イギリスの政治家,雄弁家,政治哲学者。プロテスタントの父とカトリックの母の間にダブリンで生まれ,この地のトリニティ・カレッジを卒業。法律家の資格を得ようとロンドンに出たが,やがて文筆の世界に転じてボーリンブルック卿の抽象的社会理論を風刺した《自然社会の擁護》と,美的感覚を心理的に解剖した《崇高と美の観念の起源》(1757)で文壇に登場し,ドズリー書店から《年鑑》を創刊して単独で編集に従った。まもなく穏健なホイッグ貴族ロッキンガムの秘書,65年には下院議員となり,アメリカでの印紙法の騒擾について処女演説して一躍名演説家たる声望を得た。また,〈国王の友King’s friends〉を通ずるジョージ3世の金権的専制の企図に伴う憲政の危機に際して,近代の政党政治の原理を《現代の不満の原因》(1770)で唱導した。茶の課税に端を発したアメリカ独立戦争に際しては,《アメリカ課税》《アメリカ植民地との和解》《ブリストル執行官への手紙》のいわゆるアメリカ三部作によって植民地への軍事介入の非を熱烈に説き,アメリカの抵抗を支持した。この間商港都市ブリストルから誘われて選挙に出馬し,《ブリストル到着の演説》や《投票終結の演説》で代議員への民衆の委任の権利を拒否する貴族的な代表観を述べた。アメリカ独立戦争終結後,短期間ロッキンガム内閣とノース=フォックス連立政権で閣外大臣たる陸軍支払総監になった以外は終生在野の地位にとどまった。東インド会社の乱脈な経営と民衆への圧政に抗議して《フォックスのインド法案》《アルコット大守の負債》の演説を行い,晩年の十数年はインド圧政の責任者ヘースティングズの弾劾裁判に全力を傾注した。
かねてイギリス流の開明的立憲主義の原理を信奉して,フランスの民主主義と平等の理念に不信を感じていた彼は,フランス革命が勃発するや,フォックスやシェリダンら彼の長年のホイッグ党内の盟友が,これをフランス国民の解放として歓迎したのと対照的に,最も早くからこれを伝統的なヨーロッパ秩序への挑戦と受けとめて《フランス革命の省察》(1790)を書き,長年の盟友と決別して党を分裂に導いた。自己の信念を《旧ホイッグへの上訴》で明らかにするとともに,《国民議会議員への手紙》で積極的な革命干渉を唱導して,ジャコバン独裁下のフランスに反対するイギリスの国論の形成に圧倒的影響を与えた。最晩年に国王からの年金下賜に対して急進派貴族からの攻撃に答えた《一貴族への手紙》や,対フランス徹底抗戦を説いた《国王殺害政府との和平》も絢爛たる修辞で知られる。彼は,大貴族の寡頭支配の名誉革命体制の枠内で都市商工業者と中産階層が勃興した,安定した立憲主義の時代の古典主義的世界観を体現した政治家文人であり,この体制が産業革命とフランス革命から受けた危機に直面して,社会が守るべき伝統は何かについて民衆に訴えた彼の〈フランス革命論〉は,政治思想史上で保守主義の聖典と称され,後代のロマン派の文学理論にも強く影響した。
執筆者:中野 好之
オーストラリアの探検家。アイルランド生れ。初めてオーストラリア大陸を南から北に縦断した。警察署長をしていたが,1860年王立ビクトリア協会企画の大陸縦断探検に隊長として参加した。一行は総員18人,ラクダ25頭などでメルボルンを同年8月出発した。大陸中央部のクーパーズ・クリークに補給基地を設営して留守部隊を置き,バークは副隊長のウィルズWilliam Wills(1834-61。イギリス生れの測量士)ら計4人でさらに北上した。61年2月,樹林に阻まれて海は見えなかったもののカーペンタリア湾岸に到達,帰路についた。しかし帰りが遅れたため,留守部隊は補給基地をすでに引き払っており,一行は1人を除いて死亡した。探検のようすはジャーナリストA.ムアヘッドの《恐るべき空白》(1966。邦訳1979)に詳しい。
執筆者:越智 道雄
オーストラリア南東部,ニュー・サウス・ウェールズ州北西部の町。人口4303(1981)。ダーリング川左岸に位置し,1880~90年代に河港の町としてにぎわった。粗放な牧羊地帯の拠点で道路が各地に通じ,シドニーからの鉄道終点で,空港もある。しばしば〈バークの奥Back of Bourke〉という表現が内陸の奥地を指して用いられ,辺地の町の典型例として扱われる。1829年にスタートが白人として初めて到達した。名称はオーストラリア総督名に由来する。
執筆者:谷内 達
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イギリスの政治家、思想家。アイルランドのダブリンに生まれる。1750年ごろロンドンに移り、『自然社会の擁護』(1756)、『崇高と美の観念の起源に関する哲学的探究』(1757)を著して批評家として認められる。1765年以降政界に入り、ホイッグ党(イギリス)指導者のロッキンガム卿(きょう)Charles Watson-Wentworth, 2nd marquess of Rockingham(1730―1782)の秘書兼相談役となる。翌1766年から引退する1794年まで下院議員。政治家としてのバークはロッキンガム卿の死(1782)までは同派の中心人物として下院指導者の地位にあり、それ以後もフランス革命まではつねにホイッグ党左派の指導者であった。この時期の活動としておもなものは、専制化の傾向を強めていた国王ジョージ3世およびその側近に対する批判、アメリカ植民地との和解の主張=戦争反対、アイルランド解放などであった。国王と宮廷勢力を批判してイギリスの伝統的混合政体と政党政治の意義を主張した『現代の不満の原因の考察』(1770)や、選挙区有権者が自分の狭い利益要求を議員に押し付けることに反対して一般代表の理論を唱えた『ブリストル演説』(1774)は、この時期の傑作とされている。フランス革命を迎えて彼は、それがフランスだけではなく全ヨーロッパの旧体制を破壊に導くことを見抜き、『フランス革命の省察』(1790)を著して革命批判を行った。民主主義はすべてを水平化して社会の良風を破壊すること、社会は諸身分を含む「多様性のなかの統一」でなければならず、世襲王政、貴族、国教制キリスト教はすべてなくてはならぬこと、イギリスの伝統的体制はこれらすべてを備えた「すべての学問、技芸、美徳」における完全な体制、すなわち文明社会そのものであること、などがその主張であった。彼自身は反革命の不成功、ひとり息子の死など失意のうちに世を去ったが、『フランス革命の省察』はその後のロマン主義や保守主義の古典として、とくに19世紀前半に、イギリスだけでなくヨーロッパ全体に強い影響を与えた。
[半澤孝麿 2015年7月21日]
『中野好之・半澤孝麿訳『エドマンド・バーク著作集』全3巻(1973、1978・みすず書房)』▽『エドマンド・バーク著、佐藤健志編訳『新訳 フランス革命の省察――「保守主義の父」かく語りき』(PHP新書)』
アメリカの批評家、思想家。ペンシルベニア州出身。シカゴ大学、カリフォルニア大学、ハーバード大学などで教鞭(きょうべん)をとり、プリンストン大学高等研究所研究員も務める。ことばの象徴性が人間の思考、行動様式を決定するという立場から人間のあらゆる精神現象の分析を試み、そこから、文学はことばの象徴活動を用いて作者の問題を「取り囲むencompass」戦略活動であると規定した。また、「行為」「行為者」「場面」「意図」「媒体」を五基語the pentadとよび、人間はいずれかの基語のなかに事象の究極原因を認める習性があり、また一つの基語で他の基語を代行させる営みが思想形成であると考えた。主著は『反対陳述』(1931)、『恒久と変化』(1935)、『歴史への諸姿勢』(1937)、『文学形式の哲学』(1941)、『動機の文法』(1945)、『動機の修辞学』(1950)など。
[森 常治 2015年10月20日]
『森常治訳『動機の文法』(1982・晶文社)』
オーストラリアの探検家。アイルランド生まれ。1853年オーストラリアに移住。ビクトリア警察警部であったが、60年メルボルン市民が企画した初の大陸縦断探検隊を率い、総勢18名、ラクダ25頭など大規模な陣容で同市を8月出発。途中クーパーズ・クリークに基地設営後、副隊長ウィリアム・ウィルズ(1834―61。測量士)ほか2名とともに北上、61年2月カーペンタリア湾近くに達したが、密林、沼沢に阻まれ海に抜けられなかった。バークらの帰りが遅れたため、留守隊は、彼らが帰着する7時間前に基地を引き払っており、キングという隊員以外は死亡した。バークは探検家の資質がなく、ウィルズの残した日記以外、隊の科学的成果はゼロであった。ただその規模と悲劇性から、この国ではもっとも有名な探検である。
[越智道雄]
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1729~97
イギリスの政治家,著述家。アイルランド生まれ,ダブリンのトリニティー・カレッジ卒。哲学論文によって注目をひき,1765年イギリスの首相ロッキンガム侯の秘書となり,下院議員。ジョージ3世の国政への介入,アメリカ植民地課税,インド統治政策などについてホイッグ党の立場から雄弁をふるったが,『フランス革命に関する考察』(90年)において革命を激しく非難し,保守主義の理念を明確に表明した。
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…すべてのマストに多数の横帆を張り,最後部マストにはさらに小さいガフセールをもつ。船首に数枚のジブ,各マスト間にステースルをもつこと,また各帆の呼称方法などは次のバークと同じである。(2)バークbarque,bark 3本または4本マストで,まれに5本のものもある。…
…〈議会は,異なった敵対的諸利益から,その代理人や弁護人として派遣された大使たちの会合ではない。議会は一つの利益,すなわち全体の利益をもった一つの国民の審議のための集会である〉とする,ブリストルの選挙民に対するE.バークの演説(1780)は有名である。しかし,イギリスでのこの概念の展開は,比較的に無意識的,漸進的であった。…
…この精神的意義を得た〈高さ〉こそ,美学をはじめ倫理や宗教の領分でも見いだされる崇高の概念である。近世ではE.バークが〈崇高とは危険を望見しつつ身の安全を確信できるところに生じる歓喜〉と規定し,これを美と対比させて新たな美的範疇論の進路をひらいた。カントは一時せきとめられた生命力の奔出する感動を崇高に認めて,これを消極的快(美は積極的快)とみなし,仰ぎみて畏怖すべき大自然のとらえ方に応じて〈数学的崇高〉と〈力学的崇高〉の別をたてた。…
… 市民革命後の代表観念は,それに先行した身分制議会が,身分制的に構成された選出母体の訓令に法的に拘束されるものであったのに対し,そのような命令的委任を否認することによって,全国民の代表であるべきことを強調するものであった(国民代表)。そのような議会のあり方を示すものとして有名なのが,イギリスでいえば1774年に自分の選挙区の選挙民にあてたE.バークの言葉であり,その実定法上最も明確な表現というべきものは,1791年フランス憲法であった。この憲法は,国民(ナシオン)の主権をうたいつつ,国王と立法議会を代表者としていたが,そのことにも示されるように,上記の二つの要素のうち,もっぱら(1)の要素こそがここでの代表の核心であり,(2)の要素は意識的に否定されていた。…
…しかし,それにもかかわらず少なくとも成立期の保守主義には一定の共通項があった。それを定式化したのは,イギリスの政治家・政治思想家E.バークがフランス革命を批判して書いた《フランス革命の省察》(1790)である。 その中でバークは,革命フランスの本質を,新興の貨幣所有階級が貴族・僧侶の支配する伝統秩序を打破して自己利益を拡大するため,抽象的思弁を売物にする啓蒙思想家たちと手を組み,大衆を扇動して引き起こした破壊行動と断じた。…
…理論においても,連邦憲法起草者の一人J.マディソンは,〈人口数の少ない人民によって構成され,全員がみずから集会し統治する純粋民主制〉に対して,〈代表〉による統治のほうが,連邦という,広大な領域を包含する能力と,より優れた統治者を調達する可能性をもち,それによってのみ国内の党派的分裂は克服されるであろうと主張し,そうした彼の立場を共和主義republicanismと呼んだ。ここでマディソンは,大規模社会における民主主義の実現可能性と民衆の自治能力という,近代民主主義理論にとって根本的な二つの困難を問い,伝統に従ってそれを不可能として,代りに,選挙されたより良き少数者による統治を主張したわけであるが,こうした統治の概念は,かつてアリストテレスが貴族制の特質とし,同時代においても近代保守主義の教祖E.バークが主張した代表理論であった。バークはその後,フランス革命に際して,フランス国民議会の行動は文明そのものの破壊行為であり,〈完全な民主主義とはこの世における破廉恥のきわみ〉と断じた。…
…そこでは世論は,ミドルクラスを主体とする〈財産と教養〉のある公衆publicの理性的な意見opinionとして,一方では絶対主義のなごりである貴族や官僚,他方では台頭しつつある労働者大衆に対抗しつつ,それが国民代表の集合である議会によって表現されるという基本的合意が,はやくから定着したからである。議会内に生まれた政党も,E.バークによって〈世論の組織化〉として正統化された。また個別の争点について論説を展開する政論新聞は,世論の器としての〈公器〉とみなされてその自由を保障され,政党政治の中で独特の地位を占めるようになったが,しかしそれは政党や政府と対立するよりも,むしろ補完するものとみなされたのである。…
※「バーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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