年に妻のシリマボ・バンダラナイケが首相に就任した。(→スリランカ史

バンダラナイケ
Bandaranaike, Sirimavo Ratwatte Dias

[生]1916.4.17. ラトナプーラ
[没]2000.10.10. コロンボ近郊アッタナガール
スリランカの女性政治家。仏教徒であるが,コロンボの聖ブリジェット修道会の女学院で学んだ。 1940年 S.バンダラナイケと結婚。 59年9月当時首相であった夫が暗殺されたのちスリランカ自由党総裁に就任。 60年7月の総選挙で勝ち,世界最初の女性首相となった。仏教を奨励し,シンハラ語を唯一の公用語にしたため,少数タミル族敵意を引起し,65年の総選挙では統一国民党に敗北。 70年5月の総選挙で左翼連合を率いて大勝し,首相,外相,国防相を兼任。 72年5月新憲法を制定して,国名セイロンをスリランカ共和国と改称。内政では銀行の国有化など社会主義重視政策を,外交では中立政策を推進,76年8月には第5回非同盟諸国会議をコロンボで開いた。またストライキ,マルキスト反乱,タミル族の分離主義運動に対処したが,77年7月の総選挙で統一国民党に惨敗,政権を引渡した。 80年首相時代の権力濫用のかどで市民権を剥奪された。 94年 11月次女のチャンドリカ・バンダラナイケ・クマラトゥンガが大統領に就任するとみずからは首相となった。 95年タミル族のゲリラに対して大作戦を実施 (→スリランカ民族抗争 ) 。 2000年8月首相を辞任。

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