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国民軍 こくみんぐんGuo-min-jun

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

国民軍
こくみんぐん
Guo-min-jun

中国の国民革命北伐期の 1924~28年,軍閥馮玉祥らによって組織された軍隊の呼称。正式名称は中華民国国民軍。 24年 10月第2次奉直戦争の際,直隷派呉佩孚のもとにいた部将馮玉祥は,10月 23日クーデターを起して直隷派を敗北に追込み,25日国民軍を創設し,張作霖と提携して段祺瑞を執政とする北京政府を成立させた。馮玉祥は察哈爾,綏遠,甘粛,陝西,河南に勢力を拡大して張作霖と対立しはじめ,25年 11月張の部将郭松齢と手を結んで反乱を起したが,日本の関東軍の干渉によって郭松齢は死亡し,張らの奉天派は直隷派と提携して国民軍との間に奉国戦争を展開して国民軍を敗北させた。 26年3月馮は国民軍を張之江,鹿鍾麟らにゆだねてソ連へ亡命し,9月に帰国すると国民聯軍 (西北国民軍) 総司令に就任。広東の国民政府による国民革命軍の北伐に呼応して河南に進出し,27年反共を明確にした蒋介石と結んで 28年西北国民軍を国民革命軍第2集団軍に改編し,国民軍の名称は消滅した。

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デジタル大辞泉の解説

こくみん‐ぐん【国民軍】

国民兵によって編制された軍隊。
1789年フランス革命勃発とともに、貴族の武力反動から革命を守るために各地で組織された市民による自衛軍。

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世界大百科事典 第2版の解説

こくみんぐん【国民軍 Garde nationale】

フランス革命に際して組織され,1871年,パリ・コミューンの鎮圧によって最終的に解体したフランスの民兵組織。その性格は時代と共に変化している。 1789年7月14日のバスティーユ攻撃の前夜,パリの選挙人集会が市民軍の結成を決議し,15日ラ・ファイエット総司令官に任命し,国民軍60大隊を組織することとした。これに地方の各都市も呼応し,91年10月の法令によりその法的枠組みが定められた。この法律により隊員選挙権のある市民に限定された。

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大辞林 第三版の解説

こくみんぐん【国民軍】

広く国民によって編制される一国の軍隊。傭兵ようへい軍に対していう。
フランスで1789年、市民が自衛のため組織した軍隊。主として治安維持にあたった。
旧日本軍において、国民兵によって編制された軍隊。戦時に、地域の治安維持・警備にあたった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

国民軍
こくみんぐん
Garde nationaleフランス語

フランス革命期に結成され、制度的には1871年まで続いた民兵組織の市民軍。国民衛兵(隊)とも訳される。[桂 圭男]

フランス革命とナポレオン時代

1789年7月13日、前日来のパリの騒然とした情勢のなかで、ベルサイユに集結された王国の軍隊による、憲法制定国民議会に対するクーデターの脅威に対抗し、パリの公安と市民の財産を守るため、有産市民の選挙人の提案により、16軍団60大隊からなる義勇兵組織の市民軍が結成された。翌14日のバスチーユ要塞(ようさい)の奪取を経て、15日、総司令官に推戴(すいたい)された自由主義貴族のラ・ファイエットによって「国民軍」と命名された。やがて全国の都市で国民軍が結成され、同年12月以降、市政機関の監督下に置かれた。士官は原則として選挙人によって選ばれた。パリでは90年8月までに組織編成を完了、制服、軍旗、3色の帽章が支給された。91年6月の国王ルイ16世の国外逃亡未遂事件(バレンヌ逃亡事件)を契機とする民衆勢力の台頭に不安を感じた議会は、同年10月、法によって、選挙資格をもたぬ受動的市民(シトワイヤン・パシフ)を組織から排除したため、国民軍は著しくブルジョア化した。しかし92年春に始まった革命防衛戦争を契機としてパリの革命情勢が急速に成熟するに伴い、多数の受動的市民が自発的に組織に加わり、同年8月10日の王制打倒の共和主義革命に積極的な役割を果たした。国民軍は、本来国内の正規軍=常備軍と反革命勢力に対抗するための組織であったが、やがて外敵を撃退するため国境にも派遣されるようになり、革命軍の重要な一翼を担った。94年7月のテルミドールの反動後、組織は再編成されたが、翌年の王党派のバンデーの反乱に際して総裁政府に反抗したため、暴動鎮圧後廃止された。しかし、1805年ナポレオン1世によって復活、有産市民から構成されたが、15年の戦役には民衆諸階層も参加、連盟兵fdrsとよばれた。[桂 圭男]

復古王朝から第二帝政まで

国民軍は、復古王朝期に粛清を受けながらもリベラルな傾向を保持して存続、1830年の七月革命に際しては革命側に加担した。七月王政期に再組織され、20歳から60歳までの、地租を支払い、もっぱら秩序と王制の維持に関心をもつ有産市民から構成され、内務大臣と各県知事の命令下に置かれた。31年のリヨンの場合のように反乱側につくこともあったが、パリでは共和主義者の暴動鎮圧に利用されることが多かった。48年の二月革命後、第二共和政臨時政府によって組織の民主化が図られ、参加資格は全市民に拡大され、兵員も4倍に増加した。これに伴い、組織内部のブルジョアと労働者との対立が激化、同年6月の労働者の暴動時には、多くの大隊が政府側にたって鎮圧に協力した。51年12月2日の大統領ルイ・ナポレオンのクーデター後、政府が国民軍組織の結成、停止、および士官の任免権を握り、翌年の第二帝政の成立とともに組織は完全に体制内化された。[桂 圭男]

パリ・コミューン期

パリの国民軍が労働者を主体とする民衆の武装自治組織という性格を帯びるのは、1870年のプロイセン・フランス戦争を契機としてである。相次ぐ敗北のなかで民衆地区にも大隊の結成が認められ、9月4日の第二帝政崩壊後、組織は254大隊、約30万人に膨れ上がり、籠城(ろうじょう)戦中は国防政府の早期講和路線に反対して徹底抗戦を主張した。71年1月末の休戦条約締結後、国民軍連合を結成、中央機関の国民軍中央委員会が3月18日の民衆反乱後パリの支配権を握り、市政選挙を管理、3月28日パリ・コミューン(評議会)を成立させた。その後中央委はコミューン評議会との内部対立を深めたが、5月末のコミューン崩壊後、8月30日の法律によって国民軍は正式に制度として廃止された。[桂 圭男]
『Louis Girard La Garde Nationale(1964, Plon, Paris) ▽リサガレー著、喜安朗・長部重康訳『パリ・コミューン』上下(1968、69・現代思潮社)』

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世界大百科事典内の国民軍の言及

【戦争】より

…こうして戦争を行う権限は国王に独占されていくが,高価な軍隊の損耗を恐れたため絶対王政時代の戦争には徹底的な殲滅戦(せんめつせん)が少ない。
[国民軍の登場と近代戦]
 職業軍人によらない国民軍の形成には,国によってはなはだしい差がある。フランスでは農民に特権を与えて出役させる免税弓兵の制が試みられた(1445)が定着しなかった。…

【徴兵制】より

… 徴兵制は,国家防衛の観念が国民全体に普及し,国民が平時においても兵役義務を受け入れるような国民統合の条件のもとで可能となる。近代軍隊の端緒であるフランス革命時の国民軍は,絶対君主を打倒した国民主権の観念と革命防衛の愛国的ナショナリズムが結合することにより生まれたものであった。ナポレオン率いるフランス国民軍のプロイセン傭兵軍に対する勝利(1806年のイェーナの戦)は,徴兵制が世界に広がるきっかけとなった。…

【パリ・コミューン】より

…すなわち,パリの革命化を恐れプロイセンとの和平を欲していた国防政府は,パリ民衆の徹底抗戦の要求の前にしだいに統治能力を喪失し,パリの各地区において既存の権力が機能しなくなるとともに,それにかわって各地区の民衆の直接民主制に基づく局地的権力が形成されていったのである。 9月4日以後の民衆運動の核になったのは,国民軍とさまざまな政治クラブであった。国民軍は,9月初めには60大隊であったが,同月末には260大隊まで増加した。…

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