ミュラー(読み)みゅらー(英語表記)Johannes von Müller

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー(ドイツの生理・解剖学者 Johannes Petrus Müller)
みゅらー
Johannes Petrus Müller
(1801―1858)

ドイツの生理・解剖学者。当時フランスの占領下にあったコブレンツの靴屋の息子として生まれる。1819年ボン大学に入学、医学を学ぶ。1820年にはすでに動物実験を行い、1823年「胎児の呼吸」の研究で大学から賞金を授与された。1823年から1年半ベルリン大学の解剖学教授ルドルフィKarl Asmund Rudolphi(1771―1832)の指導を受けたのちボンに帰り、1824年ボン大学講師、1833年ベルリン大学の解剖・生理学教授に任ぜられた。この年『人体生理学叢書(そうしょ)』第1巻を刊行し、引き続き巻を重ねた。彼の指向したのは自然哲学からの脱却と、観察・実験であった。実験生理学よりも形態学研究に傾斜し、比較解剖学、動物分類学に興味を抱いた。また病理学とくに腫瘍(しゅよう)の研究に顕微鏡を応用した先駆者であった。そのほかベル‐マジャンディの脊髄(せきずい)神経の法則の実験的証明(1831)、カエルのリンパ心臓の発見(1834)、そのほか赤血球、分泌腺(せん)、声帯の運動、単一視・複視の生理、形態、化学に関する数多くの研究を行い、ドイツ生理学界の指導者となった。1796年ライルJohann Christian Reil(1759―1813)によって創刊された『生理学雑誌』(のち『解剖学、生理学雑誌』と改称)の編集を、1834年から死去するまで主宰した。彼の門下からは、組織学のシュワン、病理学のウィルヒョウ、生理学のデュ・ボア・レイモン、ヘルムホルツら著名な学者が輩出した。のちにベルリン大学総長に就任したが、1848年の革命に遭遇し、困難な立場にたたされ、同年辞職したが、精神的にも肉体的にも疲労の極に達していた。これより10年後急死するが、自殺ではないかといわれている。

[中山 沃]


ミュラー(ドイツの心理学者 Georg Ellias Müller)
みゅらー
Georg Ellias Müller
(1850―1934)

ドイツの心理学者。ザクセン州のグリマの生まれ。1873年ゲッティンゲン大学のロッツェのもとで、哲学で学位をとった。1876年ゲッティンゲン大学講師、1880年ツェルノウィッツ大学哲学教授。1881年にロッツェがベルリン大学に移るとその後任となり、1921年まで40年にわたってゲッティンゲン大学の心理学研究室を主宰し、あとをアッハNarziss Kasper Ach(1871―1946)に譲った。おもな研究領域は精神物理学、視知覚、記憶などで、厳密な思索による理論を重視すると同時に優れた実験家であり、フェヒナー、ヘリング、エビングハウスの研究を発展させた。彼のもとにはカッツ、スピアマン、イェンシュErick Rudolf Jaensch(1883―1940)、ルビンなど多くの研究者が集まってきた。

[宇津木保]


ミュラー(スイスの物理学者 Karl Alex Müller)
みゅらー
Karl Alex Müller
(1927―2023)

スイスの物理学者。バーゼルに生まれる。チューリヒのスイス連邦立理工科大学で物理学を学び、1958年に同大学で博士号を取得した。ジュネーブのバッテル記念研究所で磁気共鳴の研究に従事したあと、1963年IBMチューリヒ研究所に入所し、1982年にフェロー(上級研究員)となった。ニューヨークのIBMトーマス・ワトソン研究所に2年間在籍した以外は、IBMチューリヒ研究所で研究を続けた。

 ベドノルツとともに強誘電体および超伝導の研究を行った。超伝導とは、カマーリン・オネスによって発見されたもので、ある温度以下で、金属や合金の電気抵抗がゼロになる現象である。当時わかっていた臨界温度は20K(零下253℃)ぐらいであったが、彼らは1986年にランタン、銅、バリウムを含む酸化物のセラミックスが、30Kを超える温度で超伝導状態を示す物質であることを発見した。この現象は高温超伝導とよばれた。ミュラーとベドノルツは翌1987年に、発見から1年目という異例の早さでノーベル物理学賞を受賞した。このセラミック超伝導体の発見によって、「超伝導フィーバー」ともいえる超伝導体開発競争が展開されることになった。

[編集部]


ミュラー(ドイツの哲学者 Adam Heinrich von Müller)
みゅらー
Adam Heinrich von Müller
(1779―1829)

ドイツの政治哲学者、社会哲学者。ベルリン官吏の子として生まれる。最初プロイセン官吏となり、『対立論』(1804)を著したが、その「動的思考」はヘーゲルにも影響を与えたといわれる。1805年ウィーンでカトリックに改宗。シュレーゲル兄弟らのロマン主義者と交わり、その思想とF・ゲンツ、E・バークの保守主義思想とを結合させて政治的ロマン派の代表的理論家となった。1809年主著『国家学綱要』を著し、国家有機体説に基づきカトリック的、身分制的国家擁護を説いた。ベルリンでハルデンベルクによる改革への反対運動を行ったのち、1811年ウィーンに移り、以後メッテルニヒに仕えた。ライプツィヒ駐在総領事(1818~1827)としてプロイセンの関税政策に抵抗する一方、ウィーン体制イデオローグとして活発な言論活動を行い、1826年「君主的原理と宗教」に対するその功績により貴族に列せられた。

[岡崎勝世 2015年4月17日]


ミュラー(ドイツの小説家 Herta Müller)
みゅらー
Herta Müller
(1953― )

ドイツの小説家。ルーマニア西部ニツキードルフに、18世紀のドイツ系入植者バナート・シュワーベン人の末裔(まつえい)として生まれる。父はナチ武装親衛隊員として戦争犯罪に荷担、母は第二次世界大戦末期にソ連軍に強制連行された被害経験をもつ。ティミショアラ大学卒業後、機械工場で通訳として勤務。秘密警察(セクリターテ)への協力を拒否して1979年に失職、以後は臨時雇いで糊口(ここう)をしのぐ。多感な少女の視点から、ドイツ人の純血主義が孕(はら)む暴力性を農村風景に読み取っていく散文作品集『澱(よど)み』が1984年に西ドイツで発表され注目を浴びる。しかしルーマニアでは執筆禁止、尾行、尋問、家宅捜索などの迫害に苦しむ。1987年に西ドイツへ出国。この前後の絶望的な疎外状況は『人間はこの世の大いなる雉(きじ)』(1986)や『片脚(かたあし)だけの旅人』(1989)に詳しい。1989年末のチャウシェスク独裁政権崩壊を機に、秘密警察の監視下に生きる恐怖と絶望を主題とした長編小説を次々に発表した。独裁末期の市民の困窮を描いた『狙(ねら)われたキツネ』(1992)のほか、『心獣』(1994)と『今日は自分には会いたくなかったのに』(1997)は1970年代末のつかのまの民主化とそれに続く反動の時代に捧げられている。ただし、ミュラーの小説はプロットよりも不条理なイメージの積み重ねを重視しており、その意味で、新聞や雑誌の文字や写真を切り貼(ば)りした超現実主義的なコラージュ詩の試み――『監視人が櫛(くし)を手に取る』(1993)、『紙の結び目に住むご婦人』(2000)、『コーヒーカップを持つ青ざめた紳士たち』(2005)――に通じるものがある。長編『息のブランコ』(2009)では自伝的な主題を離れ、聞き取り取材を重ねて、ソ連ラーゲリでのドイツ系住民の強制労働という歴史の闇(やみ)に光をあて新境地を開いた。2009年ノーベル文学賞受賞。

[山本浩司]

『山本浩司訳『狙われたキツネ』(1997・三修社)』


ミュラー(スイスの化学者 Paul Müller)
みゅらー
Paul Hermann Müller
(1899―1965)

スイスの化学者。DDTの殺虫効果を発見したことで有名。オルトンの生まれ。ドレイフス電気機械会社の実験助手、ロンザ社の補助化学者を経て、バーゼル大学に学び、学位を得た。ガイギー皮なめし会社(現、ノバルティス)に入って皮なめし剤の合成研究を行い、新製品「イルガタンFL」および「FLT」を開発(1930)した。ついでガの駆除剤を研究、既知物質の通称ジクロロジフェニルトリクロロエタンに強い殺虫力を発見した(1939)。これがDDTである。以降農薬の研究が盛んになった。この業績に対して1948年にノーベル医学生理学賞が贈られた。DDTは一時期広く使われたが、強い毒性のために使用は禁止されている。

[川又淳司]


ミュラー(ドイツの動物学者 Fritz Müller)
みゅらー
Fritz Müller
(1821―1897)

ドイツの動物学者。のちにブラジルに渡る。ベルリン、グライフスワルト両大学で医学と博物学を修め、1852年以来ブラジルに移って事業を営み、かたわら昆虫類、甲殻類などの生態学的研究を行い、とくにチョウの擬態や昆虫のはねの起源に関する研究でよく知られる。C・R・ダーウィンの進化論をいち早く受容して主著『ダーウィン賛同』(1864)を書き、また発生学ではE・H・ヘッケルに先だって生物発生原則を唱えた。

[八杉貞雄]


ミュラー(ドイツ出身のイギリスの言語学者、宗教学者 Friedrich Max Müller)
みゅらー
Friedrich Max Müller
(1823―1900)

ドイツ出身のイギリスの言語学者、宗教学者。ライプツィヒ大学サンスクリット語を学び、パリのビュルヌフのもとで『ベーダ』の研究を行う。イギリスに渡り、1850~1876年の間オックスフォード大学で文学、言語学などを講じた。1870年ロンドンの王立協会で行った講演のなかで、宗教学science of religionという表現を用い、あらゆる宗教を客観的、科学的に比較研究する必要を力説した。ここからミュラーは一般に近代宗教学の始祖とみなされる。彼の宗教学は、おもに神話など歴史上の宗教思想を資料とし、比較言語学の方法を範として、宗教の起源と発達の系譜をたてることを目的とした。それは「無限なるもの」が順次に物的対象、人的事象、そして心的自己を通じて認知される過程だという。彼はまた東洋諸宗教の聖典を同僚の協力を得て英訳し、『東方聖典』Sacred Books of the East51巻を編集した。

[田丸徳善 2018年8月21日]


ミュラー(ドイツの画家 Otto Müller)
みゅらー
Otto Müller
(1874―1930)

ドイツの画家。シュレージエンのリーバウに生まれる。石版画を修めたのち、1896~98年ドレスデン美術学校で絵画を学んだ。1908年ベルリンに住み、10年ヘッケルの誘いで表現主義のグループ「ブリュッケ(橋)」に加わった。15~18年第一次世界大戦による兵役ののち、20年ブレスラウ(ブロツワフ)の美術学校に迎えられ、同地で没するまで教鞭(きょうべん)をとった。ロマ(かつてはジプシーとよばれた)を母親にもつ彼は、しばしばハンガリー、ルーマニアなどを旅行してロマの生活を画題に取り上げた。筆触は粗く、色彩は淡く夢幻的で、妖精(ようせい)を思わせる裸婦の作が多い。代表作『ポーランドの家族』(エッセン、フォルクワング美術館)など。

[野村太郎]


ミュラー(ドイツの政治家 Hermann Müller)
みゅらー
Hermann Müller
(1876―1931)

ドイツ社会民主党の政治家。マンハイムに生まれる。党新聞の編集者を経て1906年党幹部会に入り、1916年帝国議会議員、1918年の革命ではベルリン労兵協議会および中央協議会の執行委員会委員となった。1919年6月外相としてベルサイユ条約に調印。1920年3月首相(~6月)、1928年5月ふたたび首相となったが、失業保険の醵金(きょきん)額をめぐる対立から1930年3月辞職、翌1931年3月20日死去した。

[松 俊夫]


ミュラー(スイスの歴史家、政治家 Johannes von Müller)
みゅらー
Johannes von Müller
(1752―1809)

スイスの歴史家、政治家。1786~92年にマインツ選帝侯の宮中顧問官および司書、93~1800年ウィーン宮廷の枢密顧問官となった。1800~04年皇帝図書館管理官を務め、04年ベルリンに招かれて史料編纂(へんさん)官となったが、ナポレオン1世に目をつけられ、08年に新王国ウェストファーレンの教育長官となった。彼の著書『スイス連邦史』五巻(1786~1808、初版1780)は同時代の人々に傑作として広く愛読され、シラーの戯曲『ウィリアム・テル』に大きな影響を与えた。しかし、政治活動に深入りしたためもあって、『スイス連邦史』は15世紀末までの叙述で未完に終わり、24巻本の『世界史』も生前には刊行されなかった。

[森田安一]


ミュラー(ドイツの劇作家 Heiner Müller)
みゅらー
Heiner Müller
(1929―1995)

ドイツの劇作家。ケムニッツの近くのエッペンドルフに生まれる。ベルリーナー・アンサンブルの主任文芸員。数多くの劇作品を書く。妻インゲ(筆名インゲボルク・シュウェンクナー)の協力も特筆に値する。ブレヒト流の教育劇を得意とし、旧東ドイツの社会主義の発展途上に現れる諸問題を主題とした。古典劇を現代的にアレンジする試みも行った。前者では『建築』(1965)、後者ではソフォクレスの悲劇を翻案した『ピロクテテス』(1968)が代表作。ほかに『戦闘』(1975)、『ゲルマーニア、ベルリンでの死』(1978)、『ハムレット機械』(1979)などがある。1990年(平成2)9月ドイツ文学国際学会出席のため初来日。

[宮下啓三]


ミュラー(ドイツの陸軍軍医 Benjamin Carl Leopold Müller)
みゅらー
Benjamin Carl Leopold Müller
(1824―1893)

ドイツの陸軍軍医。ミュルレルともいう。ボン大学、ベルリン大学で外科を学び、軍医学校教官、シャリテ病院高級医官を経てハイチ国陸軍病院総監督などを歴任した。1869年(明治2)日本政府は中央の官立学校へドイツ人教師2名を招くこととし、その結果1871年プロシア陸軍軍医正のミュラーと海軍軍医のホフマンTheodor Eduard Hoffmann(1837―1894)が来日した。二人のプロシア軍医は、医学校改革の全権を与えられて、プロシア陸軍軍医学校を模した厳格な教育体制を確立し、日本医学教育制度の今日にまで引き継がれる原型となった。1875年帰国。

[神谷昭典 2018年8月21日]


ミュラー(ドイツの詩人 Wilhelm Müller)
みゅらー
Wilhelm Müller
(1794―1827)

ドイツの詩人。ベルリン大学で学んだのち、生地デッサウで高校教師を勤めながら詩作、翻訳などの文学活動に従事した。『旅する角笛(つのぶえ)吹きの遺稿詩集』(1820~24)に収められた民謡調の叙情詩のうち、『美しい水車屋の娘』と『冬の旅』はシューベルトの作曲で知られる。ギリシア独立戦争に共感して書いた『ギリシア人の歌』(1821~26)もある。ほかに旅行記やエッセイなども多い。

[石井不二雄]

『W・ミュラー、J・W・ゲーテ他著、瀧崎安之助編訳『ドイツ・リート詞華選』(1983・新地書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミュラー」の意味・わかりやすい解説

ミュラー
Müller, Johannes Peter

[生]1801.7.14. コブレンツ
[没]1858.4.28. ベルリン
ドイツの生理学者,解剖学者。父は靴屋。ボン大学で医学を学ぶ (1819~22) 。卒業論文には自然哲学への傾倒ぶりがうかがわれる。次いでベルリン大学に移り,解剖学者 K.ルドルフィに師事。その影響で自然哲学の支配を脱する。 1824年よりボン大学で生理学および比較解剖学講師をつとめ,助教授 (26) ,教授 (30) となる。その間,26年に『視覚の比較生理学』 Zur vergleichenden Physiologie des Gesichtssinnesを著わし,さまざまな感覚器はそれぞれ固有の様式で外界からの刺激を受容する,たとえば視神経はどのような方法で刺激しても,光の感覚しか起さないことを指摘した。これはミュラーの法則とも呼ばれ,感覚生理学の発達に多大の影響を与えた。また,外界は感覚器の作用を媒介にしてのみ認識されると説いて認識論の分野にも影響を及ぼした。彼は生理学から解剖学の広い領域にわたっておびただしい業績を上げているが,この時期のものでは,ミュラー管の発見が著名である。ルドルフィの後任としてベルリン大学教授となる (33) 。『人体生理学概論』 Handbuch der Physiologie des Menschen für Vorlesungen (2巻,33~40) を著わして,機械論に基づく生理学の確立を促すとともに,現場の医療活動と生理学研究との間に情報交換のための道を開く役割も果した。また,弟子の T.シュワンによる細胞説提唱後は,腫瘍の細胞学的研究を行い,病理組織学という新しい研究領域を開拓した。 40年以降は比較解剖学や海産動物の記載分類を行なった。彼の門下には,シュワンのほか,E.デュ・ボア=レイモン,H.ヘルムホルツ,E.ヘッケル,R.レマーク,R.ウィルヒョーらがいる。

ミュラー
Müller, Herta

[生]1953.8.17. ニツキドルフ
ルーマニア生まれのドイツの作家。両親はルーマニアのドイツ系少数民族。1973年から 1976年まで,ティミショアラ大学でドイツ文学とルーマニア文学を専攻し,独裁体制下で表現の自由を求めるドイツ語作家のグループ「バナート行動隊」に参加。卒業後,技術翻訳の仕事についたが,秘密警察セクリタテアへの協力を拒んだために解雇され,その後は幼稚園教師や家庭教師として生計を立てた。1982年,民族間の不寛容や,腐敗と排除が横行する村の生活の偽善性を描いた短編集『澱み』Niederungenでデビュー。当初は検閲により修正されたが,1984年に未検閲版がドイツ連邦共和国(西ドイツ)で出版され,1999年には独英 2ヵ国語版が『どん底』Nadirsのタイトルで発行された。しかしニコラエ・チャウシェスクの独裁政権を公然と批判したことから,ルーマニアでの出版活動を禁止された。1987年,ルーマニア政府から出国許可を得て西ドイツに移住。1989年の『一本足での旅』Reisende auf einem Beinは亡命生活と同化の難しさをテーマにした作品。半自伝的小説『ヘルツティーア』Herztier(1994)は,マイケル・ホフマンにより英訳され,1998年に国際IMPACダブリン文学賞を共同受賞した。ミュラーの傑作の一つに数えられるこの作品は,ルーマニアでの残虐行為やいやがらせを逃れてドイツに移住し新生活に踏み出した女性が語り手。次作『自分はできれば自分に会いたくはなかった』Heute wär ich mir lieber nicht begegnet(1997)も女性が語り手で,国家に寄生する破壊分子とみなされたミュラーが受けた屈辱と冷遇が語られている。政治的抑圧への抵抗や,脅迫と恐怖,迫害によって引き起こされる人間存在の苦悩を鮮明に,説得力のあることばで描き出し,2009年に女性としては 12人目,ドイツ人作家としては 1999年のギュンター・グラス以来となるノーベル文学賞を受賞した。

ミュラー
Müller, K. Alex

[生]1927.4.20. バーゼル
[没]2023.1.9. チューリヒ
K.アレックス・ミュラー。スイスの物理学者。フルネーム Karl Alexander Müller。ある物質がこれまで考えられていたよりも高い温度で超伝導現象を示すことを発見し,1987年に J.ゲオルク・ベドノルツとともにノーベル物理学賞(→ノーベル賞)を受賞した。
1958年スイス連邦工科大学で博士号を取得。1963年に IBMチューリヒ研究所で固体物理学の研究を始め,物理学研究部門を数年間率いたのち 1982年に IBM上席研究員。酸化物として知られるセラミック化合物の専門家として 1980年代初めから超伝導体の研究に着手,当時物質が電気抵抗を失う温度は最高で絶対温度約 23K(-250℃)だったが,1986年にバリウムランタンの混合酸化物が 35K(-238℃)で超電導状態(→高温超伝導)になることを後輩のベドノルツとともに見出した。この発見は世界中の科学者に衝撃を与え,酸化物の研究が進み,その後 1年足らずで 100K(-173℃)での超電導が達成された。発電や電力輸送の可能性が示され,経済的にも重要な発見とされた。

ミュラー
Müller, Georg Elias

[生]1850.7.20. ライプチヒ近郊グリマ
[没]1934.12.23. ゲッティンゲン
ドイツの心理学者。ツェルノビッツ大学教授を経てゲッティンゲン大学教授。 40年近くもゲッティンゲン大学の研究室を主宰し,その業績は精神物理学,知覚,記憶など広範囲に及び,しかもその成果は高く評価され,現代の実験心理学の基盤となっている。理論的には,統一的全体としての心的複合の特性を重視する複合説をとる。主著『精神物理学の基礎』 Zur Grundlegung der Psychophysik (1876) ,『記憶研究の実験的寄与』 Experimentelle Beiträge zur Lehre vom Gedächtnis (1900,共著) ,『記憶作業と表象過程の分析』 Zur Analyse der Gedächtnistätigkeit und des Vorstellungsverlaufes (11~17) ,『複合説とゲシュタルト説』 Komplextheorie und Gestalttheorie (23) 。

ミュラー
Müller, Leopold

[生]1824.6.24. マインツ
[没]1893.10.13. ベルリン
ドイツの陸軍軍医。ボン大学,ベルリン大学で医学を学び,1847年王立シャリテ病院医官,56年からハイチ国の軍医として招かれ,12年間同国の軍隊および陸軍病院の軍医総監をつとめ,70年の普仏戦争で活躍。 71年ドイツ軍軍医正。同年8月,前年に日本がプロシアとかわした医育契約に基づき,海軍軍医 T.ホフマンとともに来日,東校 (東京大学医学部の前身) の教官となり,文部卿に次ぐ権限をもって明治初年の日本の医育制度を一挙にドイツの陸軍軍医学校の方式に改めた。すなわち,全寮制として制服を着せ,予科 (3年,翌年から2年となる) ,本科 (5年) を分け,定員は本科 40名,予科 60名とした。本科生には,みずから解剖学,外科学,婦人科学,眼科学を講義,ホフマンが内科学を担当した。 74年任期満了,翌年帰国に際し,勲四等旭日章を贈られた。帰国後はベルリン廃兵院院長となった。半身像が東京大学構内にある。

ミュラー
Müller, Friedrich Max

[生]1823.12.6. デッサウ
[没]1900.10.28. オックスフォード
ドイツに生れ,イギリスに帰化した東洋学者,比較言語学者。詩人 W.ミュラーの子。ベルリン大学で学んだのち,パリで印欧比較言語学の権威 E.ビュルヌフに師事。イギリスに渡って,1850年オックスフォード大学教授。『リグ・ベーダ』をはじめとする東洋古典に関して数々の校訂,翻訳,研究書を刊行。古代東洋文化,特にインド学の幅広い分野にわたって,科学的・批判的学問研究の基礎を築くとともに,比較言語学,比較神話学を確立した。主編著書『東方聖書』 The Sacred Books of the East (50巻,1879~1910) ,『インド六派哲学』 The Six Systems of Indian Philosophy (1899) など。

ミュラー
Müller, Otto

[生]1874.10.16. リーバウ
[没]1930.9.24. ブレスラウ
ドイツの画家,版画家。1890~95年ブレスラウで石版画の修業をし,のち1896~98年ドレスデンの美術学校に学ぶ。1907年ベルリンでエーリッヒ・ヘッケルを知り,1910年ドレスデンで「ブリュッケ」の同人らと作品を発表,その後 1913年までブリュッケに参加。1919年以降はブレスラウの美術学校教授。エジプト美術,ルーカス・クラナハ,ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーガンを賛美し,細身の少女の裸身やロマを描き,文明に毒されぬ楽園を表現しようと努めた。(→表現主義

ミュラー
Müller, Paul Hermann

[生]1899.1.12. オルテン
[没]1965.10.12. バーゼル
スイスの化学者。バーゼル大学に学び,1925年,同地のガイギー研究所に入り,染料と皮なめし剤の研究にあたった。 39年ハエ,カ,シラミなどに強力な殺虫効果をもつ接触毒ジクロロジフェニルトリクロロエタン DDTの合成に成功した。 DDTは同年9月に大量生産され,アメリカでは,コロラドハムシに有効でジャガイモの増産に役立つことが証明され,さらにイタリア戦線でアメリカ軍に使用,シラミが媒介する発疹チフスの流行を食止めた。また太平洋戦線でも,病気を媒介する害虫への強力な武器として役立った。 DDT開発の功により 48年ノーベル生理学・医学賞受賞。しかし,その後その残留毒性が問題となり,各国で使用禁止,日本でも 70年禁止措置がとられた。

ミュラー
Müller, Heiner

[生]1929.1.9. ザクセン,エッペンドルフ
[没]1995.12.30. ベルリン
ドイツの劇作家。 1950年代から執筆活動を始め,社会主義における生産現場を描いた『トラクター』 (1955) ,『賃金を抑えるもの』 (58) や,東ドイツ建国期を題材にした『ゲルマニア,ベルリンの死』 (57) などを発表。その後上演禁止処分を受けたが,60年代後半からはギリシア演劇の古典やシェークスピア劇などの改作を行う。 90年のドイツ統一後も活動を続け,95年3月以来ベルリナー・アンサンブルの芸術担当の演出家をつとめていた。代表作『ハムレットマシーン』 (77) にみられる典型的な手法は,幻想的・暴力的なイメージの断片を積重ねて政治批判を示すというもので,その解釈も上演する側の自由にまかせ,テキストとしては確定させない姿勢がうかがわれる。

ミュラー
Muralt, Béat Louis de

[生]1665.1.9. ベルン
[没]1749.11.19. ヌーシャテル,コロンビエ
スイスの道徳学者。国外に出,フランス,イギリスを経たのちベルンに帰ったが,1701年敬虔主義のゆえにベルンを放逐された。以後コロンビエに居住し著述に専念。イギリスの思想,政体をフランスに紹介することによって,ボルテール,J.-J.ルソーなどに影響を与えた。『イギリス人,フランス人に関する手紙』 Lettres sur les Anglais et les Français (1725) ,スイスの独立思想を論じた『狂信的書簡』 Les lettres fanatiques,自己の信条である神秘的理性論を論じた『人類に勧告する神の本能』 Instinct divin recommandé aux hommes (27) などの著書がある。

ミュラー
Müller, Karl Otfried

[生]1797.8.28. シュレジエン,ブリーク
[没]1840.8.1. アテネ
ドイツの古代学者。ブレスラウで学んだのち,ベルリンで A.ベックに師事し,1819~39年はゲッティンゲン大学の古代言語学の教授をつとめた。古代ギリシア史を組立てるために神話を広く適用し,政治,芸術,宗教,文学,一般史を含む古代ギリシア文明の包括的理解を目標とした。主著『ギリシア民族と都市の歴史』 Geschichte hellenistischer Stämme und Städte (1巻,1820,2巻,24) ,『美術考古学便覧』 Handbuch der Archäologie der Kunst (30) ,『エトルリア人』 Die Etrusker (32) 。

ミュラー
Müller, Wilhelm

[生]1794.10.7. デッサウ
[没]1827.9.30. デッサウ
ドイツの詩人。ベルリン大学に学び,デッサウのギムナジウムの教師,図書館長となった。民衆的心情のこもったロマンチックな詩を多く書き,特に『美しき水車小屋の娘』 Die schöne Müllerin (1821) ,『冬の旅』 Die Winterreise (23) はシューベルトの作曲で有名。また対ナポレオン戦争に志願兵として参加するなど戦士的情熱もあわせもち,ギリシア解放戦争の感激を歌った『ギリシア人の歌』 Lieder der Griechen (21~24) は彼の声価を一躍高め,「ギリシア人ミュラー」と称された。

ミュラー
Müller, Johannes von

[生]1752.1.3. シャフハウゼン
[没]1809.5.29. カッセル
スイスの歴史家。2年間のスイス滞在後マインツ大司教に招かれ顧問官 (1786~92) ,フランス革命軍の進入直前にウィーンに移って枢密顧問官 (93~98) をつとめ,最後にナポレオン1世に起用されてウェストファリア王国の教育長官となった。啓蒙主義的な世界観に立って広くヨーロッパの歴史を研究。主著『スイス連邦史』 Geschichten Schweizerischer Eidgenossenschaft (86~1808,未完) 。

ミュラー
Müller, Fritz

[生]1821.3.31. ウィンディシュホルツハウゼン
[没]1897.5.21. ブラジル,ブルメナウ
ドイツ生れの動物学者。ベルリン大学で医学を学び,在学中 J.P.ミュラーから影響を受ける。 1852年以降ブラジルで動物学の研究に従事。クルマエビが発生の過程でいくつかの異なる形態をとり,それぞれの形態が他の種類の甲殻類の成体に類似することを指摘して,個体発生と進化の歴史との並行性を説いた。これは E.ヘッケルによる生物発生原則の先駆をなすものであった。

ミュラー
Müller, Hermann

[生]1876.5.18. マンハイム
[没]1931.3.20. ベルリン
ドイツの政治家。 1899年社会民主党地方機関紙の編集長。 1916年国会議員。第1次世界大戦敗戦後,ワイマール共和政第2代の G.バウアー内閣の外相としてベルサイユ条約に調印。 20年首相。同年以降社会民主党国会議員団団長。 28年再度首相に就任,賠償に関するヤング案に調印。 30年3月失業問題を処理しきれず辞任。 (→ドイツ賠償問題 )  

ミュラー
Müller, Karl von

[生]1852.9.3. ランゲンブルク
[没]1940.2.10. テュービンゲン
ドイツのプロテスタント神学者,教会史家。ハレ,ギーゼン,ブレスラウ,テュービンゲンの各大学教授を歴任。特に近世教会史の研究に貢献した。主著『教会史』 Kirchengeschichte (1892~1919) ,『ルターとカルルシュタット』 Luther und Karlstadt (07) ,『ルターの教会・社会・主権観』 Kirche,Gemeinde und Obrigkeit nach Luther (10) 。

ミュラー
Müller, Friedrich

[生]1749.1.13. クロイツナハ
[没]1825.4.23. ローマ
ドイツの詩人。シュトゥルム・ウント・ドラング運動に参加し,『羊毛刈り』 Die Schafschur (1775) などの牧歌をはじめ数多くの抒情詩やバラードを書く一方,戯曲にも情熱を傾け,『ファウストの生涯』 Fausts Leben dramatisiert (78,未完) などを残した。画家としても有名で,「画家ミュラー」の通称で知られる。

ミュラー
Müller, Adam Heinrich

[生]1779.6.30. ベルリン
[没]1829.1.17. ウィーン
ドイツのロマン主義的政治思想家。 1813年以後オーストリア政府に用いられ,後年メッテルニヒの助言者となる。 E.バークとシェリングの影響を受け,主著『国家学綱要』 Elemente der Staatskunst (1810) においてアトム的個人を前提とした機械論的国家観に対して,中世的秩序をモデルとした有機的国家観を主張した。

ミュラー
Müller, William John

[生]1812.6.28. ブリストル
[没]1845.9.8. ブリストル
ドイツ生れのイギリスの風景画家。生地で J.パインに風景画を学ぶ。 1833年イギリスのロイヤル・アカデミーに初出品。 34年フランス,スイス,イタリア,38~39年ギリシア,エジプトを旅行。帰国後ロンドンに定住し定期的に作品を発表。 43年古代大理石彫刻の調査隊に同行して小アジアを旅行し,多数の水彩の風景画を制作した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報