18世紀に,ギリシア語のphainomenonとlogosの2語を結びつけて造語されたドイツ語Phänomenologieの訳語。この語ははじめ物理学の領域で,運動論の一部門--われわれの外感に現れるかぎりでの物質の運動を扱う部門--を指すために使われ,その後も19世紀末のマッハにいたるまで〈記述的物理学〉という意味合いで用いられていた。マッハの提唱した〈現象学的物理学〉は,原子とか原因・結果といった形而上学的な概念を排除し,感覚的経験に与えられる運動の直接的記述から出発して,それらの記述を相互に比較しながらしだいに抽象度の高い概念を構成してゆくというしかたで,物理学理論を根本的に組みかえることを企てるものであった。一方,物理学におけるこうした用法と並行して,狭義の哲学の領域においてもこの語は,当初は形而上学の予備学としての〈仮象〉の理論を指すために使われていたが(J.H.ランベルト,カント),やがてヘーゲルの《精神現象学》(1807)によって哲学史の表舞台に姿をあらわすことになる。ヘーゲルにあっては,現象学はもはや仮象の理論ではなく,感覚的経験から絶対知へと生成してゆく精神のそのつどの現れ(現象)をその必然的な順序において記述する作業を意味した。この語はさらにその後,20世紀の初頭にフッサールによってふたたび採りあげられ,彼自身の哲学的立場の表示として使われる。やがてこの立場がフッサールの直接間接の弟子たちによって受け継がれ,さらに日本,フランス,アメリカへと移植されて20世紀の主要な哲学的思潮の一つとなったため,今日では現象学といえば,フッサールにはじまるこの哲学的立場を指すのが通例である。以下の叙述でも,この意味での現象学に限定する。
自然科学のめざましい展開にともなって,19世紀中葉には,自然科学の認識方法を無批判に人間的事象に適用しようとする悪しき意味での実証主義が支配的風潮となった。そしてそのもとで心理学,社会学,歴史学,言語学など人間諸科学が成立することになるのだが,やがて1890年代に入ると,これら諸科学の内部でも,また一般的な哲学の領域においても,そうした実証主義的風潮への反省ないし反逆がはじまる。哲学の領域では,新カント学派,ディルタイ,ベルグソン,クローチェらの哲学,アベナリウスやマッハの経験批判論がそれであるが,フッサールの現象学もそうした反実証主義の運動のなかから生まれてきたものである。ことに,フッサールが現象学という概念を直接継承するのはマッハからであるから,現象学と経験批判論はこの運動のなかで当初密接に結びついていたと見てよい。両者はいずれも,当時の精神物理学や生理学的心理学が意識現象(たとえば知覚)を客観的世界内部のできごととして客観的に〈説明〉しようとしたのに対して,あくまで主観に現れるがままの意識現象の〈記述〉を目ざしたのである。こうした〈記述的心理学〉としての出発時点においては,現象学は独墺学派のF.ブレンターノの思想と結びつくところもあったが,やがてフッサールは,おのれの現象学が単に心理学内部での改造の試みにとどまるものではないことを自覚するようになる。というのも,彼は当時の科学的心理学の根本的欠陥が〈客観的世界〉の存在を無条件に前提しているところ--彼はこれを〈世界定立〉と呼ぶ--にあると気づくのである。考えてみればこうした前提は,心理学に限らずすべての人間諸科学が自然科学からその基本的方法とともに受け継いだものであり,それらすべてに共通する根本的欠陥なのであるから,それを是正することは人間科学一般の改革,つまりは普遍的な知的革新の企てとなりうるはずだからである。もともとそうした世界定立をおこない,われわれの意識をも世界内部の一事実と見るのは,日常経験の積重ねのなかで形成された一種の思考習慣であり,実は自然科学も人間科学もこの世界定立を本領とする〈自然的態度〉の延長線上にあるにすぎない。フッサールは,そうした無反省な自然的態度をとりつづけることをやめ,おのれの意識体験を単なる世界内部の一事実と見る見方を停止した。そしてむしろ逆に意識を,そうした客観的世界の想定や,それとともに世界内部的存在者のさまざまな存在意味が形成される絶対的な場として,つまり〈純粋意識〉として見るように見方を転換し--この転換の操作が〈現象学的還元〉と呼ばれる--,そこに多様な意味形成体が成立する次第を分析的に記述しようとする。そうすることによって,実証主義的方法のゆえに当時行きづまっていた人間諸科学のうちに〈意味〉のカテゴリーを回復し,その抜本的改革を遂行しうると考えたのである。これが《純粋現象学および現象学的哲学のための諸構想》(第1巻,1913)で展開された構想であるが,やがて彼はこうした観念論的立場を放棄し,むしろ近代自然科学の客観化的認識作業によっておおわれてしまった,われわれの根源的な〈生活世界〉を回復し,そこから科学的客観化の意味を問いなおそうとする後期の〈生活世界の現象学〉へ移行する(《ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学》1936)。
フッサールのこうした志向は弟子のM.シェーラーによって受け継がれ,1920年代には彼のもとで〈知識社会学〉や〈哲学的人間学〉の構想として結実する。シェーラーは当時進行中であった生物科学(生物学,生理学,心理学)の方法論的改革,ことにユクスキュルの〈環境世界理論〉を批判的に摂取し,人間が一個の生物でありながら,その生物学的環境を超えて人間独自の〈世界〉に開かれているありさまから人間を見てゆこうと企てたのである。同じフッサールの弟子ハイデッガーは《存在と時間》(1927)において,シェーラーのこの着想も採り入れながら,人間の基本的存在構造を〈世界内存在〉としてとらえ,そのようなあり方をする人間が世界や多様な世界内部的存在者ととり結ぶ能動的かつ受動的な関係の総体を解明し,さらにはその関係の根本的な転回の可能性をさえ模索する壮大な存在論を構想する。
やがて1930年代に入り,ナチス政権のもとにドイツ哲学が圧殺されるころには,現象学はフランスに移植され,サルトルの《存在と無》(1943)やメルロー・ポンティの《行動の構造》(1942),《知覚の現象学》(1945)において新たな展開をとげる。サルトルのもとでは現象学は実存主義のための方法的手段にとどまるが,メルロー・ポンティはフッサールの後期思想やシェーラー,ハイデッガーの志向を正しく受け継ぎ,20世紀前半の知的革新において現象学の果たした大きな役割の決算書を提出した。現象学は第2次大戦中に亡命者によってアメリカにも伝えられ,第2次大戦後のアメリカ社会学(現象学的社会学),政治学の展開にも貢献している。現象学研究に関しては,日本もフランスやアメリカより長い歴史をもち,その影響下に九鬼周造《“いき”の構造》(1930),《偶然性の問題》(1935),三宅剛一《学の形成と自然的世界》(1940),市川浩《精神としての身体》(1975)のようなすぐれた成果を生んでいる。
→現象
執筆者:木田 元
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現象を開示する学をいう。しかし現象をどう理解するかによって、現象学はさまざまな意味をもつ。現象学ということばを用いた最初の哲学者はランベルトであり、仮象論の意味であった。カントは『自然科学の形而上(けいじじょう)学的基礎』において、運動を外官の現象として扱う第四部を現象学と名づけた。現象学に決定的な意味を与えたのはヘーゲルである。『精神の現象学』は、感覚的確信から絶対知へ至る意識の経験を叙述している。しかし今日現象学といわれているのは、フッサールに始まる現象学のことである。フッサールは現象学ということばをカント、ヘーゲルから継承したのではない。当時の自然科学、心理学において、直観とかけ離れた概念構成に対する批判として現象学が語られていたが、そうした現象学的方法を徹底するものとして、フッサールは自らの哲学を現象学と名づけたと考えられる。
[細川亮一]
フッサールの現象学は『論理学研究』によって開始された。『論理学研究』はその第1巻(1900)において、レアール(実在的)な心的作用とイデアール(理念的)な思惟(しい)内容とを区別することによって、心理学で論理学を基礎づけようとする心理主義を批判した。にもかかわらず、心的作用はイデアールな思惟内容と関係している。それゆえ『論理学研究』第2巻(1901)はこの相関関係を主題とし、そこで志向性、意味充実としての直観(とくにカテゴリー的直観)という現象学にとって基本的な概念が展開された。フッサールは『純粋現象学と現象学的哲学のための諸考想』第1巻(『イデーンⅠ』1913)において、『論理学研究』での記述的現象学を構成的、超越論的現象学へと発展させた。フッサールは、自然的態度の本質である「世界があり、私がその世界のうちにある」という一般定立を作用の外に置き、エポケー(判断中止)を行う。それは現象学的還元であり、そのことによって不可疑な純粋意識の領域が得られる。そこにおいてノエシス―ノエマ(志向的作用―志向的相関者)の相関関係が取り出され、この相関関係に基づいて構成的現象学が可能となる。『イデーンⅠ』に続いて構想された『イデーンⅡ』は、領域的存在論(自然的世界、生命的世界、精神的世界)に即した構成的現象学の展開である。フッサール現象学は、超越論的主観性における世界構成と自己構成の探究であり、現象学が体系的に完全に展開されれば、真の普遍的存在論となる。晩年の『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』において、科学的世界から、客観的科学によって隠蔽(いんぺい)されていた生活世界への還帰が強調されるが、しかしさらに生活世界から超越論的主観性へと還帰しなければならないとする。フッサール現象学は一貫して超越論的主観性の現象学であった。
[細川亮一]
フッサールを中心に『哲学および現象学的研究年報』(1913~30)が刊行され、それはフッサールに始まる現象学運動の明確な表現となった。『イデーンⅠ』は『年報』第1巻に掲載された。『年報』にはさらにシェラーの主著『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』、ハイデッガーの主著『存在と時間』が発表された。シェラーはフッサールの本質直観の説に影響を受け、感情によってア・プリオリな実質的価値が直観されることを主張した。実質的価値倫理学は、快適価値―生命価値―精神的価値―聖価値という価値の序列として展開された。そのことによってシェラーは、形式主義としてのカント倫理学をその根底から乗り越えようとした。ハイデッガーは、フッサール現象学における志向性、カテゴリー的直観、ア・プリオリの説を発展させることによって、独自の現象学を構想した。『存在と時間』は、フッサール現象学の批判的摂取と、ギリシア哲学、とくにアリストテレスの存在論の批判的継承によって成立した。『存在と時間』において、哲学は現象学的存在論であり、それは現存在が時間から存在を了解しているという洞察によって可能となった。ハイデッガーにおいて現象学は自覚的に西欧哲学の伝統のうちに置かれたのである。
フランスにおいて現象学を展開したのはサルトルとメルロ・ポンティである。サルトルは意識の志向性に基づき、想像や情緒に関する優れた論文を発表した。「現象学的存在論の試み」という副題をもつサルトルの主著『存在と無』は、『存在と時間』における現存在の分析論との対決のうちで構想された。しかしサルトルは『存在と時間』を実存主義として理解しているにすぎない。メルロ・ポンティは後期フッサールの影響のもとで、現象学を、生きられた世界への還帰としてとらえた。『知覚の現象学』はゲシュタルト心理学を批判的に乗り越えることによって、生きられた世界、知覚の主体としての身体を現象学的に分析している。
現象学は現代哲学の一つの運動として、実存哲学、さらに諸科学に大きな影響を与えた。『フッサール全集』『ハイデッガー全集』の刊行により、現象学の再検討とその新たな展開がみられ、さらには現象学と他の哲学との対話が容易となっている。
[細川亮一]
『ハイデッガー著、細谷貞雄訳『ヘーゲルの「経験」概念』(1963・理想社)』▽『メルロ・ポンティ著、竹内芳郎・小木貞孝・木田元他訳『知覚の現象学』(1967、74・みすず書房)』▽『フッサール著、立松弘孝訳『論理学研究』全4巻(1968~76・みすず書房)』▽『フッサール著、池上鎌三訳『純粋現象学及現象学的哲学考案』(岩波文庫)』▽『フッサール著、細谷恒夫訳「ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学」(『世界の名著51』所収・1970・中央公論社)』▽『辻村公一他編『ハイデッガー全集』全102巻(1985~ ・創文社)』▽『木田元著『現象学』(岩波新書)』
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(石川伸晃 京都精華大学講師 / 2007年)
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ヘーゲルでは精神が自己を実現してゆく現象体系をさすが,ふつうはフッサールの哲学の立場をいう。意識の主体的側面(ノエーシス)と客体的側面(ノエマ)を相関関係としてとらえ,意識を純粋意識にまで還元して,本質直観という高次の認識を見出し,哲学に学問性を確保しようとするもの。人文系の諸学,特に美学には大きな影響を与えている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…現象学的哲学を確立したオーストリア出身のユダヤ系ドイツ人。1886年にユダヤ教からルター派キリスト教に改宗。…
…E.フッサールの現象学の方法に依拠して法を解明しようとする法哲学・法学。フッサール現象学じたいの発展のどの段階に拠るかで異なるが,初期現象学の〈本質直観〉の方法に拠るものとしてライナハA.Reinach,シュライアーF.Schreier,カウフマンF.Kaufmann,フッサールG.Husserlの諸著がある。…
※「現象学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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