アメリカ合衆国北東部,マサチューセッツ州東部の州都で,ニューイングランド最大の都市。人口55万9043(2005)。大西洋の入海マサチューセッツ湾奥部に注ぐチャールズ川河口に,1630年ピューリタンによって建設される。天然の良港に恵まれ植民地時代から漁業と海運業が栄え,今日も合衆国有数の港湾都市。また商工業,文化,教育の中心として,アメリカ史上に有力な地位を占め,19世紀後半には〈世界の中心Hub of the Universe〉と呼ばれた。全国的地位は相対的に低まったが,今日も伝統を誇る古都であるだけでなく,ニューイングランド地方の文化と経済の中枢である。また,ボストンは,ニューヨークを核とし南はワシントンD.C.にいたるメガロポリスの北端に位置し,主要都市とはアムトラックや航空便で結ばれている。
旧市街地区には狭く曲がった道路やコモンCommonと呼ばれるかつて放牧に使われた共有地が公園として残っており,その周辺には植民地時代と独立革命期の史跡が点在する。市中央部のビーコン・ヒルBeacon Hillには,1795年建設の州庁舎に隣接して,19世紀の富裕な市民の居住地区が保存されている。これら伝統的な都市の景観と対照をなすのが,1950年代末以来の都市再開発によって生まれた超高層ビルや現代的感覚に富む建造物で,保険会社の資金導入で設立されたプルーデンシャル・センターやジョン・ハンコック・タワー,市庁舎やジョン・F.ケネディ連邦ビルを中心とするガバメント・センターに代表される。文化と学術の都市ボストンには,多くの文化施設と大学がある。ボストン公立図書館,東洋美術収集で名高いボストン美術館,ボストン交響楽団とシンフォニー・ホールなどはいずれも19世紀後半に設立され,19世紀の文化的隆盛を物語っている。チャールズ川を隔てて隣接するケンブリッジにはアメリカ最古の大学ハーバードやマサチューセッツ工科大学があり,ボストン市内にはボストン大学やノースイースタン大学ほか約20校が存在する。大都市圏内には,このほか数多くの高等教育機関がある。近年のボストンにおける医療施設と関連産業の発達,あるいはボストン外環部に成長したエレクトロニクス産業は,大学の研究成果とそこで養成された人材に負うところ大といわれている。
ボストンの歴史は3期に大きく分けることができる。第1期は植民地時代から1830年代までで,貿易・通商を中心とし,第2期は1930年代までで,合衆国西部の開発と工業化に対応して発展した。第3期は第2次大戦と今日にいたるボストンである。ジョン・ウィンスロップに率いられて移住したピューリタンは,イギリス本国の故郷の地名にちなむボストンを建設して,1632年マサチューセッツ湾会社の政府所在地にした。南部や中部の植民地のように豊かな農作物は得られなかったが,魚類,木材,造船資材などの輸出により海運業を発達させ,やがてボストンは本国や西インド諸島をはじめ広域貿易の根拠地として,富を獲得した。18世紀半ばには植民地第1の都市に発達したが,本国による植民地支配の強化には激しく抵抗し,独立革命では愛国派の拠点として指導的役割を果たした。ボストン茶会事件や近郊のレキシントン・コンコードの戦は,これを示している。独立戦争の結果,対英貿易が衰えると中国やロシアとの貿易にのりだし,市民は東洋への関心をいだくようになる。商人層の優勢なボストンでは厳格なカルバン的信仰が薄れたが,ピューリタニズムは道徳として影響力を保持した。ここに抜けめない営利の才をもち,しかも節制を重んじるニューイングランドの市民気質,すなわちヤンキー気質が養われた。教義上は自由を尊重するユニテリアン派が台頭したが,個人の良心や公共に対する責任感の重視,知的営為の尊重など,ピューリタンの伝統が継承された。かかる風土からエマソンらによるトランセンデンタリズム(超越主義)などの知的・精神的活動がやがて引き起こされる。
第2期もボストンの商都としての性格は失われないが,その資本が製造業に投資される。その好例が木綿工業の発達である。西部の開発にもボストンの資本は投資されるが,ニューヨークやシカゴに対抗できず,影響力は漸次弱まった。しかし19世紀半ば以降の多量のアイルランド移民の流入,それに次ぐフランス系カナダ移民,イタリア移民などの新労働力を用いて工業化が促進され,製靴や皮革をはじめ諸産業が市と近郊で栄えた。西部の発展や,移民の流入と工業化とによる都市の変容は市民に文化的伝統への自覚をうながし,多くの文化的施設ができ,ヤンキー文化の振興が図られた。沼沢地を埋め立て旧市民のために新しい住宅地も生まれた。しかしカトリック移民の流入で多様化が進行し,ケネディ家のようにアイルランド系市民は市政に勢力を伸ばした。第1次大戦後,紡績は南部に,皮革は西部に移動したが,電気器具など加工業が興り,また第2次大戦後は伝統的金融業にならんでサービス産業が急増し,都市の活力を養っている。都市再開発は,新しい都市の活動のニーズにこたえる大事業であった。一方,1960年代以降の公民権運動の余波は,他の大都市に比して黒人人口比率の低いボストンにも及んだ。74年には,公立学校における人種統合教育のためのバス通学をめぐって,暴動を伴う緊張が高まった。
執筆者:大下 尚一
イギリス,イングランド東部,リンカンシャー南東部にある商業・港湾都市。地名は654年にこの地に修道院を建設したセント・ボトルフSt.Botolphにちなむ。古称ボトルフス・タウン。人口2万7000(1985)。ウォッシュ湾に流入するウィザム川の河口近くに位置し,周辺の肥沃な農業地帯の中心地として牛などの交易が盛んで,農業機械,農産加工などの工業や貝類の漁業もみられる。13世紀にはハンザ同盟の港町として羊毛,ワインの取引で繁栄し,イングランドではロンドンに次ぐ貿易港に発展,1545年に自治都市となった。しかしその後,河川の沈泥で港湾機能が低下したため衰退した。17世紀にはJ.コットンら多くのピューリタン指導者がこの地から新大陸へ移住し,ニューイングランドに同名の都市が建設された。セント・ボトルフ教会には高さ83mの頂塔がある。
執筆者:長谷川 孝治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州東部の都市で、州都。マサチューセッツ湾に臨む、ニュー・イングランド地方最大の都市である。人口58万9141、大都市圏人口581万9100(2000)。合衆国の独立とその後の発展の歴史につねに重要な役割を果たしてきた同市は、現在も経済・商業・教育・文化の中心地であり、世界最大の港湾都市の一つでもある。工業は、19世紀にアイルランドからの多数の移民を迎えたころから急速な発展をみた。古い伝統をもつ皮革・繊維工業から先端技術産業まで、5000以上の企業が集中しており、食品加工、電子・電気機器、印刷・出版、造船などが盛んである。また、文化・教育の中枢としての歴史も古く、「宇宙の中心」「アメリカのアテネ」などと別称され、とくに19世紀中ごろは、エマソン、ホーソン、ロングフェローやギャリソンといった著名な文化人が各地から集まり、奴隷制度廃止への大きな原動力ともなった。音楽や絵画をはじめとする文化的活動も活発で、ボストン交響楽団を育てるほか、多くの演奏家や画家が世界各地から集まっており、劇場、美術館はつねに活気を呈している。また、ボストン大学、マサチューセッツ大学、近郊のハーバード大学、マサチューセッツ工科大学が一体となって、合衆国の教育・文化の発展の大きな支えとなっていると同時に、医療センターとしても重要である。市域には、文化施設のほか、史跡が多く保存され、東洋美術収集等で名高いボストン美術館(1869創立)や、マサチューセッツ歴史協会(1791)、ボストン公立図書館(1895)、オールド・ノース・チャーチ、オールド・サウス・ミーティングハウス、旧州会議事堂、ボストン・コモン、ボストン国立歴史公園、ボストン大虐殺跡、バンカー・ヒル記念碑、ファニエル・ホールなど多くの史跡が近代的な都市の中でもしっくりと溶け合い、落ち着いた雰囲気を漂わせている。このため、ニュー・イングランド地方の観光・行楽の拠点都市としても知られる。また、1897年以来続けられているボストン・マラソンも有名である。
[作野和世]
先住民インディアンがショウマットとよんだ後のボストン地区が、イギリス人によって探検されたのは、1614年のキャプテン・ジョン・スミスが最初である。この地に大々的な入植が始まったのは、1630年にジョン・ウィンスロップが1000人の移民を率いて到着したときで、2年後この地がボストンと名づけられ、マサチューセッツ湾植民地の首都となり、ピューリタンの神政政治の中心地となった。植民地時代末期には人口約1万5000、五大貿易港の一つとして栄えた。アメリカ独立革命に際しては、1765年の印紙税法反対、70年のボストン虐殺事件、72年の通信連絡委員会結成、73年のボストン茶会事件など、つねに革命運動の先頭にたち、75年4月には郊外のレキシントンとコンコードで独立戦争の火ぶたが切られた。最初の激戦地バンカー・ヒルは、チャールズ川対岸のチャールズタウンにある。
19世紀に入ると、木綿工業を軸とするアメリカ産業革命の中心地として、依然国際貿易上の地位を保ったが、国内通商では西方への水路を欠いたことからニューヨークに先を越された。一方、エマソン、ホーソン、ロングフェロー、ローウェル、ソローなどの文学者や詩人を輩出し、「アメリカのアテネ」と称されるほど、文芸の都として栄えた。すでに植民地時代初期に、対岸のケンブリッジにハーバード大学が設立され、学都としての基礎が築かれた。独立後には公立の図書館や学術協会、美術館や音楽堂などが建設され、ビーコン・ヒルの古雅な住宅街とともに、古い学都としてのたたずまいをいまに伝えている。植民地時代以来、幾度か大火にみまわれたが、最大の被害は1872年の火災で、中心街の800棟が焼失し、被害額は7500万ドルに達した。なお、もとのボストン地区は、海とチャールズ川に挟まれた783エーカー(約317ヘクタール)の狭い岬であったが、沼や入り江が埋め立てられて、1930年までに2倍以上の1800エーカー(約728ヘクタール)に拡張されている。
[富田虎男]
イギリスの児童文学作家。ランカシャーのサウスポートに生まれる。1939年にケンブリッジに近いヘミングフォード・グレイにある1120年建築のイギリスでもっとも古い館(やかた)とされる荘園屋敷(マナー・ハウス)を購入した。このマナー・ハウスをモデルにボストンは、60歳を過ぎてからグリーン・ノウとよばれる古い屋敷を舞台に全6作の「グリーン・ノウ物語」(1954~76)を書き上げ、イギリス児童文学史上に輝かしい名を残すこととなった。
第一作『グリーン・ノウの子どもたち』(1954)、第二作『グリーン・ノウの煙突』(1958)では、グリーン・ノウ家の血を引くトーリー少年が屋敷を訪れ、何百年も前にこの屋敷に住んでいた子供たちと出会う。第三作『グリーン・ノウの川』(1959)では夏休みに招待された子供たちの屋敷のそばを流れる川での探検を描く。第四作の屋敷の外の森を舞台に動物園から脱走したゴリラを中国人の難民少年ピンが捜索隊から守る話『グリーン・ノウのお客さま』(1961)で、カーネギー賞を受賞した。第五作『グリーン・ノウの魔女』(1964)では、屋敷を乗っ取ろうとする魔女との闘いが描かれている。そして、屋敷が建てられた当時の当主の子が未来の屋敷を訪れるという、シリーズ全体が概括できる最後の作品『グリーン・ノウの石』(1976)は、著者84歳のときの作品であった。シリーズを通して現在と過去を巧みに交錯させて歴史の重みを感じさせ、また世の中の不正や大人のもつ醜さに巻き込まれながら、時代を超えて心を寄せ合う子供たちを描き出している。
このシリーズ以外の作品では、コーンウォールの荒々しい海を背景に海の子トリトンと2人の少年の友情、そして海そのものの神秘を美しく描き出した『海のたまご』(1967)が高く評価されている。なおこれらの作品の挿絵はすべて子息のピーター・ボストンPeter Boston(1918―1999)によって描かれ、作品世界をいっそう密度の濃いものとしている。
[佐藤凉子]
『亀井俊介訳『グリーン・ノウの子どもたち』(評論社・てのり文庫)』▽『亀井俊介訳『グリーン・ノウの煙突』(1977・評論社)』▽『亀井俊介訳『グリーン・ノウの川』(1982・評論社)』▽『亀井俊介訳『グリーン・ノウのお客さま』(1983・評論社)』▽『亀井俊介訳『グリーン・ノウの魔女』(1982・評論社)』▽『亀井俊介訳『グリーン・ノウの石』(1981・評論社)』▽『定松正訳『みどりの魔法の城』(1980・大日本図書)』▽『立花美乃里訳『意地っぱりのおばかさん――ルーシー・M. ボストン自伝』(1982・福音館書店)』▽『卜部千恵子訳『ふしぎな家の番人たち』(2001・岩波書店)』▽『長沼登代子訳『リビイが見た木の妖精』(岩波少年文庫)』▽『猪熊葉子訳『海のたまご』(岩波少年文庫)』▽『瀬田貞二訳『まぼろしの子どもたち』(偕成社文庫)』▽『ダイアナ・ボストン著、林望訳『ボストン夫人のパッチワーク』(2000・平凡社)』▽『三保みずえ著『童話・24の扉――イギリス児童文学への招待』(1986・弓書房、鷹書房発売)』▽『さくまゆみこ著『イギリス7つのファンタジーをめぐる旅』(2000・メディアファクトリー)』
イギリス、イングランド東部、リンカーンシャー県の港湾都市。人口5万5739(2001)。ウィザム川河口から約6キロメートル上流の地点に位置する。中世にはハンザ同盟の港としてロンドンに次ぐイングランド第二の港であった。アメリカのボストン(現マサチューセッツ州)の植民者は1630年にこの港から出帆した。現在もアメリカ側が教会の修復資金をイギリス側に提供するなど、密接なつながりがある。
[井内 昇]
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アメリカ,マサチューセッツ州の中心都市。植民地時代に商港として発展,アメリカの独立前夜にはイギリスとの闘争の中心地の一つであった。19世紀になって商港としての重要性は相対的に低下した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…火成岩の地層の上に石灰岩と苦灰岩の地層が重なった構造を示し,上部は浸食によって開析されている。最も高い部分がボストン山脈で,標高600mを超える山々がある。オザーク台地は鉛と亜鉛が豊富であり,また,果樹栽培地域もある。…
…ニューイングランドは歴史的・地理的に一体性の強い地方で,1614年この地方を探検したジョン・スミスによりニューイングランドと名づけられた。20年プリマスに渡来したピルグリム・ファーザーズが初めて入植に成功,30年にはジョン・ウィンスロップを総督とするピューリタンの一団が,ボストンを中心にマサチューセッツ湾植民地を建設した。これに次ぐ10年間に聖職者を含むピューリタンが多数渡来,発展の基礎をつくった。…
※「ボストン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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