日本大百科全書(ニッポニカ) 「パトチュカ」の意味・わかりやすい解説
パトチュカ
ぱとちゅか
Jan Patočka
(1907―1977)
チェコの哲学者、現象学者。東ボヘミアのトゥルノフに生まれる。プラハのカレル大学に学び、トマーシュ・G・マサリクの強い影響を受ける。1928~1929年にパリのソルボンヌ大学(パリ大学)に留学し、フッサールの現象学と出会う。1932年カレル大学で哲学博士の学位取得後、ベルリンとフライブルクに留学し、フッサールとハイデッガーの教えを受ける。1936年、カレル大学に提出した教授資格請求論文『哲学的問題としての自然的世界』を出版。その後同大学で教鞭(きょうべん)をとるが、1939年のナチスによるチェコスロバキア侵攻によってチェコ語で講義する大学が閉鎖され、職を失う。1945年にカレル大学に復帰するが、1948年の共産党のクーデターによりふたたび職を奪われ、1950年から1954年までプラハのマサリク研究所の図書館員を務める。1968年の自由化運動「プラハの春」によってもう一度カレル大学に復帰するが、ソ連の軍事介入後解職される。1977年にバーツラフ・ハベルらとともに、基本的人権の回復を訴えた「憲章77」の発起人の一人となり、そのため逮捕されて長い尋問を受けたのち、脳出血で死亡する。
パトチュカの著作は大きく三つに分類される。第一は、マサリクの哲学をチェコスロバキアの危機の深まりを見据えながら論じた諸論文で、1936年から1976年に至るまで、ほとんど生涯にわたって書き続けられた。フッサールの影響も受けながら彼が問題にするのは、自由で責任あるヨーロッパ的人間性と実証主義・客観主義との関係、宗教思想や民主主義の意味などであり、「行動の人」として評価されるマサリクの理想とチェコスロバキアの現実とのずれが、哲学的に検証されている。
第二は、フッサールとハイデッガーの直接の影響を受けつつ展開される独自の非主観的な現象学である。根源的空間性を「我―汝―それ」の構造としてとらえ返すことによって、フッサールの超越論的な独我論の乗り越えが図られる。この構成的な空間性は、非主観的なものとしての他者が、自己の内に存在することを証すものであるからである。こうしてパトチュカの非主観的現象学は、フッサールの「現出」の問題を深めることによって「世界」を現出の普遍的構造としてとらえ直すのである。
第三は、『歴史哲学に関する異教的試論』(1975)に結実する、歴史哲学・政治哲学的な著作である。前歴史的な生命の世界としての自然的世界から、技術と戦争の世紀としての20世紀に至る、ヨーロッパの運命についての現象学的考察であるこの試論においてパトチュカは、エルンスト・ユンガーやテイヤール・ド・シャルダンの前線についての思索を引用しながらニヒリズムの超克を提唱し、そのモデルをプラトンの「魂への気遣い(ソクラテスが知の探究の倫理的規範として主張し、プラトンが継承した)」にみいだしている。
チェコスロバキアと運命をともにしながら独自の現象学を展開したパトチュカの思想は、1980年代以降ヨーロッパの現象学者たちの再評価を受け、政治論を含む多くの著作がフランス語に翻訳され、ドイツ語の選集も出ている。また彼の歴史哲学は、ヨーロッパ統合の動きのなかで、ヨーロッパ的なものの政治的な意味に関する考察に刺激を与えており、たとえばデリダは『死を与える』(1999)において『歴史哲学に関する異教的試論』の詳細な読解を展開している。
[廣瀬浩司 2015年11月17日]
『ヤン・パトチュカ著、小熊正久訳「フッサール現象学の主観主義と『非主観的』現象学の可能性」(H・ロムバッハ他著、新田義弘・村田純一編『現象学の展望』所収・1986・国文社)』▽『Přirozenýsvět jako filosofický problém(1970, Ceskoslovensky spisovatel, Praha)』▽『Jan PatočkaDie natürlich Welt als philosophisches Problem, hrsg. von K. Nellen und J. Němec, übers. von E. und R. Melville(1989, Klett-Cotta, Wien/Stuttgart)』▽『Kacířské eseje o filosofii dějin(1980, Arkýř, Praha)』▽『Jan PatočkaKetzerische Essais zur Philosophie der Geschichte und ergänzende Schriften, hrsg. von K. Nellen und J. Němec, übers. von S. Marten(1988, Klett-Cotta, Wien/Stuttgart)』▽『石川達夫著『マサリクとチェコの精神――アイデンティティと自律性を求めて』(1995・成文社)』▽『Alexandra Laignel-LavastineJan Patočka, L'Esprit de la dissidence(1998, Michalon, Paris)』▽『Jacques DerridaDonner la mort(1999, Galilée, Paris)』