マサリク(英語表記)Tomáš Garrigue Masaryk

デジタル大辞泉 「マサリク」の意味・読み・例文・類語

マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk)

[1850~1937]チェコスロバキア政治家哲学者チェコ民族独立運動を指導。第一次大戦後、チェコスロバキア共和国初代大統領(在任1918~1935)に就任、建国の父とよばれた。

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改訂新版 世界大百科事典 「マサリク」の意味・わかりやすい解説

マサリク
Tomáš Garrigue Masaryk
生没年:1850-1937

チェコスロバキアの哲学者,政治家。モラビアの農村の生れ。徒弟奉公などを経験したが,苦学の末ウィーン大学を卒業し,1879年には大学教授資格を取得し,82年にプラハカレル大学(現,プラハ大学)に新設されたチェコ人部門の哲学教授となった。学者としては論理学,歴史哲学,ロシア思想など,広い分野で著作を発表し,当時は新しい学問であった社会学を初めてチェコに導入したことでも功績があった。また当時の社会問題にも関心を示し,しだいにチェコ人の民族運動にも加わるにいたり,オーストリア帝国議会にも議席を得たが,キリスト教的ヒューマニズムに基づく民族主義を唱え,排他的民族主義を批判した。第1次世界大戦中,西欧に亡命し,そこで独立運動を展開した。1918年のチェコスロバキア独立で初代大統領に就任。35年に引退するまで強い政治的影響力をもち,同国の議会政治の安定に力を尽くした。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マサリク」の意味・わかりやすい解説

マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk)
まさりく
Tomáš Garrigue Masaryk
(1850―1937)

チェコスロバキアの哲学者、社会学者、政治家。初代大統領。スロバキアとの境界に近いモラビアの農村に生まれる。父はスロバキア人、母はモラビア生まれである。苦学ののち、1876年にウィーン大学で哲学を修めた。82年にプラハのカレル大学に哲学教授として迎えられる。学者としては、ロシア思想研究やまだ新しい学問であった社会学で貢献した。教鞭(きょうべん)をとるかたわらジャーナリズムでも活躍し、90年には青年チェコ党からオーストリア帝国議会の議員となった。のち独自の小政党(現実党)を設立。マサリックは帝国の民主的、連邦的な改革を主張していたが、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると西欧に亡命し、E・ベネシュ、R・M・シュチェファーニクらとともにチェコスロバキア民族会議を設立、独立運動を展開した。1918年チェコスロバキア共和国が独立すると、その初代大統領に選出され、新国家の象徴的な存在となった。35年に引退するまで、国民的な人気を背景に、内外政に大きな影響力をもった。とくに議会の中道的な諸勢力の連立を支持し、漸進的な社会改革を唱え、チェコスロバキアの議会制民主主義を擁護した。また国内の民族対立の解決にも努力した。外交面では、ベネシュ外相の対外政策を一貫して支持し、それを内政面から支えた。

[林 忠行]


マサリク(Jan Garrigue Masaryk)
まさりく
Jan Garrigue Masaryk
(1885―1948)

チェコスロバキアの政治家。父は初代大統領T・G・マサリク。1918年チェコスロバキア独立直後に外務省に入る。第二次世界大戦中はロンドンの亡命政府に外相として加わる。戦後も国民戦線内閣で外相となり、48年の二月革命(1948)後も非共産党員の閣僚として留任したが、同年3月に自殺。その死因に疑問をもつ者もいるが、詳細は不明。

[林 忠行]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マサリク」の意味・わかりやすい解説

マサリク
Masaryk, Tomáš Garrigue

[生]1850.3.7. モラビア,ホドニーン
[没]1937.9.14. プラハ近郊ラニ
チェコスロバキアの哲学者,政治家。スロバキア人の御者の子。小学校を出て一時職人の徒弟となったが,教師を望んでブルーノ,ウィーンで学び,1876年ウィーン大学で哲学博士号を獲得。 82年プラハ大学教授。 83年月刊評論誌『アテナエウム』を刊行。 91年青年チェコ党から初めてオーストリア帝国議会に選出された。 93年議員をやめ,同年 10月,月刊評論誌『ナシェ・ドバ』を創刊,レアリストと呼ばれるグループが形成された。 1907年本格的な政治活動を開始。第1次世界大戦勃発を契機に,オーストリア帝国からのチェコスロバキア独立を連合国側に精力的に訴え,その支持を得た。 18年 10月チェコスロバキア初代大統領に選ばれ,35年まで在職。著書は『具体的論理の基礎』 Zakladove Konkretni Logiky (1885) ほか多数。

マサリク
Masaryk, Jan Garrigue

[生]1886.9.14. プラハ
[没]1948.3.10. プラハ
チェコスロバキアの政治家。 T.マサリクの息子。 1907年アメリカに渡ったが,第1次世界大戦の直前にプラハに戻り,大戦中はハンガリー連隊に従軍。 18年チェコスロバキア独立とともに外務省に入り,19年アメリカ駐在代理公使,20年イギリス駐在参事官,21年 E.ベネシュ外相の秘書。 25年以来,イギリス駐在公使として活躍したが,38年9月 30日ミュンヘン協定に抗議して辞職。第2次世界大戦中は,ロンドン亡命政府の外相として,ロンドンから占領下のチェコスロバキアに放送を続け,戦後 45年7月帰国,ベネシュ大統領のもとで外相。 48年2月 25日の共産党のクーデター後もしばらく外相に留任したが,3月 10日死体となって発見された。秘密警察が殺して,外務省の建物から投身自殺したと見せかけたという説が強い。

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百科事典マイペディア 「マサリク」の意味・わかりやすい解説

マサリク

チェコの政治家,哲学者。プラハ大学教授。かたわら独立運動に参加,青年チェコ党に属し,のちリアリスト党(チェコ人民党)を結成。第1次大戦とともにフランスに亡命してチェコスロバキア国民会議を設立。戦後チェコスロバキアの初代大統領(1918年―1935年)として内政に努め〈建国の父〉と呼ばれる。哲学者としては独自の現実主義を主張,《ロシアとヨーロッパ》など著書多数。その子ヤン・マサリクJan Masaryk〔1886-1948〕は外交官で,第2次大戦中は亡命政府の外相,副首相。戦後外相となったが,1948年2月の革命に際し自殺したといわれる。
→関連項目チェコスロバキアベネシュ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マサリク」の解説

マサリク
Tomáš Garrigue Masaryk

1850~1937

チェコの政治家,哲学者。モラヴィア出身。ウィーン大学で学び,1882年にプラハ大学の社会学・哲学教授に就任。91年に青年チェコ党選出のオーストリア帝国議会議員。1900年には自由主義的なリアリスト党(チェコ人民党)を組織し,オーストリア批判を展開した。第一次世界大戦中は国外で独立運動を指導。1918年のチェコスロヴァキア独立で初代大統領に就任。西欧型民主主義を擁護し,極端な民族主義を排して,35年に引退するまで同国の議会政治の安定に尽力した。主著『チェコ問題』『ロシアとヨーロッパ』。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マサリク」の解説

マサリク(トマス)
Tomás Garrigue Masaryk

1850〜1937
チェコスロヴァキアの初代大統領(在任1918〜35)
社会心理学者であったが,政界入りしてオーストリアからのチェコ独立運動に努力。第一次世界大戦中は亡命して諸国の支持を求め,1918年10月独立宣言を発表して帰国,大統領に就任した。

マサリク(ジャン)
Jan Garrigue Masaryk

1886〜1948
チェコスロヴァキアの政治家
T. G.マサリクの子。第二次世界大戦中,ロンドンの亡命政府の外相・副首相。解放後も外相に就任したが,共産党によるクーデタの後,政治的ゆきづまりから自殺。

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世界大百科事典(旧版)内のマサリクの言及

【スロバキア】より

…しかし67年オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立によってハンガリーに大幅な国家主権が付与されると,ハンガリー化政策はふたたび強化され,スロバキア語ギムナジウムとマチツァ・スロベンスカーは74-75年に閉鎖された。その後もスロバキア民族運動はマルティンを拠点として維持されていたが,世紀末ころにチェコ人哲学者T.G.マサリクの思想に啓発されたグループ(フラスHlas派)が形成され,チェコ人との文化的連帯運動を促進した。1905年にはカトリック神父フリンカに率いられたスロバキア人民党運動も形成された(スロバキア人民党Slovenská l'udová stranaとしての正式創設は1918年)。…

【チェコスロバキア】より

…また,この時期のスロバキアについては,〈スロバキア〉の項目に詳しい。
[戦間期の第一共和国]
 1918年10月,T.G.マサリクによる〈ワシントン宣言〉に続いて,プラハの国民委員会がチェコスロバキア国家の成立を宣言した。スロバキアでも〈マルティン宣言〉が出され,〈チェコスロバキア民族〉の国家が形成されることになった。…

※「マサリク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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