ピアツェッタ(読み)ぴあつぇった(その他表記)Giovanni Battista Piazzetta

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピアツェッタ」の意味・わかりやすい解説

ピアツェッタ
ぴあつぇった
Giovanni Battista Piazzetta
(1683―1754)

イタリアベネチア派画家。2月13日ベネチアに生まれ、1754年4月9日同地で没した。木彫家の父親ジャコモや画家アントニオ・モリナーリAntonio Molinari(1665―1727)のもとで修業したのち、ボローニャクレスピGiuseppe Maria Crespi(1597―1630)の門に入り、強い明暗の対比と動的な構図を学んだ。1711年ベネチアの画家組合に登録。『聖ヤコブ殉教』(1717、サン・スタエ聖堂)、『聖フィリッポ・ネリへの聖母の御出現』(1725~27、サンタ・マリア・デッラ・ファバ聖堂)などの初期作品ののち、27年に大作『聖ドメニコの勝利』(サンティ・ジョバンニ・エ・パオロ聖堂)を描き、明るく軽快な画風を確立した。40年代に円熟期を迎え、『女占い師』(1740、ベネチア・アカデミア美術館)、『井戸端リベカ』(1740ころ、ブレラ美術館)などには生き生きとした賦彩と堅固な構成とがみられ、ティエポロとともに18世紀ベネチア絵画を代表する画家となった。50年にはアカデミアの初代院長になったが、作風はすでに衰えをみせていた。

[篠塚二三男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ピアツェッタ」の意味・わかりやすい解説

ピアツェッタ
Giovanni Battista Piazzetta
生没年:1682か83-1754

イタリアの後期バロックの画家。ベネチアに生まれ,1703年ボローニャでクレスピのアトリエに学ぶ。11年に帰郷し,多くの注文画を描く。グエルチーノストロッツィなどの作品に学び,対比の強い明暗法を好む。40-50年ころが最盛期。50年ベネチア・アカデミーの院長となる。カラバッジョに発する〈テネブリズモtenebrismo〉の一人とみなされ,ティエポロに影響を及ぼす。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピアツェッタ」の意味・わかりやすい解説

ピアツェッタ
Piazzetta, Giovanni Battista

[生]1682.2.13. ベネチア
[没]1754.4.28. ベネチア
イタリアの画家,挿絵画家。木彫家の子に生れ,生地で A.モリナーリに学んだのち,1703年からボローニャに8年間滞在し,G.クレスピの工房で修業。 11年以後ベネチアに定住,50年にベネチア・アカデミーの初代院長となり,G.ティエポロ,G.ラマ,D.フィデリ,A.マリノッティなどの弟子を育成した。代表作『聖フランチェスコの法悦』 (ビチェンツァ市立美術館) ,『女占い師』 (1740,ベネチア・アカデミア美術館) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ピアツェッタ」の意味・わかりやすい解説

ピアツェッタ

イタリアの画家。ベネチア生れ。ベネチア,ボローニャで学び,カラバッジョの明暗法の影響を受けた。ティエポロとともにベネチア18世紀絵画を代表する画家で,宗教画のほか風俗画や肖像画もよくした。代表作に《聖ドミニクスの栄光》(1727年ころ,サンティ・ジョバンニ・エ・パオロ聖堂天井画),《女占師》(1740年,ベネチア,アカデミア美術館蔵)などがある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android