日本大百科全書(ニッポニカ) 「パブリック・スクール」の意味・わかりやすい解説
パブリック・スクール
ぱぶりっくすくーる
public school
イギリス独特のいわゆる紳士の教育を目的とする私立中等学校。私立であるにもかかわらず「パブリック」というのは、中世の発生期にどこの地域の出身者にも等しく開かれ、基本財産からの奨学金により有為な卒業生を輩出した事実からきている。パブリック・スクールは、その指標のとり方により、範囲と数が異なる。一般的には、政府の補助を受けない独立学校(インディペンデント・スクールindependent school=私立私営学校)のうち、校長協議会Headmasters' Conference(1869年創設)に加盟する学校で、イートン、ウィンチェスター、ウェストミンスター、チャーターハウス、ハロー、ラグビー、シュールズベリー、セント・ポールズ、マーチャント・テイラーズという日本でも知られている伝統的な九大パブリック・スクール(9 great public schools)を含む約250校をさす。
[桑原敏明]
起源
パブリック・スクールの起源は14世紀にさかのぼる。最古のウィンチェスターが1382年で、以下イートン1440年、セント・ポール1510年、シュールズベリー1552年、ウェストミンスター1560年、マーチャント・テイラーズ1561年、ラグビー1567年、ハロー1571年、チャーターハウス1612年設立といったぐあいである。これらはみな、学校類型的にはパリ大学やオックスフォード大学、ケンブリッジ大学など中世大学への進学準備教育を施すグラマー・スクール(文法学校)であった。19世紀も中ごろになると、産業革命や科学技術の発達を背景に学校教育への需要が広がり、私立の各種各段階の学校が無秩序に存在していた。イギリス政府は、国際競争に打ち勝つ人材を系統的に育成するために、この無秩序な学校種類を体系化する政策を開始する。1833年には初等教育に国庫補助を開始し、1840年にはグラマー・スクール法を制定し、1861年にはクラレンドン委員会を設置してパブリック・スクールの実態を調査させ、その報告に基づいて1868年にパブリック・スクール法を制定する。パブリック・スクール側でも校長たちが1869年に前記の協議会を結成し、基準にあった私立グラマー・スクールの認定をして自分たちの地位の保全と向上に努力するようになる。こうしてこの協議会から認定された学校がパブリック・スクールなのである。
[桑原敏明]
特徴
パブリック・スクールは、公立グラマー・スクールに対して以下の特徴をもっている。
(1)寄宿制学校で、チューター制による少人数教育を徹底し、スポーツ、上流社会の礼儀と人格の教育にも力を入れる。
(2)充実したシックス・フォーム(大学入学資格試験の準備教育を行う中等学校上級学年)をもち、オックスフォード大学やケンブリッジ大学など有力大学に多数進学させ、学界、政界、経済界の有能なリーダーを輩出している。
(3)高い授業料を徴収する。
(4)しっかりとした基本財産をもっていて、公費補助を受けない。
中世からの伝統をもち、社会に有能な人材を輩出してきたパブリック・スクールは、きわめて高い社会的評価を受け、一般庶民の学校とは別世界を形成してきた。男子校は13歳から18歳、女子校は11歳から18歳の児童・生徒を教育する形態が一般的であるが、ここへの入学は、とくに男子の場合、私立私営のプリ・プレパラトリー・スクールpre-preparatory school(2歳~7歳)からプレパラトリー・スクールpreparatory school(8歳~13歳)を経て入学試験に合格しなければならない。このような特権的な性格を有するパブリック・スクールの存在は、すべての国民子弟に共通な総合制中等学校制度の確立を目ざす労働党政権により早くから問題にされ、同政権下で、パブリック・スクールを寄宿制公教育へ再編することが目ざされた(たとえば1968年のニューサム委員会報告)。しかし、パブリック・スクールがイギリス社会に下ろした根は深く、いまのところ少しも実態は変わっていない。
[桑原敏明]
『ジェフリー・ウォルフォード著、竹内洋・海部優子訳『パブリック・スクールの社会学――英国エリート教育の内幕』(1996・世界思想社)』▽『池田潔著『自由と規律 イギリスの学校生活』改版(岩波新書)』▽『竹内洋著『パブリック・スクール――英国式受験とエリート』(講談社現代新書)』