翻訳|positivism
一般に,経験に与えられる事実の背後に超経験的な実体を想定したり,経験に由来しない概念を用いて思考したりすることを避け,事実のみに基づいて論証を推し進めようとする主張をいう。positiveという形容詞には,negative(〈否定的,消極的,陰性の〉)と対をなす〈肯定的,積極的,陽性の〉という意味もあるが,それとは意味論的に区別され,negativeとは対をなさない〈実証的,事実的〉という意味もあり,それは次のような事情で生じたものである。この形容詞はラテン語の動詞ponere(設定する)の過去分詞がそのまま名詞化されたpositum(設定されたもの)に由来するが,このばあいこれは〈神によって設定されたもの〉を意味する。つまり,この世界にはとうてい神によって設定されたとは思えない悪や悲惨なできごとが数多く存在するが,しかし人間の卑小な理性にはどれほど理解しがたいものであろうと,それもやはり神によって定められた事実,神のおぼしめしとして人間が受けいれるしかない事実である。そこからpositumに〈不合理だが厳然と存在する事実〉という意味が,そしてpositiveに〈事実的〉という意味が生じた。18世紀の弁神論的発想から生じた語義であり,〈既成性〉と訳される初期ヘーゲルの用語Positivitätも同じ文脈に属する。
〈実証主義〉は積極的主張としても軽蔑的な意味合いでも使われる。19世紀初頭にC.deサン・シモンやコントによってこれがはじめて提唱されたときは,むろん積極的主張であったが,19世紀末に〈実証主義への反逆〉がはじまると,それは〈唯物論〉〈機械論〉〈自然主義〉などと等価な蔑称として使われた。自然科学的認識方法を無批判に人間的事象に適用する当時の支配的な思想傾向が漠然とこの名で呼ばれ,批判されたのである。だが,同じ世紀末でも,マッハやアベナリウスの経験批判論が実証主義と呼ばれるのは,肯定的な意味においてである。彼らは科学的認識からいっさいの形而上学的要素を排除しようと意図する。実体間の力の授受の関係を予想する原因・結果の概念はもとより,精神や物質という概念,したがって心的・物的の区別さえもが排除され,ただ一つ経験に与えられる基本的事実である〈感覚要素〉相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的として指定されることになる。1920年代には,このマッハの伝統の上に,B.A.W.ラッセルやウィトゲンシュタインによって完成された論理分析の方法を採り入れたウィーン学団によって論理実証主義が提唱され,30年代以降これがイギリス,アメリカに移され,現代哲学の主流の一つとなった。実証主義がこのように肯定・否定両様に解されるのも,そこで考えられている〈事実〉が何を指しているかによる。19世紀の実証主義が批判の的にされたのは,その事実概念が古典的自然科学の狭い認識論的前提に制約されたものだったからである。
執筆者:木田 元
社会科学の領域での実証主義は,C.deサン・シモンが自然科学の方法を用いて人間的・社会的諸現象を全体的かつ統一的に説明するために最初に提唱したのに始まり,コントに継承されて体系づけられて以来,19世紀後半から20世紀にかけて西ヨーロッパをはじめ全世界に及ぶ科学的認識論の支配的な立場となった。
サン・シモンは《19世紀の科学的研究の序説》(1808)や《人間科学に関する覚書》(1813)において,従来の社会理論は単なる推測に基づいた独断的で形而上学的なものにすぎないと批判し,これに代えて,経験的現象の背後に神とか究極原因といった超経験的実在を認めず,〈観察された事実〉だけによって理論をつくり,経験的事実の裏づけによって実際に確証された理論こそ〈実証的positif〉で科学的なものとみなされなければならないとした。そして,この見地から,天文学,物理学,化学,生理学という順序で実証的になってきた科学的方法を用いて社会現象を研究し,政治,経済,道徳,宗教などを含むいっさいの人間的・文化的・社会的事象の相互関連性を総合的・統一的に説明すべきであると主張し,それを〈社会生理学〉と命名した。コントはサン・シモンの基本構想を引き継ぎ,さらにいっそう体系化し,《実証哲学講義》全6巻(1830-42)において〈実証的〉という語を定義し,〈架空〉に対する〈現実〉,〈無用〉に対する〈有用〉,〈不確定〉に対する〈確定〉,〈あいまい〉に対する〈正確〉,〈消極的,否定的〉に対する〈積極的,建設的〉などの特徴をあげた。そして実証的とは〈破壊する〉ことでなくて〈組織する〉ことであると説き,人間の知識と行動は〈神学的〉-〈形而上学〉-〈実証的〉になるという〈3段階の法則〉を提示し,社会現象についての実証的理論を〈社会学sociologie〉,実証的知識に基づいて自然界,精神界,社会界を全体的に一貫して説明する理論を〈実証哲学philosophie positive〉と呼んだ。
コントの説はイギリスのJ.S.ミルに高く評価され,ミルは《コントと実証主義》(1865)を書き,〈コントこそは実証主義の完全な体系化を企て,それを人間の知識のあらゆる対象に科学的に拡大した最初の人であった〉と述べた。これ以降,実証的すなわち科学的という通念が世界的に普及した。フランスの社会学者デュルケームはこの立場をさらに徹底させて比較法や統計的方法を用いてすぐれた社会研究の業績をあげ,これによって社会科学における実証主義が確立された。天与の自然法という考えを排して現実の実定法だけを研究対象にする法実証主義はこの流れをくむものであり,調査によって得られた事実的資料に基づいて理論をつくるという今日の社会科学における方法論もこれに立脚している。このように実証主義は個々の事実の収集から一般理論の形成に進む帰納主義的立場をとるが,ポッパーは事実の観察や収集がそれ自身すでに一定の観点と仮説に基づいたものであって,個々の事実の集積から一般理論は生まれず,また理論は個々の事実によって確証されないことを論理的に明らかにして実証主義に鋭い批判を加えた。
執筆者:森 博
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サン・シモンが初めて用い、コントが採用して以来、有名になったことばとされ、狭い意味ではコント自身の哲学をさすのに用いられるが、広い意味では、経験を重んじ、超越的なものの存在を否定しようとする傾向一般をさす。イギリスの経験論哲学も、広い意味ではこの実証主義に入るし、実地を踏んでこつこつ証拠を拾い上げようとする探偵を「彼は実証主義者だから」とよぶのも妥当な言い方だということになる。自然科学も実証主義的な学問だとされることがある。
問題は、「経験」という概念が哲学的に問題の多い概念であって、その解釈いかんによって「実証主義」の覆う範囲がいかようにも伸び縮みすることである。実証主義者とよばれる人も多くは数学の有効性を認めるが、現代の数学では、集合という抽象的で一面超越的ともみえる存在を前提している。また、自然科学にも、感覚を通じて直接経験できる範囲を越え出た実在の存在を前提している面がある。こうした数学や自然科学を許容する立場をとると、実証主義者は、敵対しているはずの形而上(けいじじょう)学を整合的に否定することがむずかしくなる。さればといって数学や科学を否定すれば、甚だ狭い立場になってしまう。実証主義はむしろ、19世紀に科学の目覚ましい躍進に目を奪われて伝統的な形而上学に挑戦したくなった人たちの心情を表す歴史的名称としておいたほうがよいかもしれない。マッハやアベナリウスが実証主義者の代表のようにいわれるのも、この観点からであろう。ウィーン学団の思想も、論理の役割を重視する実証主義、すなわち「論理実証主義」とよばれた。
[吉田夏彦]
あらゆる形而上学的な仮説を排除して,知識の対象を経験的に与えられた事実に限定しようとする考え方。人間と社会の諸現象も,自然科学の方法を用いて統一的に説明できるというサン・シモンの提唱に始まった。コントに継承されて体系化され,19世紀後半から20世紀にかけて認識論の支配的立場を占めた。しかしこの立場そのものが一つのドグマになるとする批判が展開している。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…すなわち社会科学は自然科学と方法的に同じものであるとする考え方(この場合にはノモスが方法的にフュシスとして扱われうるとの前提がおかれる)と,社会科学は自然科学と方法的に同じ意味での科学ではありえないとする考え方(この場合にはノモスをフュシスと同じ方法で扱うことはできないとの前提がおかれる)とがこれである。以下では,前者の考え方を実証主義的社会科学観,後者の考え方を理念主義的社会科学観と呼ぶことにする。
【成立史】
フュシスと区別された意味でのノモスについての学問(文科系の学問)は,人文学(以下このように〈科学〉の語を除去して用いる)と社会科学とに分かれる。…
※「実証主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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