フランス革命期に結成され、制度的には1871年まで続いた民兵組織の市民軍。国民衛兵(隊)とも訳される。
[桂 圭男]
1789年7月13日、前日来のパリの騒然とした情勢のなかで、ベルサイユに集結された王国の軍隊による、憲法制定国民議会に対するクーデターの脅威に対抗し、パリの公安と市民の財産を守るため、有産市民の選挙人の提案により、16軍団60大隊からなる義勇兵組織の市民軍が結成された。翌14日のバスチーユ要塞(ようさい)の奪取を経て、15日、総司令官に推戴(すいたい)された自由主義貴族のラ・ファイエットによって「国民軍」と命名された。やがて全国の都市で国民軍が結成され、同年12月以降、市政機関の監督下に置かれた。士官は原則として選挙人によって選ばれた。パリでは90年8月までに組織編成を完了、制服、軍旗、3色の帽章が支給された。91年6月の国王ルイ16世の国外逃亡未遂事件(バレンヌ逃亡事件)を契機とする民衆勢力の台頭に不安を感じた議会は、同年10月、法によって、選挙資格をもたぬ受動的市民(シトワイヤン・パシフ)を組織から排除したため、国民軍は著しくブルジョア化した。しかし92年春に始まった革命防衛戦争を契機としてパリの革命情勢が急速に成熟するに伴い、多数の受動的市民が自発的に組織に加わり、同年8月10日の王制打倒の共和主義革命に積極的な役割を果たした。国民軍は、本来国内の正規軍=常備軍と反革命勢力に対抗するための組織であったが、やがて外敵を撃退するため国境にも派遣されるようになり、革命軍の重要な一翼を担った。94年7月のテルミドールの反動後、組織は再編成されたが、翌年の王党派のバンデーの反乱に際して総裁政府に反抗したため、暴動鎮圧後廃止された。しかし、1805年ナポレオン1世によって復活、有産市民から構成されたが、15年の戦役には民衆諸階層も参加、連盟兵fédérésとよばれた。
[桂 圭男]
国民軍は、復古王朝期に粛清を受けながらもリベラルな傾向を保持して存続、1830年の七月革命に際しては革命側に加担した。七月王政期に再組織され、20歳から60歳までの、地租を支払い、もっぱら秩序と王制の維持に関心をもつ有産市民から構成され、内務大臣と各県知事の命令下に置かれた。31年のリヨンの場合のように反乱側につくこともあったが、パリでは共和主義者の暴動鎮圧に利用されることが多かった。48年の二月革命後、第二共和政臨時政府によって組織の民主化が図られ、参加資格は全市民に拡大され、兵員も4倍に増加した。これに伴い、組織内部のブルジョアと労働者との対立が激化、同年6月の労働者の暴動時には、多くの大隊が政府側にたって鎮圧に協力した。51年12月2日の大統領ルイ・ナポレオンのクーデター後、政府が国民軍組織の結成、停止、および士官の任免権を握り、翌年の第二帝政の成立とともに組織は完全に体制内化された。
[桂 圭男]
パリの国民軍が労働者を主体とする民衆の武装自治組織という性格を帯びるのは、1870年のプロイセン・フランス戦争を契機としてである。相次ぐ敗北のなかで民衆地区にも大隊の結成が認められ、9月4日の第二帝政崩壊後、組織は254大隊、約30万人に膨れ上がり、籠城(ろうじょう)戦中は国防政府の早期講和路線に反対して徹底抗戦を主張した。71年1月末の休戦条約締結後、国民軍連合を結成、中央機関の国民軍中央委員会が3月18日の民衆反乱後パリの支配権を握り、市政選挙を管理、3月28日パリ・コミューン(評議会)を成立させた。その後中央委はコミューン評議会との内部対立を深めたが、5月末のコミューン崩壊後、8月30日の法律によって国民軍は正式に制度として廃止された。
[桂 圭男]
『Louis GirardLa Garde Nationale(1964, Plon, Paris)』▽『リサガレー著、喜安朗・長部重康訳『パリ・コミューン』上下(1968、69・現代思潮社)』
フランス革命に際して組織され,1871年,パリ・コミューンの鎮圧によって最終的に解体したフランスの民兵組織。その性格は時代と共に変化している。
1789年7月14日のバスティーユ攻撃の前夜,パリの選挙人集会が市民軍の結成を決議し,15日ラ・ファイエットを総司令官に任命し,国民軍60大隊を組織することとした。これに地方の各都市も呼応し,91年10月の法令によりその法的枠組みが定められた。この法律により隊員は選挙権のある市民に限定された。以後のフランス革命の展開のうえで,特に重要な役割を果たしたわけではない。テルミドール9日以後に再編されて“愛国者”は排除され,95年の王党派の国民公会攻撃に協力して,ナポレオンの軍隊に一蹴され,解体した。1805年以後,国境守備の任にあてるため,ナポレオンは国民軍を再建した。14年の連合軍のパリ進攻に際しては,首都の防衛に積極的にあたり,その後は市内の安全の維持に努めた。王政復古期には王政批判の立場を濃厚にし,27年,シャルル10世の閲兵式で内閣打倒を叫んで解散させられた。
国民軍が重要な意味をもったのは,七月王政期のパリであった。七月革命により王位についたルイ・フィリップは,革命を実現させたパリ民衆を抑え,秩序を回復させるために,国民軍の再編をおこなう。31年3月の法令でそれは25歳から60歳の軍籍にないすべての男子により構成されることになったが,常備とされた者のみで隊は構成された。常備は対人課税納入者に限定されており,これはパリでは労働者層を国民軍から事実上排除することを意味していた。パリの各区に1軍団,各街区に1大隊(6中隊からなる)がおかれることになった。したがって中隊はきわめて狭い界隈の住民から編成されたことを意味している。界隈の名士といわれる人々,とくに民衆居住地区では,商店主層が隊務をとりしきることになり,日常的には界隈の治安の維持と公共建物の警備が中隊の仕事であった。隊員でない労働者層は常に監視される立場にあったといえる。しかし,この体制は常に有効に機能したわけではなく,二月革命において民衆蜂起が実現する時,国民軍の機能は麻痺した。革命後の改編で労働者層も隊員となった。六月暴動に立ちあがったパリの労働者は,まず自己の属する中隊を解体させるか,その主導権を奪取することをめざした。それは狭い生活の場を二分する闘いであった。暴動鎮圧後,民衆地区の国民軍は解体させられた。ルイ・ナポレオンのクーデタ後,国民軍の管理の基本は政府に移り,隊は縮小する。
70年の普仏戦争で再び国民軍は編成され,国防政府のもとでパリ市民は自発的に大隊を形成していく。パリ開城で正規軍の武装解除がおこなわれる時,国民軍のみが武器を保持し続けた。このなかで国民軍連盟中央委員会が自発的に結成され,加入した兵士は連盟兵としてパリ・コミューンを担った。
執筆者:喜安 朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…こうして戦争を行う権限は国王に独占されていくが,高価な軍隊の損耗を恐れたため絶対王政時代の戦争には徹底的な殲滅戦(せんめつせん)が少ない。
[国民軍の登場と近代戦]
職業軍人によらない国民軍の形成には,国によってはなはだしい差がある。フランスでは農民に特権を与えて出役させる免税弓兵の制が試みられた(1445)が定着しなかった。…
… 徴兵制は,国家防衛の観念が国民全体に普及し,国民が平時においても兵役義務を受け入れるような国民統合の条件のもとで可能となる。近代軍隊の端緒であるフランス革命時の国民軍は,絶対君主を打倒した国民主権の観念と革命防衛の愛国的ナショナリズムが結合することにより生まれたものであった。ナポレオン率いるフランス国民軍のプロイセン傭兵軍に対する勝利(1806年のイェーナの戦)は,徴兵制が世界に広がるきっかけとなった。…
…すなわち,パリの革命化を恐れプロイセンとの和平を欲していた国防政府は,パリ民衆の徹底抗戦の要求の前にしだいに統治能力を喪失し,パリの各地区において既存の権力が機能しなくなるとともに,それにかわって各地区の民衆の直接民主制に基づく局地的権力が形成されていったのである。 9月4日以後の民衆運動の核になったのは,国民軍とさまざまな政治クラブであった。国民軍は,9月初めには60大隊であったが,同月末には260大隊まで増加した。…
※「国民軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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