イタリア南部,プーリア州の州都で同名県の県都。古称バリウムBarium。人口32万8458(2004)。イタリア半島南部ではナポリに次ぐ大都市で,アドリア海に面する貿易港。食品加工業(オリーブ油,ブドウ酒)が盛んであるほか,アフリカ,中東を対象とした〈東方見本市〉の開催地。ローマ時代から港として栄え,交通の要所であった。中世初期には約2世紀にわたってビザンティン帝国とランゴバルド族のベネベント公国の争奪地となる。一時イスラムの支配を経て,885年ビザンティン帝国南イタリア領の中心地となり,ローマ・カトリックの西洋と東方正教の東方世界との接点となったが,1071年ノルマン人に征服され,イタリア半島におけるビザンティン領土は消滅した。87年バーリの水夫たちは,小アジアのミュラから聖ニコラウスの遺骸を持ち帰り,聖人にちなんだ大聖堂が建設され,バーリは巡礼の中心地となる。98年,第1回十字軍を組織したウルバヌス2世により,ラテン教会とビザンティン教会の和解を図る公会議が開催されたが,目的は果たされなかった。しかしこの事実により市の名声はあがり,以後の十字軍の重要な出発地となり,エルサレム巡礼への要地ともなった。13世紀前半のフリードリヒ2世のときに,商業・軍事両面で重要な都市となったが,1356-57年のペストで1万2000人が死に,人口はわずか3000人に減少した。15世紀からアンジュー家,アラゴン家,ミラノのスフォルツァ家などの支配を経,スペイン治下の1647年,ナポリのマザニエーロの一揆に呼応して,水夫パオロ・ディ・リベッコの率いる民衆は,圧政に対して立ち上がり,修道院,貴族,大商人の邸宅を襲った。オーストリア,ブルボンの統治を経て,1860年サルデーニャ王国に統合。1944年バーリで政治家,文化人を集めた第1回反ファシズム会議が開催されたことは特筆に値する。
執筆者:望月 一史
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南イタリア,プーリア地方アドリア海岸沿いの町。すでに,古代ローマ時代から重要な港として知られていた。847年にイスラーム教徒に征服され,30数年間その支配下に置かれた。875年頃ビザンツ帝国の支配に服し,1071年にノルマン人に征服されるまでの約200年間,帝国の南イタリア支配の中心として栄えた。ノルマン王国時代の1156年,反乱への処罰として建物の大部分が破壊されたが,その後復興しフリードリヒ2世時代に再び繁栄を迎えた。
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… 村組は一般に組と呼ばれるが,同時に全国各地にさまざまな村組を示す名称が分布している。主要なものを示せば,東北地方のヤシキ(屋敷),北関東のツボ(坪),南関東のニワ(庭),ニワバ(庭場),サト(里),中部地方のコウチ(耕地),近畿地方を中心に広く分布するカイト(垣内,垣外,貝戸,海戸等),中国・四国地方のドイ(土居),ホウジ(榜示),北九州のコガ(空閑),南九州のカド(門),沖縄本島北部のバーリ,同島南部のダカリなどである。これらのうち,東北地方,関東地方あるいは九州に分布する屋敷,坪,庭,門などの名称は,他方では個別の家においてその居住空間やその一部を示すものとして一般的に使用されている語である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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